一、鹿角郡之次第

中世の鹿角は浅利氏が支配

   ※ この説は、南部氏が文治五年以来支配とする通説を否定。浅利氏の支配に置かれていたとする点では異色の説と云わなければならない。しかし、『鹿角市史』は、一時期浅利氏の支配する時代があったことは否定しないが、鎌倉御家人安保・成田氏等の末裔が四十二舘に盤踞し、一揆同心の基に郡内を統治したと説いている。

文治五年頼朝公奥州征伐の時伊達次郎泰衛従兵に鹿角近作と云者、大木戸に討死すとあり、何人なるや不詳。右征伐軍功によりて甲斐源氏武田一族浅利与一義遠に鹿角郡地頭職を給ふ。其男浅利六郎知義下向、鹿角に住し三代浅利太郎義邦といふ。
應永の頃より国人郷士等皆一家をなして浅利大に衰ひ、秋田城介鹿季を頼む。国人等は南部守行公に服従し争戦あり、浅利敗走して秋田に行き、永く臣下となる。其後秋田と南部公と鹿角並羽州比内を争ひ接戦あり。
三戸より一戸の分流長牛太郎左衛門正久、鹿角郡長牛村に住し、長牛弥次右衛門政義。永禄八年秋田城介友季攻来り、鹿角衆内應の者有之、政義男縫殿助友義共に防戦。失利二男与九郎政武討死。政義父子は三戸へ退く。依之桜庭安房守光康出張、秋田勢進退。鹿角郡平定し秋田城介愛季に至り和睦して其男忠次郎季隆内室に信直公姫君を遣さる。天正十五年に父子同年卒。愛季二男安東太郎実季家督し、鹿角穏かなり。慶長六年大光寺左衛門正親花輪城代。十二年北十左衛門直吉鹿角奉行。此時初て銅(金)山穿出、其後花輪城中野吉兵衛元康に給ふ。毛馬内には大湯五兵衛昌光、また毛馬内靱負秀範・毛馬内権之助政次居り、重直公御代大湯城代赤穂(尾)又兵衛、其後大湯は北九兵衛、毛馬内は櫻庭(以下脱落)

鹿角衆の
花輪伯耆守親行    花輪住人 安保氏在原姓又丹治姓共 代々南部家に従ひ晴政公に仕ふ
圓子帯刀延親     花輪親行子   仕利直公三百石
圓子伯耆定親     帯刀子     二百石惣五郎
圓子九右衛門儀親   定親子     三百石没収 七駄二人
花輪次郎種親     一族
圓子右馬允光種    次郎子     九戸一味
圓子金五郎種則    右馬允子    百石
大湯五兵衛昌光    鹿角郡大湯住人 奈良氏代々南部家に従て仕信直公二千石
大湯五兵衛昌忠    昌光子彦六
大湯門之助昌邦    昌忠子     正保中早世断絶
大湯彦三郎昌村    昌吉子     仕津軽
大湯四郎左衛門昌次  昌光二男    九戸一味死
大湯次郎右衛門昌吉  昌次子     仕利直公出奔津軽行
大湯彦右衛門昌致   昌次二男    仕津軽
小技指左馬助宗元   鹿角郡小枝指村住人 安保氏丹治姓 代々南部家に従ひ小枝指村を給
ふ、仕晴政公五百石
小技指小次郎知
   左馬助子
小技指又左衛門茂宗  小次郎子
小技指小右衛門宗勝
柴内弥次郎武貞    鹿角郡柴内村郷士 安保氏在原姓 南部家に従ひ柴内村を給ふ 仕利
直公移岩手郡川又村百石
柴内弥三郎武興    弥次郎子    没収
柴内兵庫親久     弥次郎二男   浪人
柴内又八郎親方    兵庫子     仕政直君三十石没収
柴内又七郎親洪    又八郎(子ヵ) 御徒
柴内理左衛門景弥   又七郎子    出精二百石
柴内平五郎昌武    兵庫二男    六駄二人
柴内与五衛門久就   鹿角郡柴内村郷士 成田氏藤原姓 代々南部家に従ひ仕利直公旧地百

柴内左次郎久慶    与五右衛門子  没収
柴内作右衛門久充   与五右衛門二男 新田百石
柴内与五右衛門久親  作右衛門子   足高合二百石
長内弥兵衛昌茂    鹿角郡長内村郷士 成田氏藤原姓 南部家に従ひ仕信直公二百右没収
長内弥左衛門昌教   弥兵衛子    九戸一味浪人
長内傅右衛門     弥兵衛二男   九戸一味
長内庄兵衛      弥兵衛三男   九戸一味
長内弥左衛門昌興   弥左衛門子   五駄二人
長内治兵衛興昌    昌興子     重信公百石
長内某
大里修理親基     鹿角郡大里住人 安保氏丹治姓 代々南部家に従い九戸一味頭人 落
城降参、三迫に於て誅せらる
大里備前親易     修理子     浪人 秋田に走る
大里左衛門五郎親房  備前子     浪人
大里助右衛門親棟   左衛門五郎子  浪人
大里主膳武上     左衛門五郎二男 仕政直君五十石
大里庄左衛門廣共   主膳子     十駄二人
大里重右衛門廣定   主膳二男    御徒
成田彦右衛門             仕信直公三十五石
湯瀬宮内               仕信直公百石
笹木宗右衛門
風張藤七               仕利直公五十石
折壁主殿
唐牛兵蔵 
原村三十郎


奥南落穂集改題


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