一、雫石戸澤家住居の事

近世大名戸澤家の前史にまつわる傳


 光孝(ママ)平氏兵部大輔平兼盛、奥州岩手郡滴石庄を賜るとあり、其頃より住しや、又源頼朝公兼盛十一代孫飛騨守衛盛に滴石庄給るとあり、此時は旧地を給る事にや。其後代々戸澤舘に住し戸澤氏を称し、戸澤飛騨守氏盛(欠ヵ)元弘ノ乱南朝方北畠顕家卿に従ふ。
 應仁乱後は諸国争乱に至り戸澤(欠ヵ)羽州兵を出し、山本郡北浦城を乗取、此処に移る。衡盛十八代は戸澤飛弾守道盛。其男治郎大輔盛安。天正十八年小田原に参陣。秀吉に謁し四万四千三百石を安堵し盛安卒。実弟家督平九郎光盛。十九年移同郡角舘城。文禄元年肥前名護屋へ出張。播州塩屋に於て卒。盛安実弟家督、右京亮政盛初メ太郎五郎。常陸松岡城に移り四万石。関ケ原・大坂後勤。元和八年羽州最上郡新庄城六万石に移り新田八千二百石増高。雫石には一族住居せしに斯波家掠取られ、戸澤に手塚左京進あり、天正十四年信直公に亡され、戸澤家雫石に絶たり。戸澤支族長山惣右衛門と云。子忠左衛門房金、土川家ノ名跡となって家を興す


                  奥南落穂集改題


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