一、志和家之事

天正十六年、中野修理の謀略で滅亡した一族

 足利泰氏長男尾張守家氏四代斯波尾張守高経弟斯波伊豫守家兼、宗家尊氏将軍に仕へ陸奥奉行となり大崎城に住し大崎左京大夫と改む。奥羽両国の事に預り、其五代孫大崎左京大夫持兼二男左衛門佐教兼、明応元年志和郡の地頭職となり、其男左兵衛尉詮高明応四年に初て下向高清水城に住居し、其男治部少輔経詮、始は孫三郎志和郡は能く平治し、其男民部少輔詮真、始め孫三郎天文十四年岩手郡に兵を出て其地を略し、岩手衆三戸より援兵を得て接戦し、志和方不利して引上る。元亀二年石川左衛門高信君、岩手衆相加り志和に攻来り、大に合戦敗北。是より武威大に衰ふ。其男孫三郎詮基家督せしより我意放蕩、姉婚に高田弥五郎康実といふあり。実は九戸政実の弟にして、南部家と和親の為に詮真縁組に及の事なり。孫三郎我意なる故弥五郎不和、既に害せんと企る故、弥五郎高田を引取岩手郡中野館に住し、中野修理康実と改む。高信君の内命を得て、よりより志和の臣下を語らひけるに、重臣の内には簗田中務詮泰・岩清水右京義教等修理に一味して、諸臣主家に畔へき計略廻しける故、追々党したる者多く、孫三郎此事更に知らず日々驕奢放逸にして人望を失ひ、細川長門・稲藤大炊・岩清水肥後義長等、之を諌むと雖とも用ふる事なき故、諸臣服せず。此時を計り、中野修理よく志和に御手入らるべき催により、天正十六年信直公御出陣。岩手衆魁兵となり、高清水城を囲む。御本陣は陣ヶ岡に屯し給ひける。志和方多く降り、防戦の術も尽果てしにや、夜に乗じて孫三郎詮基逃走りしかば残兵散々になり、討死義死の二三人に過す。夫より孫三郎大ヶ生玄蕃秀重の所に潜み、慶長五年に利直公に仕へ五百石腸り詮直と改む。十九年大坂出陣従兵となり、旧臣の下に立事を恥て御暇を願ひ、直に京都に上り浪人。其男孫三郎は二條殿下に仕へ、斯波式部少輔詮種と名乗り、諸大夫の列に入るといふ。
志和諸臣
雫石和泉久詮   一族後仕松斎三十石
雫石弥右衛門久資 久詮子 五十石
雫石東膳吉久   久詮弟仕政直君九十石
猪去蔵人久道   一族仕松斎五十石
猪去蔵人基久   久道子
岩清水肥後守義長 忠義人討死
細川長門守    忠義死家老
稲藤大炊助    忠義死家老
工藤雅楽允茂道  天正十六年討死
工藤茂右衛門茂正 茂道子仕利直公二十駄
貝志田主馬允
永井八郎延明   天正十六年討死
永井理右衛門通延 延明子 仕政直公五十石
貝志田与三
大迫右近
大迫又三郎
大迫又左衛門
十日市将監光久
伝法寺右衛門
徳田掃部
煙山七郎     主君同く没落
日沼隼人
見前監物
松原半十郎
堀切兵庫助
藤沢花五郎
白沢百助
室岡源兵衛
細越五左衛門
鵜飼主膳正
鵜飼又十郎
鱒澤刑部丞
太田主殿助秀広
太田民部秀氏   秀広子仕政直君三十石
太田長三郎政巴  本和賀士浪人
豊間根内記秀國
曹木田十郎兵衛
川村中務
川村覚右衛門秀徳 仕松斉百五十石
川村作内秀満   仕政直君四駄二人
川村喜助
矢羽々又左衛門正紹
矢羽々内膳正英
矢羽々内膳正資  仕利直公五十石
日戸典膳秀勝
日戸藤六
中村作兵衛秀峰
大川与左衛門基則
大川勘之丞基房  仕利直公十駄

志和主家に畔き中野修理康実の党
大萱生玄蕃秀重 河村四郎秀清文治年中頼朝公より志和郡ヲ腸り以後代々地頭職 明応頃より家衰へ斯波家の重臣となり、秀清十六代孫。中野修理屡進むと雖随はず、天正十六年斯波家 滅亡の時、中野の勧めにより降参、旧領六百五十石安堵す。

大萱生長左衛門秀春 秀重子
川村右近秀久   秀重二男
江柄兵部少輔
川村豊前秀久   仕信直公百石
江柄九郎兵衛次昌 秀久子
江柄斉宮助
手代森大夫秀親  叛主家仕信直公五百石
手代森内膳
中村作右衛門
栃内左近秀綱   三百石 叛主家仕信直公
杤内源右衛門秀晴 左近子
栃内宮内
簗田中務詮泰   叛主家仕信直公家老徒党千石
簗田大学勝泰   中務子
星川左馬助
岩清水右京義教  千石
岩清水蔵人義因  右京子
清水善七郎
乙部治部義説   千石 叛主家仕信直公
乙部長蔵義廉   治部子
乙部兵庫助
大釜薩摩政幸   叛主家信直公五百石
大釜彦右衛門政綱 薩摩子
大釜惣八郎良重  同二男
多田孫右衛門忠綱 叛主家仕信直公四百石
達曽部弥兵衛清綱 多田忠綱子
氏家弥右衛門義方 六十石
長岡八右衛門詮尹 叛主家仕信直公千石
長岡内蔵助央武  八右衛門子
玉井庄兵衛
宮手彦右衛門英清 叛主家仕信直公三百石
宮手彦三郎清貫  彦右衛門子
飯岡弥六郎祐貫  七十石
中島内膳安将   販主家仕信直公三百石
中島源内安晴   内膳子
中島備前入道
小屋敷権之助義長 叛主家仕信直公弐百石
小屋敷修理長和  権之助子
大巻隼人
山王海太郎    叛主家信直公


奥南落穂集改題


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