一、本堂伊勢守親通の事

和賀氏一族本堂氏の動向

   本由緒信憑性は定かではないが、『寛政重修諸家譜』本堂系図の矛盾が鮮明に見えてくる記録であることに相違はない。下記に参考資料を提示す

和賀郡主式部大輔忠頼二男源次郎忠朝、後式部大輔に改む。羽州仙北本堂郷に住し五代本堂左兵衛義長は南朝方北畠顕家卿に従ふ。六代伊勢守親興は足利義満公に謁し本領安堵し、其五代伊勢守親通、天正十八年小田原参陣。旧領七千石安堵し秀吉公に謁し、其男伊勢守親永、慶長五年神君に属し、最上義光加勢出張。小野寺遠江守義通は石田三成の一味、仙北に於て兵を起し、神君の依命出羽勢是を攻撃。本堂之に加り功あり。依之常陸新治郡志筑八千石に移る。其男内蔵助親加、初源七郎。交代旗本に列し、親永弟本堂源兵衛親生、神君に仕へ五百石。御旗本(脱か)親永二男本堂源太郎親相、後源左衛門と改む。小野寺義通一味、仙北篭城没落浪人。慶長八年仕利直公三百石給ふ。其男源左衛門親次弟、分地残弐百石。弟木工兵衛茂晴分地百石。其弟儀右衛門親房は重直公より百俵給ふ。親永三男本堂助兵衛親幸は重直公より百俵給ふ。辞去再帰参百石被下。四男本堂源十郎親寄は戸澤大和守に仕ふ


奥南落穂集改題

【参考】

『参考諸家系図』巻四十二
本堂系図

親永      本堂伊勢守
代々出羽仙北郡の主にして小野寺遠江守に附属す、家康公の時常陸新治郡に八千石を賜ふて御旗本となる江戸屋敷愛宕の下なり

嫡男
親如   本堂源七郎  父に継て交代寄合衆なり  子孫連綿す
二男
親相 又親春  源太郎  本堂源右衛門
仙北郡に生ル、後小野寺遠江守家臣となる。慶長五年遠江守石田三成の乱に党して滅亡す、親相浪士となりて花巻に来る、利直公初め客分として禄若干を賜譜、後岩手郡平笠村に百石和賀郡小山田村に二百石、合三百石を賜譜、慶長八年十月廿日付御黒印御証文あり、御鷹方を勤む、寛文中死   註 子孫連綿として南部家に仕え、明治維新を迎える。


『寛政重修諸家譜』に対比すれば、『参考諸家系図』に見える親永は伊勢守忠親に比定される。
問題はその伊勢守忠親に関する疑問である。
忠親は天正十八年に小田原参陣をして豊臣秀吉に謁見、九戸陣には大谷刑部に属して云々とあり、のち慶長四年和賀郡主和賀氏の家督を相続たというくだりである。領知は陸奥国菊多郡とあるのは、
全く関係がない現在の福島県であり論外である。実は、和賀氏の家系についても諸説錯綜していることは、その通りであるが、『寛政重修諸家譜』の伊勢守忠親時代に相当する時代を伝える『参考諸家系図』の記述は次の通りである。『参考諸家系図』に傍証記録はないではないが、相応の史実があり、『寛政重修諸家譜』よりは歩があると考えるのだが。
平成30年7月7日追記

『参考諸家系図』和賀薩摩守義與譜
天正八年家督、此時まで数代二子の舘(和賀郡・現岩手県北上市)に居して中国(上方)の音信に通ぜず、同十八年三月秀吉公小田原陣の時出陣なきを以て所領を没収せらる。軍監浅野弾正少弼長吉等の下向を聞て、先ず其妻子を仙北に出奔す、同七月十三日稗貫忠広と倶に仙北に出奔す、似田沢に隠る、同十月竊に来て旧臣を集て双子城を攻て抜進て十八ヶ崎城を攻む(註 十八ヶ崎城は後の花巻城 両城ほか、何れも浅野氏の代官が守城)、同十一月信直公軍を率ひて十八ヶ崎城を援けて義與が軍を敗る、同十九年九戸の乱に諸将下向を聞きて、又仙北に出奔す。大鐘原に至て病て死(註 これを和賀一揆と言ふ)
 
嫡子
 主馬義長 或忠親
天正十九年仙北に隠る。後胆沢郡大森に居、慶長五年夏石田三成の乱に乗じて、又旧臣を集め、九月廿日夜花巻城を襲ふ、事ならず岩崎城に籠る、十月十八日利直公城を囲む、時厳寒に依て公軍を施す、同六年春また之を囲む、三月廿六日城陥る、義長大森に走る、伊達政宗捕ひて三月廿四日松山国分寺に害す、二十六、自光院殿零源性微大居士国分寺に碑あり、而して子孫仙台侯に禄仕すと云
 
『寛政重修諸家譜』に伊勢守忠親が、慶長四年に和賀に来て和賀氏の家督を継ぐという、没年は不明としつつも、世子茂親は同年十五歳で徳川家康に拝謁したとも見える。更に年月不詳ながら交代寄合衆に取り立てられたとも見える。しかも、『参考諸家系図』がいう義長(主馬忠親)は慶長六年に戦敗れ、割腹した時を同じくしてである。と意表を突くような伝えを残している。片方は滅亡し、遺子は後に伊達政宗の家臣に取立られるとは云え、将に天国と地獄が併存して様を如何に理解すればよいのだろうか。同じ家の話ではない。理解に苦しむ。なお、伊勢守忠親は天正十九年に大谷刑部に属して九戸陣に従ったとあるが、大谷刑部は、前田利家と共に奥州仕置のため出羽の検地に当たり、その後、伊達政宗の新領となる陸奥国胆沢郡の水沢城及び、同国江刺郡の岩谷堂城の城普請を奉行して居る。これに従ったということであろうか。何れにしても、大谷刑部・前田利家が九戸陣に拘ったとするのは、聊か的がズレた表記と考える。
                              平成30年7月7日追記

『寛政重修諸家譜』巻第百十五
本堂系図
  寛永系図に家傳を引ていはく、頼朝将軍伊豆国に在しとき、伊東祐親が女にしのぴかよひて男子をうめり。その子三歳の時、祐親これを聞ておほいにいかり、其男子をとらへて伊豆の白瀧の淵にしづむ。乳母これをかなしびてひそかにおふて遁くれ、猟田平右衛門尉某(今の呈譜、南部三郎光行に作る)に就てこれを養育し、陸奥国南部の和賀に住し、ひとゝなるゆへ、和賀の御所と号す。その嫡流代々和賀の御所と称す。
  其三男出羽国仙北中郡本堂の城に住するゆへに称号とす。天照太神の霊夢あるによりて、子孫相続て伊勢守と号す。其按に、源平盛衰記を引て、頼朝壮年にして伊豆国に蟄居のとき、伊東祐規が第三の女いまだ嫁せず。頼朝ひそかにこれに通じて男子をうめり。甚これを愛して千鶴丸と号く。三歳のとき祐親京都より伊豆にかへりて千鶴丸を見て、これたが子ぞやとゝふ。其事実をもつてこれをつぐ。祐親平家の責をおそれて大にいかり、家人等をして千鶴をとらへ、伊豆国松川のおく白瀧の淵に、簀まきにしてふしづけとす。後日頼朝祐親をにくみ給ふことは、此故によりてなり云々。これあまねく古来より世人のしれる説なり。しかればその子孫ありといへること、おほつかなしといへども、今しばらくかの家傳を載すといふ。今の呈譜に、頼朝将軍の男千鶴、のちに式部大輔忠頼と称し、陸奥国和賀に住し、和賀の御所と号す。其嫡男某和賀の家督を継、三男伊勢守(はじめ式部大輔)忠朝、母は猟田(或小田島)右衛門尉某が女、承久二年出羽国仙北中郡本堂の城を隔て、これに住するがゆへに、家号を本堂と称す。これより三代が間世系を詳にせす。四代を式部丞忠義とし、正中二年死す。法名義寛。その男を少輔太郎義次とし、其男を伊勢守(はじめ少輔太郎)義胤とし、應永年中足利持氏逆徒を誅するのとき、南部某とゝもに軍功あり。其男を義章とし、その男を源太郎義通とし、其男を源大夫久通とし、其男を伊勢守義安とし、その男を伊勢守義房とす。義親は其男なりといふ。

◯義親 よしちか
 出羽国北浦の城主戸澤某としばしば戦ひて、北浦鶯野にをいて討死す、年四十四
 
 
◯頼親 よりちか  伊勢守
 出羽国金澤の城主某と野口にをいて合戦のとき討死す。年四十四。
 
女子 成岡(今の呈譜波岡)弾正某が考   註 頼親子 朝親同じ
◯朝親 ともちか  伊勢守
 出羽国仙北のうち、成岡(今の呈譜波岡)の城主成成岡弾正某と同国庄内三郡(みこぼり)の城主義氏と合戦のとき、弾正は朝親が姉聟たるにより、加勢として成岡におもむき戦死す。年四十四。
 

◯忠親 ただちか 伊勢守 或和賀をまじへ称す。
 天正十八年三月豊臣太閤北条征伐として関東に発向のとき、忠親小田原に参陣し、謁見す。このとし太閤出羽国増田の城主増田左近某を攻るのときは、大谷刑部少輔吉継が手に属して戦ひをはけまし功をあらはす。十二月十九日太閤より出羽国仙北中郡本堂の本領八千九百八十石餘を知行すべきむね朱印を賜ふ。十九年九戸陣にもまた吉継が手にしたがふ。文禄元年朝鮮の役には、前田肥前守利長に属して、肥前名護屋に赴く、慶長四年陸奥国和賀の嫡流秀親(按ずるに、曩祖忠親が嫡流、其の世系を詳かにせず)病危篤にをよんびて嗣子なきにより、忠親和賀の家督を継ぐ(今呈の旧記、奥州菊田郡郷中差出帳に二萬五千五百五十石餘のこと見えたり、家説に、或嫡流和賀の所領歟、いまだこれをつまびらかにせずといふ)某年死す。

 工藤補注 ここに見る伊勢守忠親は『参考諸家系図』にある薩摩守義與に比定されよう。
しかし、義與は天正十八年に浅野長吉が仕置ために下向途次を聞き、一時仙北へ落ちたのち、旧臣を引き連れ旧領内で一揆を起こしたが、利なく戦い敗れて再び仙北へ落ちる途次病死、とあり、時代的には同時代の両者ではあるが、義與の跡を継いだ人物を『参考諸家系図』は義長(或忠親)に作るが、『奥南旧指録』ほか、『東奥軍記』『和賀一揆次第』(両書は続群書類従所収本)、『奥羽永慶軍記』等は、何れも主馬忠親が継ぐとしている。その忠親は慶長五年に旧領和賀で一揆を起こし、翌六年滅亡している。かたや、伊勢守忠親は慶長四年和賀家の家督を相続、同年嫡子茂親は十五歳で徳川家康に謁見したと言う。まして、伊勢守の所領が奥州菊田郡(福島県)にあったやの所伝がある幕臣本堂氏であるのならば、両者は似通っていつつも他人であることは判然としている。
実は、慶長年間に於いては滅亡した和賀主馬忠親に関連しては傍証史料は幾ばくかは現存している。一方『寛政重修諸家譜』が伝える天正年間以降の出羽に於ける亊歴を傍証する記録が存在するのか、非常に関心がある。   平成30年7月7日追記
 
◯茂親 しげちか 伊勢守 
 本堂の城に住す。慶長四年はじめて東照宮にまみえたてまつる。(時に十五歳)五年上杉景勝御征伐のとき、石田三成謀反のきこえありしかば、御軍をかへし給ふ。このとき津金修理亮胤久、中川市右衛門忠重をもつて景勝が押のため、最上のうち上休に在陣すべきむね仰をかうぷり、後また田中清六某釣命を傳ふるにより、出羽国にかへり、本堂の城をまもる。このとし出羽国小野寺遠江守義道が領内にをいて一揆蜂起す。茂親、六郷兵庫頭政乗とはかりごとを合せて仙北境にをいて戦ふこと二日、賊徒終に降参す。六年正月三日江戸に参勤し、伏見におもむくべきのむねおほせをかうぷり、三月よりかの城を守衛す。六月本堂の旧領をうつされ、常陸国新治郡のうちにをいて八千五百石餘の采地を賜ひ、志筑に住す。九年本多佐渡守正信に属して、江戸御城の堀普請を勤む。十五年より常陸国笠間城を守る。十九年大坂御時に供奉し、元和元年の役には、二条城の留守番となる。二年また伏見城の守衛をつとむ。五年台徳院殿(二代将軍徳川秀忠)洛にのほらせ給ふとき、したがひたてまつる。(下略)

工藤補注 文中に田中清六が散見する。慶長五年当時、南部領内稗貫郡の大迫城は田中清六の長男彦右衛門の持城であり、その甥藤四郎が目代として大迫城に在城していた。和賀主馬忠親が一揆の時、期を同じくして大迫城旧主大迫右近等も大迫城を襲撃。防戦する藤四郎が戦死ことが東奥軍記、奥羽永慶軍記などに見える。    平成30年7月7日追記
 


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