藤枝 ふじえだ

藤枝織之助家


明治元年支配帳に高知・藤枝織之助家がある。『参考諸家系図』によれば、佐藤甚之丞道房の五男藤枝宮内道定を祖と伝える。道定は重信の治世、寛文中に佐藤六十郎を称して召出され、八駄三人扶持(高三十四石)を宛行われて世子行信の小性を勤めた。のち四季施金二十両を給せられ、同十二年現米二十五駄加増、高百石(算不突合)となった。延宝三年江戸にて殿上元服。藤枝の姓と鉄仙花紋を拝領、併せて二百石を加増せられ高三百石となった。同四年八人加扶持、同六年五十石と加増、天和二年には百五十石を加増、更に同三年にも二百石を加増せられ高七百石(合計七百四十八石、不突合)となり、世子御近習頭となった。元禄十二年三百石を加増せられ高千石九斗となり同十六年隠居、道貞と号した。藩主行信の信任厚く、隠居後も御供登りの相手を勤め享保七年に死去した。『登礎草紙』は信任を得る初めの模様を次のように伝えている。(要旨)道定が十五歳の年の冬、藩主に従って猪狩に出た事があった。手負いの猪が暴れて怪我人も多く出した事件であるが、その猪が幾重もの囲いを破って藩主の面前に突進して来た。近習は狼狽し、為す術を失っていた時、道定は刀を抜き、躍り立って一声を発し、猪の頭を一刀の下に切断、藩主の危機を救った。享年七十二歳から逆算して延宝三年のことである。この事件の直後に殿上元服がなされた様に窺える。高知家格に据えられた時期は未詳である。その跡を元禄十六年嫡子内記道昌が相続、享保二年八朔使者を勤め、同四年死去した。その跡を二弟宮内道啓が末期養子となり順相続した。同二十年桜町天皇の即位の時、京都使者を勤めた。延享四年御供下りの時、道中鬼怒川は乗馬渡りの処を駕籠にて渡った罪により百石を削られ、残九百石となった。宝暦十三年死去した。その跡を嫡子六十郎が部屋住で死去したので、二男内記(のち伊織)道恒が嫡子となり相続した。同十四年広間御番頭、明和三年中丸御番頭などを勤め、寛政五年加判役(家老)となる。同七年依願免となり享和元年死去した。その跡を嫡子良之進(のち宮内)道博が相続した。文化五年家老見習を経て同八年加判役となった。天保四年加判役休息となり、金方百石加増、高千三十二石四斗五升四合となった。右は兼ねてからの高とあるが、三十二石余が加増された時期は未詳である。のち天保十一年に再び加判役となり同十五年死去した。その跡を嫡子内記道彰が病身で退嫡して弘化三年死去したので、道彰の長男六十郎(のち宮内)秀栄が祖父の養子となり天保十五年に嫡孫承祖した。武術に秀で謙信流兵学は免許皆伝の腕であったという。安政元年死去した。その跡を嫡子織之助(のち力穂)道尊が相続。相続の年を士族明細帳は安政四年(明治十一年帳)または安政五年(明治四年帳)と伝えるもののもあるが、藩政時代各資料から質して何れも誤りである。原因は知らない。のち安政六年に身帯改めにより高千石となり、文久三年新田披立改有高三十二石四斗五升四合を加増、高千三十二石四斗五升四合となった。明治十一年の士族明細帳によれば、日影門外小路十七番屋敷に住所が見える。その跡を大俊が相続、当主の喜代氏は東京都に在住する。家紋は鉄扇花、水車、蔦。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の久昌寺にある。

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