安宅 やすみ

安宅正路家


明治元年支配帳に高知・安宅正路家がある。『参考諸家系図』によれば、安宅定右衛門信勝を遠祖とし安宅右近勝矩の二男市郎右衛門勝久を祖と伝える。遠祖信勝は本国を甲斐(山梨県)、本名は武田氏、加賀安宅村(石川県)に住居して在名により氏としたと伝える。しかし、加賀国の安宅村は「あたか」。なぜ「やすみ」かは不明。その長男新七勝周は天正中武者修行をして北国を巡り、北郡奥戸(おこっぺ)村に住居。天正中南部信直に召出され、田名部の内に四百石を知行、のち三戸郡浅水にて死去した。勝久の二男安宅半七勝茂は加賀前田家に仕え、子孫は金沢にあるという。勝周の跡を嫡子沖勝親が相続、のち禄を失い、浪人にて死去した。その子新七勝秀は重直の治世に更に召出され、二人扶持を知行、寛文九年に松前蝦夷蜂起の時、命により松前に渡り、その動静を報告した。その子右近勝矩は部屋住で三戸名久井通代官を勤め、寛永三年、又は明暦二年に父に先立ち部屋住で死去した。浅水宝福寺に葬られた。勝矩には三男あり、長男万右衛門勝通は祖父の養子となり、嫡孫承祖。子孫は三戸給人として連綿し、明治元年支配帳に「二人扶持・安宅万右衛門」で見える。二男市郎右衛門勝久は重信の治世に三戸から召出され、別に現米十駄を知行、寛文九年に松前蝦夷蜂起の時、父と共に命により松前に渡り、その動静を報告した。のち二石加増、五駄二人扶持となり、延宝六年足高新田三十石加増、高五十石(二石合わない)となった。天和元年死去した。三男安宅善兵衛勝通は寛文十三年五戸通扇田村ほかに野竿新田五十石を知行、三戸給人となり、明治元年の支配帳には「二十四石六斗二升五合・安宅末治」で見える。勝久の跡は天和元年に嫡子定右衛門(のち市郎右衛門)勝平が相続、元禄七年に足高新田三十石、次いで二十石を加増せられ高百石となった。宝永七年にまた新田九十九石余を加増、高二百石となり、正徳四年新田五十石を四男安宅市進勝吉に分地(のち収禄)、高百五十石となった。毛馬内通代官を勤めた。武芸では新当流剣術を白石与陸義周に師事して師範となり、永田進親庸に伝え、享保五年死去した。勝平に弟安宅平右衛門勝寿があり、勝寿は延宝六年雫石通に知行新田五十石を知行、勘定方となった。勝平の跡は享保五年に嫡子定右衛門(のち四郎右衛門)勝政が相続、同十九年に隠居して元文元年死去した。その跡を嫡子登(のち市郎右衛門)勝興が相続した。御使番、牛馬懸御目付、御目付となり、宝暦三年に下野日光本坊修復普請手伝の時、跡御用懸を勤めた。のち御用人となり、宝暦七年金方五十石加増、高二百石となった。武術では宝蔵院流鎌術を矢幅八右衛門政孚に師事して師範となり、古沢清左衛門康伯にその奥義を伝え明和四年死去した。延享元年嫡子兵之丞勝周が部屋住で父に先立ち死去。よって家督は勝周の長男で勝興の孫の兵之丞(のち登)が明和四年に嫡孫承祖した。のち野辺地通代官を勤め明和八年死去した。その跡を嫡子新七郎(のち市郎助、文左衛門、登、中務)克博が相続した。幼少の故に、その叔父安宅郷助が後見を勤めた。郷助は宝蔵院流鎌術を古沢清左衛門康伯に師事して師範となり、今淵弥助康長にその奥義を伝えた。のち克博は天明四年直勤の時、叔父郷助に現米五十石を分配、残り百五十石となった。寛政三年知行地の内沼宮内通渋民村(盛岡市)百三石九斗一升一合の采地を残して雫石通長山村(雫石町)二十一石九斗七升九合、毛馬内通大湯村(秋田県鹿角市)三石六斗一升六合を扶持方に色替、他に四石四斗五合を足高、百五十三石九斗一升一合となった。黒沢尻物留番所番人、御徒頭、御側御目付などを勤め、文化三年金方五十石加増、高二百三石九斗一升一合となった。のち御持筒頭格御側兼帯御側御目付、御用人花巻郡代兼帯御勝手御用懸を勤め、文政八年金方五十石加増、同十年更に金方五十石加増、都合高三百三石九斗一升一合となった。のち御側頭、剣術指南、文政十三年に加判役世子傅役御側頭兼帯御勝手御用懸国産用向となり、天保四年金方百石加増、同六年金方五十石加増で高四百五十三石九斗一升一合となり、同十年家格を高知家格に据えられた。のち又同十三年に金方百石加増、地方五百五十三石九斗一升一合、内金方四百石現米二十石扶持方三十石となった。武術は新当流剣術を今淵秀蔵に師事して師範となり、今淵左市右衛門政識にその奥義を伝え、同十四年死去した。その跡を白石弾正の二男登依勝が養嗣子となり相続した。初め部屋住で小性を勤め、文政十一年養父の昇進に伴い、礼座を高知嫡孫末座とされ、同十三年御刀番小性頭取となった。天保十四年家督、のち御側御用人を勤めた。武術では新当流剣術を上村才六に師事して師範となり、上村武右衛門にその奥義を伝えた。嘉永二年死去した。その跡を嫡子正路が相続、安政元年加判役、同三年退職、同五年再び加判役、万延元年加判役休息、明治元年三たび加判役、同二年盛岡藩権大参事となり、同年辞職した。同十年の士族明細帳では嫡子春海が既に当住であり、同十一年の明細帳によれば、初め下米内村(盛岡市)十六番屋敷に、のち三ツ割村(盛岡市)十八番屋敷に住所が見える。家紋は割菱、抱柏。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院にある。

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