『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)  (二)

小川欣亨

 ここに多くの家来中に、一人の忠実な者がいた。閉伊郡川井村に居住する澤田弓太という、年齢は佐渡より二つばかり上の兄で、家は相応の財産があり、代々楢山家の老役を務めた家柄である。弓太は壮年の頃は側役を勤め、多くは盛岡の屋敷詰であったが、佐渡および帯刀もこの者を信用し常に弓太、弓太と呼んで側近くに召使っていた。佐渡が壮年に達し、父帯刀と南部家の重役勤めになると、楢山家の家計は益々窮迫し、節倹改革の手始めとして、室内の装飾品及び夜具、衣服、調度の華美に属する類を、悉く十三日町三州屋と称する豪商へ売却し、妻子に至るまで絹布等の衣服を禁じた。

 また、知行所収納物取り立ての制を改めた。閉伊郡の知行所は数村に捗(わた)り手数も繁雑なため、従来は代官と称する者を置き、月割り取り立てとなし、その集金を月々、盛岡の屋敷へ飛脚で持参させていた。月に一度の制規であるにも拘らず、二回、三回、五回も行く事があり、その費用も少なくはなく、殊に代官の役所は日々混雑しており、また折々に回村し村々の肝入(きもいリ)宅へ休泊し酒食を貪り、その間賄賂等も行なわれ、上下全体の迷惑となっているので、この代官を廃役として諸取り立てを年に三度、二月、六月、十月の各十日と改めた。屋敷の月々の支払いは盛岡呉服町井筒屋から金米通帳で繰り替えを頼み、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の知行地の物成(ものなり)は同店に納めさせるようにした。屋敷詰めの役人、用人も五名宛(ずつ)であったものを三名宛に改め、臨時に多人数を要する時には加役または仮役を命ずる制度を設けた。役人、用人が知行所通行の砌には役人へは送迎二人、用人へは一人の送迎があったものを、これまた弊害があるということでこれを全廃した。その弊害の一つの例として、盛岡の屋敷へ詰め合いの役人が川井を出立し箱石駅で人馬継ぎ立ての順序であるのに、箱石は楢山領ではないからと鈴久名へ人馬を引連れ、そこで待ちうける送迎人の酒肴接待があるため、箱石を越して鈴久名で人馬を換えるように習慣づけてしまったような類のことである。これらの改正には、澤田弓太が最も与(あず)って力があった。

 元治元年(一八六四)、更に閉伊郡十一ヶ村へ新制度を設け、潤益講と称する会社を組織し、禄を受けている家族と百姓とを問わず、志ある者を会員とし、年三回、二月、六月、十月に諸役銭上納と共に、澤田弓太が担当して運営することとした。これは一口金壱両弐分として、月に二口宛とし、一口は籤(くじ)引きとし、一口は無籤として、この利金一会金壱分宛を付けてこれを渡し、籤なしの分は会合者において事故などがあって需要する会員の緩急を衆評で議決のうえこれを渡すというものである。これにより運転融通をはかり、後年は勿論、差し当り知行所の潤益になり、月壱分弐厘五毛の利子をもって望む者に貸付、借を払わせたので、追々(おいおい)、知行所(ちぎょうしょ)外の者からも申し込みがあって大いに地方の便益となった。後日、佐渡が京、大坂、江戸往復の時も不時の予備金となり、井筒屋の三都支店において、井筒屋善八郎と澤田弓太連署の証書があれば何程(なにほど)も弁用でき、戊辰の役に佐渡が軍器、馬具等を新調して持ち下ることができたのもこの組織によるものである。

 これらの改革だけでは、楢山家の家計は充分には立ちゆかず、一層の収入策を憂慮の結果、藩侯の御勘定奉行照井賢蔵、大光寺悦右衛門の両人へ依頼し、安俵通、高木通、八幡通、寺林通の四ヵ所の村々において、畑高百石を水田に開拓すれば(畑返し)四百石の収益となることがわかった。これを畑返しすることにより、およそ増高八千石に達することになる。畑の元高は南部侯へ上納し、増出高は開拓者に下付されるという成規である。表高故に御手披の姿で、小作地主へは対談済で、北監物を中心に開拓に従事する積りに内定の由を、掛役人から佐渡へ内話があった。

 楢山の家来、花巻飯豊村小原易次郎という者は、年来原野披立(ひだて)に従事し、往時佐渡が幼少であった帯刀時代に野竿高三百八十石を南部侯から下賜されたものを自費披立の積りで右の掛りを申し付けた者であるが、北氏と交渉となり、半分けに申し立てたことがある等を考え、この度の畑返しを北氏から譲られ、その費用七千五百両を予算とし、慶応元年七月、右の費用はすべて家来共が累代の家産を売払っても応分に出金すべしということで、小原易次郎を使いとして、閉伊郡居住の家来共へ申し遣わした。

 この時、同所居住の家来共は花厳院において、楢山家祖先の法事供養のため一同が集合していた。そこへ小原易次郎が到着、その旨を伝えたが、大金のこと故、速答に及びかね、協議のうえ澤田弓太を盛岡屋敷へ出して協議させようと易次郎と同道して盛岡へ到った。そして、右費用のうち八幡寺林の分三千五百両だけを出金し、四千両は御免下されたいと、これは一同の願いである旨を佐渡へ申し出たが、北氏と既に約束したので今更変更しがたいと聴き入れられなかった。ならば兎に角、実地踏査のうえと答に及び、屋敷詰め合いの松尾良八、熊谷徳兵衛、小原易次郎と澤田弓太が同行、実地踏査を実施した。右地方の上等地は百石高で、八幡寺林通は収納米七十駄、安俵と高木通は百駄は確かであろうとの見込に達し、遂に着手に決まった。

 翌年になり、安俵通りに引水の暗溝がほぼ竣工したが、折柄八月五日、家屋も立木も吹き倒す程の暴風となり、五穀は熟せず、米価が俄(にわ)かに騰貴し、ほとんど窮困に及んだ。しかし、中止もできず夫食米四百駄ほど買入れて準備を整え、小原易次郎を頭取とし監督としては藤田源吾、山口祐之進、松尾良八、熊谷徳兵衛、野崎杢兵衛、刈屋其馬等を出張させておいたところ、十二月十九日に安俵および高木通の百姓共が大勢で蓆旗(むしろばた)を押立て、竹螺(たけぼら)を吹いて出張所へ押し寄せ、小屋九ヵ所および諸道具を破毀し、焚用(たきぎよう)に備え置いた薪材(まきざい)を持出し得物となし暴行を働いたので、詰め合いの人と北上川を船で逃げ退いたという珍事が生じた。


 此時、澤田弓太は人夫賄の米、味噌および鉄物諸道具等の調度を備え、暫時川井村へ帰宅中であったので、飛脚をもって盛岡へ招き寄せられ、御勘定奉行大光寺、照并と談判に当った。その内容は、此の一件は御手許(おてもと)、御手行(おんてゆき)の廉(かど)をもって、地方の百姓共から受書をとって話合った結果のものであり、それにも拘らず、このような乱暴な行為は他の諸国に対して御家の御耻辱(ちじょく)にもなり、また非常な損害を被るといった趣の話を両人に対し数回訴えたが、遂に要領を得ず、大目付、御目付へも相談したが、効果はなかった。ここにおいて、佐渡は大いに奮慨し、乱暴の御百姓を悉く捕縛して、以後の懲めにしようかとまでいきまいたが、家来共の考えには、この度の暴動は少将様御代の一揆とは異なるけれども、手荒い仕向があっては、いかなる変を生ずるることか測り難く、いま国家のために御尽力ある名誉は内外でひとしく称賛するところであり、此の一事のために御名折となっては宜(よろ)しくはない。この辺を御覧察のうえ御堪忍下さいと諌めると、佐渡もこれを聴入れた。諺(ことわざ)に「計ることは人に在り、成すことは天に在り」とはこれらを言うものであろうか。この一事は吾が一生の過失であると歎息したということである。

 佐渡は既に藩政の改革は大体、形をなすようにしたが、自分の家政の困難に寝食を安んずることがなく、元治二年〔慶応元年(1865)〕の夏から病気と申し立て、再三の願を以て閏五月に退役となり、以後家政の改革に着手し、畑返しの事業を起こしたが、このような蹉跌(さてつ)を生じ、さらに慶応二年の凶作によって知行所収入も減少し、盛岡の屋敷を維持し難いとの見通しなので、向う五ヵ年間、知行所へ家族を引越すことにし、俄かに家族を取り纏(まと)め、父帯刀および同人妾二人、自分の妻子五人、弟行蔵および女中共、彼是(かれこれ)十七人を同月廿七日未明に出発させ、閉伊郡川井村在住の家来古館直之進方へ引越した。

 このように、内実は困窮を極めている場合にも拘らず、天下の形勢はまさに国家の大事に至らんこととなり、慶応四年正月、佐渡はまた復帰し加判役として上京すべき旨、藩公から命ぜられた。私の利害をもって、公務を辞することはできず、また俄かに家族を盛岡に引越すことになった。この際は澤田弓太病を押して盛岡へ出て、屋敷向万端の仕置を取扱い、この月十一日に父帯刀はじめ家族共盛岡へ着き、佐渡
は十三日に京へ出発した。


 この上京は南部家を代表したものなので、仮に格式を設け、乗馬乗り換え等もあり、鉄砲廿挺、士分三十人、駕籠脇二十人惣人数七十八人で仙台領大河原まで進んだところで事が変わり、盛岡まで呼び返さ
れ、三日間何事かの評定があって、一変して家老職をもっての上京となり、御用人目時隆之進、御目付中島源蔵、御勘定奉行佐々木直作、御物書頭戸来宮助が随行することになった。こうして、佐渡は六月まで京都に滞在し、奥羽同盟実行のため七月帰国の途に就き、大坂から海路をとって仙台へ上陸、仙藩の老職但木土佐に面会して協議し、十九日に盛岡へ到着した。

 秋田藩が同盟に背いたのを攻めようと鹿角口ヘ兵を進め、九月に至り同盟の事破れて謝罪降伏と変じ鹿角口から引き揚げ、同廿六日盛岡の片原の甚平宅を仮の住居として内丸の自宅へは帰らず、とりあえず澤田弓太を盛岡へ呼び出しの書状を、飛脚をもって川井村へ遣わし、その身は藩命を奉じ、世子彦太郎君と共に、秋田表在陣の官軍総監九條殿へ謝罪のため出向した。

 澤田弓太は九月晦日(みそか)朝、盛岡内丸の楢山屋敷へ到着し、詰め合いの役人藤田源吾、小原易次郎から佐渡の直書なるものを受取り披見したところ、その文面に世に一日千秋ということがあるが、一時千秋の思いで汝を待ったけれども、主従の縁浅く遂に面会をしないで秋田へ出立したが、お願いしたいことがある。汝が盛岡へ着いたなら、即日父上はじめ家族共、悉く屋敷から立ち退かせてほしい。なぜなら、我等の首は九條殿下に上げても、死骸は花輪から送ってくるであろう。その時に臨んで家族共の涙を死骸にかけられては黄泉路(よみじ)の障りとなるから、くれぐれもお願いする.次に別封の君公から賜った御書は父上にご覧に入れたうえ、汝の手許に預り置き、我が子孫に渡してくれるようお願いする.
 九月廿八日                    佐渡
                         澤田弓太へ
とあり、別封藩公から佐渡へ下された御書は次のようなものであった。

  涕泣演説
自分儀幼児の時より積年功労挙而不可算、別而此度の苦戦感ずるに余りあり(以下の文字を中略する。後年、此の御書を返上するようにと南部家から交渉があった。親類共協議の末、いまこれを返上するのは、楢山家の子孫が旧君に対する忠勤の一事になろうとの考えで返上を決定した。且又(かつまた)、文中に憚(はばか)るべき意味もあり、ここにその文字だけを中略する)清濁相混するの世真に薄命の限り
 戊辰九月廿八日                  利剛
                        楢山佐渡へ

 澤田弓太は右の書状を披見して、即時に楢山家の近親石亀和左衛門を招き、南部公からの御書と共に三方へ載せ、和左衛門と弓太の二人で帯刀の面前へ持出し佐渡様の御手紙および南部公より賜った御直筆の御書でございますと申し述べた。帯刀は慎んで御書を拝戴し、そのまま弓太に渡して、これを読み上げよと命じたので、弓太は佐渡の手紙および藩公の御書を読み上げた。帯刀は暫く無言ののち、右に対し如何に取計るのかと尋ねられ、弓太は佐渡様の申される御処置に基づいて取計うべきと答え、速かにそのとおりに取計うべきむね帯刀からも申し付けられ直ちに大奥へ知らせた。

 折柄、奥方の居間では、女中が打ち寄り茶飲中のところへ、かくかくの次第に付き速かにお屋敷を立ち退かねばならないと申し伝えたところ、皆々一時に驚き歎き、同音に泣き叫び女中共何れかへ立ち去り、奥方一人居残って前後不覚の様子なので、ひとまずその場を引き下り老女きゑに面談しようと所々を尋ねたところ、便所に臥し転んでいるのを見つけ大声で、苛(いやしく)も佐渡公を生んだ人が、このような未練とは何事ぞ。このような場合に、貴方が気後れしていては、後日の不名誉となりますぞと厳しく忠告したところ始めて心を取直し、それぞれに奥向の取り片付けをして、奥方始め皆々加賀野の下屋敷へ立ち退いた。

 この時に当り、官軍方、秋田人数は零石から盛岡へ入り込むことになり、市中の噂では、盛岡は修羅場となり、殊に秋田人等は鹿角口の返報として、楢山屋敷を打毀し、その家族に乱暴を働くということで、兎に角遠く避けて居るに如かずと、十月九日夜、妙泉寺から岩山を越えて八木田通り、大倉峠を越え、簗川へ立退く予定であった。しかし、路用金の調達について、詰役人小原易次郎と藤田源吾の二人の間に争論があり、到底ものにならないと見て澤田弓太は独断で、夜中に呉服町井筒屋へ赴いたが、官軍に遮(さえ)ぎられ戸を開くことが出来ず、窓口で相談し金参拾両を借用し下屋敷へ駈けていった。そして、澤田重太郎、袰岩熊五郎の両人に供を頼み、夜の明けぬうちに簗川駅中村勇吉宅まで落ち行かせ、翌十日滞在、旅行の準備を整え、川井村の弓太宅まで送り届かせた.但し、佐渡の長女さだ子(貞)は、かねてから毛馬内家へ縁約があったので、四、五日以前申し込み、媒酌人井上佐並が万事取計って急に毛馬内家へ嫁入りをした。

 それはさておき、佐渡は秋田境土深井の百姓家へ到り、ここからの付添の引渡人は御目付横田刈男、佐竹家の受取人は野木右馬之助であり、その百姓家の近傍には多くの人達が集まっており、大声で南部の火付盗人が来たぞ、見てみろ見てみろと声々に辱められた。佐渡は頓着せずに、その家に入るやいなや、上座の中程に突っ立って、刈男々々と喚び、野木右馬之助とやらはどこにいると尋ねると、野木は謹んで拙者でありますと答え、受渡しの手続きを終えて佐渡を伴って引揚げた。聞くところによると、ここへ大勢集まったのは、楢山佐渡に相違ないかどうかを、戦地で顔を見知った者に検分させるためであったとか……。佐渡は鹿角、花輪において切腹、首は九條殿へ上げ、死骸は盛岡へ戻るものと見込み、衣服もその用意をしていたが、秋田に引きつられて行くので支度は不用となり、差しあたり、仕方なく同所の中野(註 南部)吉兵衛という人から鶴御紋付の綿入れを借りて途中の着用とした。


 佐渡の盛岡宅では、既に秋田へ引上げたうえは、家名断絶、邸宅取上げ等は当然のことと覚悟して、諸事すべて澤田弓太の取計いとし家財を取り纏め、八木田新道の万九郎宅、河原町宿駒、鉈屋町高屋惣次郎、鍛治町鍵屋定八等へ持ち賦(くば)り、中の橋、追手の両御門は便利ではあるけれども番士に知人がなく、佐々木権之助が当番の折りに、内々打合せ、毎夜搬(はこ)び出していたが第一広小路御殿の出羽殿から付役大沼道機を通して、毎夜騒々しく不都合であり注意してほしいとのこと。他家と違い縁もあるゆえ、聞耳を潰(つぷ)して依然と取計らつていると、今度は弥六郎の奥方が弓太を呼び寄せ、主人の申し付けで、隣家が毎夜に騒々しいのは御上のご謹慎中に差し支える。宜しく役人共へ申し含めるようにとの事であるので、この旨を心得ありたしとのこと。弓太は答えるに御尤なことであります。しかし、明日にも官軍方から楢山屋敷へ如何様(いかよう)の御沙汰があるかも測りがたく、その時に及んで、南部様が何程憫然(びんぜん)と思し召されても、御救の道はありますまい。只今のうちに、私共にて取扱う分には敢(あ)えて御差し支えないことと考えて見苦しい物がないように片附け、掃除しておこうというわけですから、夜中喧(やかま)しく御耳障りでしょうが、御聞き流しをお願いいたしますと談話中に、弥六郎が帰宅した様子なので、面会したら面倒だと弓太は女中部屋の戸棚へ隠れ、弥六郎が就痩した後で、女中の手引きで表門へ出たところ、深更なので門番が妄(みだ)りに通さないので、止むをえず用人の田口周一郎を頼み、門外へ出て屋敷へ帰ることができた。

 翌晩も例のごとく、諸品を持ち搬んでいたところ、今度は御城から澤田弓太を呼出し、当番御目付足澤右内が言うには、佐渡不在中にも拘らず、夜々高張提灯で騒々しい趣と聞こえる。上様にも特に御謹慎中のことなので、堅く制して取締り致すべきことと言われたので退出の後、大光寺悦右衛門に相談に行ったが相手にならず、御用人島川瀬織へ頼んでも同じことなので山本寛治郎を尋ね、そのわけを述べ、聞き届けを頼んだところ、山本が言うには、貴殿をそのように愚かな男とは思ってもいなかった。そのざまで佐渡殿の輔佐が勤まるか。広小路の腰ぬけが申すこと、また、追手のまんとう(当時、盛岡市中をうろついていた阿呆者のこと。山本が弥六郎を指して馬鹿と言った)が申すことを信じてなどいられる場合かと。弓太答えて、貴下の仰せまでもなく、右二名の申すことを聞かぬ顔をして、毎夜家財を持ち賦りしていたところ、更に御城からお達しがあり、御加談を願いたいと言うと、山本はその御城とは誰の言と思っているのか。女の尻に金箔を塗り付ける程の馬鹿者の申すことを恐れている場合ではない。拙者が聞き届け置くから、心置きなく片付けられるべしと言われたのでこれを力に十分の取り片附けをしたということである。(女の尻云々の事は北監物を指して言ったこと。監物の妹は新渡戸因幡の妻であるが、この度の騒動中、何か狭箱を搬ばせているところを山本が見受けて、このように罵ののしったものである。)

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