一、津軽右京大夫為信之事

一代で津軽を統一した津軽為信


 南部三郎光行公六男七戸太郎三郎朝実の支流、久慈備前治義三男久慈信濃為治子紀伊信長の男にして、始は久慈弥四郎為信といふ。晴政公に仕へ侫奸利口、津軽に出張して大浦に住し、大浦右京と改、侫辨を以て日々出精加増を得、政信君波岡御城代には大光寺左衛門正親の相役補佐の臣となる。能々諸士の意を執り、諸民に慈愛を施す。政信君の寵臣となり大光寺を密に讒せし故、政信君之を信用し、大光寺反逆の企ありと称し、右京を討手ノ将として大光寺を攻撃、正親無比の〓に死する事残念とは思へども、不慮の討手大勢、如何ともする事なし。折柄瀧本播磨守・下長抗日向守等我は敵を防べし、何方なり遁し無罪の事三戸城へ歎訴致すべしと。正親の信義に任せし津軽を走り、秋田の大舘に潜居せり。瀧木・下長杭等皆討死し、其後は右京は出頭独り、諸事を司り、本北畠臣下と厚く交りを結。諸氏を扱ふに実益を用ゆる。漢の〓の風儀をなせり。此の時九戸左近将監政実、宗家晴継公の世嗣は我なるべしと思ふ所、信直公嗣せ給ふ故、本意なく日頃欝敷思ふ折柄、右京為信逆意を進め内應の約を定め、一族久慈備前・櫛引河内等と徒党を結ぶ。天正十六年政信君を毒殺し、三月十六日卒去なせし故、三戸城には此時九戸党諸所に一揆を起し、其手配り中の事故、早々楢山帯刀義実・南右兵衛長勝の両人を波岡城代として出張せしかば、右京両城代の心根を探り、楢川は勇ありて智足らず、南は才智有て勇足らず。この故に右京蜜に南に進め新役法を以て下を虐けるを初けるに、諸民困窮不服、一揆を企、右京大に時を得、阿党集(ママ)波岡城を襲ふ。城中多分右京に降り防戦難義に及び、三戸城に援兵を乞ふと雖も、九戸一揆に加勢無之、波岡城に下館九兵衛・土岐大和介則其基、同善兵衛則里汗石安芸守長重・同右近長定・同縫殿助長供・汗石杢助長降・同源三郎長範討死。楢山帯刀・南右兵衛、三戸城に帰る故、右京為信志を得て、諸士に依功恩賞を厚くし、津軽四万五千石押領せしなり。三戸城には九戸逆意徒党多き故、津軽に兵を出す可き様なく、延々になりにける。天正十八年九戸政実宮野城に籠り、三戸勢之を囲み、日々合戦止む時なし。此時太閤秀吉公北条征伐として関東に下向あり、是まで殿下へ不通の輩は皆征伐の風説相聞得たる故に、右京密に上京縁を求めて近衛前関白前久公を頼り嘆願せしかば、前久公御承諾せられ、祖父尚通公落胤の孫に被成下、藤原姓杏葉牡丹の御紋所まで賜り、秀吉公への吹挙の御書持参して小田原御陣所へ下り、秀吉公に謁し、津軽郡四万五千石の安堵書を賜り、従五位下右京亮と被成下、首尾残る所なく調ひ帰国なせしに、羽州酒田辺に於て信直公小田原参陣に行き逢ける。此時信直公討取らんと思召し処、南遠江直兼御諌申上、其事に不及して帰国して諸臣大に喜び、一郡の百姓服従せり。同十九年には殿下の催促により、九戸攻に出陣あり、文禄年中には名護屋本陣まで百五十人にて参陣し、右京大夫改め、弘前に新城を築て之に住し、慶長五年神君に従ひ、関ケ原出陣軍功あり、上州の内弐千石増禄、合て四万七千石。十二年十二月五日病死、五十八歳。
 馬笑按ずるに、為信は慶弔十二年十二月五日五十八歳を以て京都に病歿す。身の丈、六尺三寸、京都六条川原ら於て火葬し其遺骨は国に下して岩木川の辺なる藤代村に津軽山革秀寺を開基し埋葬せし。法号瑞祥院殿前五品天室源棟大居士、如上明治四十二年十一月十七日附記之。

 為信の長男津軽弥五郎信堅は忠義の人故、父の不忠不義を屡々諌争せしに、更に用へず。自ら不和となり、信堅出奔して七戸在に潜み、農民となり、其三代目は利信公御代被召出、久慈七兵衛良次。寛文五年五拾石を賜り作右衛門と改む。
二男津軽宮内少輔信建は夭卒す。
三男津軽平蔵信牧、改越中守。父遺領を継り、内室神君の御養女、実松平因幡守康元の女也云々云
津軽五郎左衛門信勝  為信弟
津軽友馬助建康    信勝弟
大浦主殿助勝建    信勝二男九戸篭城
乳井大隅守正清
乳井伊豆守
乳井源左衛門
大道寺隼人正
蓬田太郎右衛門
川井左馬助正式
松田大学助
臺坂勘兵衛
川井左京政弥
兼平美作守顕紹
村山七左衛門
原子平内兵衛
川井筑前守正勝
軽氏三左衛門
工藤久膳祐朝
長嶺七右衛門将輝
長嶺七左衛門将勝
西舘右馬允
盛岡主膳
楞尻民部
鶴沼外記
黒澤監物
山下弥右衛門
黒石玄蕃
成田孫三郎
成田次郎五郎
高杉軍曹
山崎孫兵衛
町田嘉助
野呂越後
中畑甚三郎
笹森小次郎
樋口彦五郎
外崎五郎兵衛
三上金大夫
湯口讃岐
大湯次郎右衛門昌吉
大湯彦右衛門昌政
波岡源左衛門親常
棟方太郎八
渡辺左近
奥寺左衛門定正
奥寺右馬助定久   定正男為信に意趣 鉄砲打不果走


                  奥南落穂集改題


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