近世中興南部信直の死 慶長四年まで


年表・祐清私記の世界
   治承四年 一一八〇
◉ 加々美信濃守三男三郎光行、石橋山の戦いに源頼朝に属して軍功あり、甲斐国 南部領を拝領 南部三郎を称す 母は和田左衛門尉義盛の娘『寛政重修諸家譜』
  文治五年 一一八九
◉ 源頼朝、陸奥国平泉の藤原泰衡征伐の軍を起こす時に、南部光行従軍して阿津 賀志山国見沢にて軍功あり、九戸・閉伊・鹿角・津軽・糠部の五郡を拝領す『寛政 重修諸家譜』
註 現在、この説は否定され、肯定する説は聴かない。可否の説は措いて、新井 白石の『藩翰譜』は、十三代守行の代ヵと問題提起している
◉ 河村四郎秀清、源頼朝の藤原泰衡征伐に従軍、戦功により東岩手三分一、東紫 波数郷の地頭職となり、その一族両郡内に繁栄す 『参考諸家系図』
  建治元年 一二七五
◉「造六条八幡新宮用途支配事」所収「甲斐国」の項に南部三郎入道跡六貫(文)が散見す
  延元二年 一三三七
◉ 足利尊氏征夷大将軍に就く
  延文年中 一三五六〜六一 北朝年号
◉ 尊氏一族、越前之住人斯波尾張守高経の子斯波陸奥守家長、斯波郡を与えられ 岩清水城に入る のち、高水寺之古館へ屋形を造営して移る 家長下向の時簗田・大成厳寺(大庄厳寺)・源正寺(源勝寺)等をはじめ主従十一騎『祐清私記』
註 『参考諸家系図』斯波系図は、明応二年(一四九三)に作る
註 『岩手県管轄地誌』 明治十年岩手県編纂 は 延文中,斯波名伊豫守家兼(管領斯波尾張守高経入道道朝弟)奥州探題職となり大 崎に寄る、その族陸奥守詮持に至り(年月干支詳ならず)其族某(名詳ならず、 旧記に多くは陸奥守家長とし、日本地誌提要に亦以て然りとす、重編応仁記に拠 るに、家長は家兼の兄高経の嫡男にして建武四年鎌倉にて討死し、二男左京大夫 氏経は病にて死し、三男左衛門佐氏頼は遁世し、四男治部大輔義時時家を継て管 領となる 本朝武家評林に載する所も然り、故に家長を以て当城主の祖とするは 蓋し附会の説たらん、故に今、南部家傳旧正録の説に随ふ)に本郡(紫波郡)を 与へ、当城を修して之に置く、其後孫孫三郎経直天正十六年戊子八月、南部大膳 大夫信直の為に亡さる
◉ この時、高水寺城に住居する河村四郎秀清末裔周防秀興(文明の頃の人)、城 を出て中嶋村に移住す 末裔、斯波氏に仕えて大萱生北館を居城とし、大萱生左近 秀定を称す 『参考諸家系図』
明徳二年 一三九四
◉ 十三代守行、山名時氏による京都宇治合戦のとき、北畠顕冬の手に属し上洛
◉ この時、小倉太郎義清三男福士五郎政長、守行に従い登る 『東顕寺誌』
註 『群書類従』武田系図は逸見冠者清光の長男逸見太郎光長譜に号逸見冠者、 また小倉太郎とも云、伯父師光養子云々とあるが、義清は確認できない 福士氏 由緒には諸説あり、福士五郎政長死去 岩手不来方城主先祖 『東顕寺誌』開基 譜傳
応永十八年 一四一一
◉ 南部修理亮光経、戦場に臨み勝利を得ず苦戦している折、祈願一七日の夜、 夢想に神霊が顕れ、明日巳の刻、月山の方から二羽の鶴が飛来し、必勝を将来 するであろうとのお告げがあった。この時、加栴天より九曜の星が降りてきて 膳の上に殞ちた。これを取り、懐にしたところで目覚めた。夢は正夢であった  これにより、双鶴紋を家紋に使用することにした 『八戸家伝記』(要旨)
註 『御系譜』は同様の趣旨を三戸南部氏・守行譜で伝えている。
永享十一年 一四三九
◉ 十四代庄司義政、足利将軍義教が鎌倉公方持氏を退治のとき、軍功あり、 雉子尾と称する太刀を拝領『奥南盛風記』
註 『藩譜拾遺』は、十一代政行の代、延元中(一三三六〜四〇)、後醍醐天皇 より拝領に作る
註 現存の物は寛文中(一六六一〜七三)に復元が計画され、御金具師九藏、御鞘師林藤右衛門等により元文五年(一七四〇)に作成されたものである『雑書』

    文明十五年 一四八三
◉ 十九代通継(十八代時政の長男)死去『寛政重修諸家譜』 年四十八 『南部史要』
◉ 通継の弟彦三郎信時、二十代の家督を継ぐ 『南部史要』
明応年間 一四九二〜一五〇一
◉ 信時隠居、嗣子信義二十一代の家督を継ぐ 『南部史要』
文亀元年 一五〇一
◉ 信義、父に先立ち死去 四十二歳 信時、再び国政を視る 『南部史要』
註 『南部史要』は信義を十九代通継の弟に作り、『祐清私記』の説を入れて、妾腹の兄彦四郎が父通継の跡を相続出来ず謀反に及んだ一件を伝えている、二十代信時死去  『寛政重修諸家譜』
註 年号記載なし 『寛永諸家系図傳』信義弟政康譜は、兄信義早世たるにより 次男たりといへともそのあとを嗣ぐに作る 『寛政重修諸家譜』は信義の死去を文亀三年(一五〇三)五月とす
  文亀三年 一五〇三
◉ 信義弟彦四郎。のち右馬頭政康、兄の死去により二十二代の家督を継ぐ『寛政重修諸家譜』
永正四年 一五〇七
◉ 右馬頭政康死去『寛政重修諸家譜』  年四十七 『南部史要』
◉ この年 右馬助安信、父の跡を嗣ぎ、二十三代となる。『寛政重修諸家譜』
永正五年 一五〇八
◉ 安信死去。金剛院悦山怡公 『寛政重修諸家譜』 享年三十三 『御系譜』
◉ 嗣子彦三郎二十三代の家督を相続『寛政重修諸家譜』
◉ この時足利将軍義晴より諱字を拝領、晴政と称す『御系譜』「大館常興日記」(『後鑑』)
註 初名安政(のちの晴政)『南部系図』
註 武田晴信より贈られるとする異説(『聞老遺事』『南部史要』)あり
註 『系胤譜考』一条右馬亮元義譜は、武田晴信より一字を贈られたのは信直の事に作る

   大永三年 一五二三
◉ 北左衛門佐信愛(初め北吉丸 後 尾張・松斎)、剣吉左衛門尉致愛の子として生まれる 『参考諸家系図』
    大永七年 一五二七
◉ 南部実長十代の孫破切井三河守義実、甲州にて武田信虎のため峰の城にて自害す『身延山縁起』
註 天文十七年 『篤焉家訓』説を参照
   天文五年 一五三六
◉ 晴政の叔父武田靱負秀範、鹿角毛馬内城に入り、毛馬内氏を称す『鹿角志』大圓寺縁起
◉ 津軽の大名は平賀郡は南部(大光寺)遠州経行鼻和郡は大浦信濃守盛信、田舎・奥法郡の二郡は波岡具永の三人と見える 『津軽一統誌』所収「津軽郡中名字」

註 「津軽郡中名字」は(天文五年・同十五年成立の両説がある)
註 南部家三管領は 福士(富士)・安芸・対馬三家の事「津軽郡中名字」 後年 時代により変遷があった

    天文七年 一五三八
◉ 九戸神社 羽黒堂の棟札
天文七年九月十九日 大旦那源政実 禰宜兵部少輔 番匠藤九郎
註 九戸政実は天正十九年に五十六歳で死去したとされている 逆算すれば天文五年の生まれとなる 従って、天文七年には三歳である。政実は元服後の諱であることを考慮すれば、仮に天文七年に元服したとしても、誕生は十二三年前に遡るのが至当であろう かつて昭和四十年代後半に故司東真雄氏が示唆しておられた見解である
    天文八年 一五三九
◉ 晴政の時、三戸城焼亡す この時累代相続の什器證文等焼失す『寛政重修諸家譜』三戸城に火を懸けた赤沼備中、家老奥瀬安芸を仕留めて逃走するが、下斗米九郎左衛門将家のため、諏訪平にて討ち留めらる『御系譜』

註 『南部根元記』(元文六年写本)は、晴政、什器證文等を自ら焼失と伝える
    天文九年 一五四〇
◉ 高信の献策により、その臣舟越修理・金浜円齊をして岩手郡を巡検させる  『祐清私記』
註 『祐清私記』異説は元亀三年
註 『聞老遺事』は、この事を否定しながら『津軽触聞記』に元亀三年説があることを伝えている

  天文十四年 一五四五
◉ 斯波詮真 岩手郡不来方を侵す    『参考諸家系図』
天文十五年 一五四六
◉ 晴政甥信直(弟左衛門尉高信の長子)生まれる 『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『南部信直絵像画賛』
註 『南部叢書』本「南部根元記」同「祐清私記」同「聞老遺事」『南部史要』 等によって晴政従兄弟説が定説のようになっている 註 岩手郡一方井村にて出生。生母は一方井刑部の娘『御系譜』
註 『祐清私記』は一方井刑部を一方井禅門に作る
註 『参考諸家系図』は、一方井丹後に作り、「高信君に従い旧領七百石を賜う 後信直公・利直公に仕え七百石の軍役となる 寛永元年死去と作る
註 信直生母は、永禄九年死去、芝山芳公大禅定尼 名久井法光寺に葬る『参考 諸家系図』

  天文十七年 一五四八
◉ 八戸弾正少弼勝義(勝継とも)死去 。その家族新田左馬助行政の長男彦次郎(のち薩摩守)政義、勝義の遺言により 養嗣子となり家を継ぐ『八戸系図』

註 『祐清私記』は「破切井六郎と申せしが、晴信(甲斐の武田氏)にせばめられ破切井住居不叶、聞に我等惣領家南部殿糠部住居之由(中略)、今の八戸右之破 切井六郎の御子孫之由云々」、また一説(北左衞門進南部系図)は、南部光行六男を破切井六郎実長と云ふ、又南部弥五郎とも身延六郎とも号す、実光同腹甲州之 内破切井知行す、依て家名とす、一族皆奥州に下り、実長甲州に有し処に、其子 破切井六郎と云者安信の御代此国へ下り、八戸の領主工藤将監が継家て則工藤将 監と改名、其後八戸と改、今の八戸薩摩が祖なり
註 『公国史』破切井傳は「信政の子薩摩守信光、其子薩摩守政光、天授二年 (ママ)十二月二十二日武田信虎の為に甲斐峰の城に一族悉く生害す、其孫弥次郎実春天文五年(一五三六)正月十日駿河高圓寺に戦死す、是に於て破切氏亡、 嫡世数二十二世、一本実春を義実の子とす、然れば二十一世なるべし
 註 『公国史』八戸傳では「八戸氏の先は破切井弥六郎義長と云、甲斐の破切井 実長二十三世の孫にして実春の子也、実春、天文五年(一五三六)正月十日武田信虎が為に駿河高圓寺に戦死す、義長難を遁れて甲斐を出奔し漂流す、公國は宗室なるを以て公國に投じて扶を得んとす、従者新田氏、中館氏を僅かに弐拾余人 北國をと木曽路を経て出羽仙北(ママ)より舟に乗じ、此年九月二十日三戸郡八戸の浦に 至る(中略 要旨・根城工藤氏の城を乗っ取り、然る後)使者を三戸に遣して晴政公(三戸南部家二十四代)に事由を訴ふ、晴政公則八戸及田名部高壱万五千五百石を以て義長に封ず、公室の一門となる、且令して氏を八戸と称せしむ、使者帰 て復命す、工藤氏の旧臣等が曰、工藤氏を以て氏を称せずんば城を枕にすとも命 に従はずと、是に依て義長止事を得ずして工藤を称し、名を将監と改む、是より其臣民相和して領中静謐す、漸くに工藤を称し、或八戸と称し、後、終に八戸氏に改むと云、初工藤氏、後醍醐帝より軍功の賞に依て國康の太刀賜ふ、以て家宝とす、一日義長夢に神有て告て曰、國康の太刀名を緋袴と改むべしと、依て後名とす、凡、此義長は今八戸家傳ふる所の系譜に見在せず、是より後弾正直 栄に至迄、其傳統疑なき事あたわず、凡今其家に傳ふる系図、実は上は破切井氏 中葉は工藤氏、後に至て八戸氏と三家の世系を一混して自有する所也、彼斎器・ 什物、臣民の如きは皆工藤氏の物を傳ふ、以て世に■伐す故に、今私に傳を三家に頒ち、但、義長系図になしといへども、時代を以て考ふれば、系譜に称する薩摩守 治義は、則義長ならんか、治義は則工藤長経に継ぐ者也、故に治義を以て統を立 治義卒して其子五郎義継と云、天文八年六月卒す、子なし、族臣新田左馬助行政 長男弾正少弼勝(中略)天文十七年十二月卒す、其子薩摩守政継と云(下略)
 註 『公国史』工藤傳は八戸傳を補足して、天文五年秋根城の城主工藤将秀信兵を興して境を侵し進て浅水を略せんとす、途に急に病みて軍中に死す、秀信子なし、女子壱人有り名を勝と云、秀信の妻、其一族老臣と謀りて曰、今四方事多し 若、殿の死去の事を洩しなば、我家の存亡知るべからす、我婦人なりといへども 暫くの内國中の政務聞て時の変を伺て後、兎も角もなすべし、先ず深く喪を臥せ置べしと、老臣等或は曰、今此時國に主なくして月日を過さんこと却て禍なるべからず、所詮南部殿に降参して、その連枝を乞う請て世継となさば、永く安ずる謀 なるべしと、後室の曰、我家世々人の膝下に立ず、是を以先君にも曾祖の産業を広めんとて思慮を苦免なふるなるに、なんぞ其志を捨て人の下風に立べけんや、 汝等婦人なりとして危む事なかれとて、深く喪を臥し自ら旗下を指揮して四方を 警備す、士衆を二の丸に置、自ら本丸に有りて男子を入れず、堅く守り衆女を率ゆ、九月二十日夜忽然として城中騒ぐ、後室いよいよ本丸の門を堅くして男子を入ず、二の丸火興る、士衆失火として火を防ぐ、時に俄に本丸に男子数人有りて 曰、南部の親族破切井義長と号し、後室に逼りて虜にす、二の丸の兵、彼火の為 に是を知らず、故に一人来りて是を救ふ者なし、義長則鎗を解いて工藤の家を継ん事を要す、後室如何ともする事あたはずして是を許諾す、義長城上より二の丸 の士衆を呼て利害を諭す、是にて秀信の女を妻として工藤の氏を称す、後漸し姓を改む、是に於て工藤氏亡嫡、秀信卒する迄暦数大凡弐百余年(下略)
註 『篤焉家訓』は天正五年(一五七七)とするが、六郎政長(実師行弟、養て為嗣)奥州に下向、系譜を尋て南部之幕下と成、客分として北郡田名部・岩手郡 沼宮内を以領す(甲州乱逆に依て累代の領と旧舘退散す、委は八戸系図に云)然るに八戸旧古之領主工藤将監藤原秀信卒て無嗣子、女子一人有、名を勝と云、破切井六郎政長為入聟、八戸一圓に領して八戸弥六郎政長と号す、又曰、光行公六男六郎実長は八戸之祖也、光行公御父遠光公より附与し玉ふ甲州巨摩の郡を実長に譲り、奥州に御下向あり、破木井の六郎は法華宗門を親交して法華宗となる、 法躰して日蓮上人の受戒を得て日圓と云、代々飯野・三牧・破木井の三郷を領す、実長より十代三河守義実、大永七年丁亥(一五二七)十二月廿三日武田信虎のために一門悉く峯の城にて生害す、義実の孫弥次郎実春、天正五年正月十日駿州高国寺にて戦死、此時破木井の家永く滅亡す、往古いつの比にや破木井某、奥州に下り南部に住す、後工藤氏の家を継ぎ八戸氏となる

  天文二十二年 一五五三
◉ 晴継、晴政の嫡子として生まれる 但し『南部史要』説、享年十三をもって永禄八年より 逆算
◉ 稗貫郡主稗貫大和守義時上洛、将軍義輝に拝謁す『蜷川家記』
弘治四年 永禄元年 一五五八
◉ 織田信長、入京して将軍義輝に謁見す
永禄年中 一五五八〜七〇
◉ 北信愛、父の家を嗣ぎ、剣吉村ほかに二千五百石を拝領す『参考諸家系図』
永禄三年 一五六〇
◉ 織田信長と今川義元、桶狭間にて合戦す
永禄六年 一五六三
◉ 光源院殿御代當参衆并足軽以下衆覚 永禄六年諸役人附 『群書類従』 関東衆の項に南部大膳亮(晴政ヵ)奥州。九戸五郎(政実ヵ)奥州二階堂が併記されて散見す
◉ 晴政(二十四代)死去、耀山熈公大禅定門 『御系譜』『寛政重修諸家譜』
註 『南部史要』は天正十年説を採る。没年に多数の異説あり、ちなみに南部藩史編纂局(明治十年代後半に南部家内に設立された)の記録は永禄二年正月二十四日説、永禄六年正月四日説、同年三月十六日説、同年三月十八日説、同十二年三月十六日説、元亀三年八月四日説、天正八 年正月四日説等を記載し、
信直公以前の御系譜、はなはだ不審のみこれあり、治定の勘考さらにこれなく候」と嘆息している
◉ 晴政、年号記載なし 浅水に南長義を、剣吉に北信愛を攻め入る『遠野南部家文書 晴政書状』
註 これは、南長義(信直の叔父)・北信愛(南長義女婿)が、晴政のために命を狙われる高信の子信直を、国器であり殺すに忍びがたしとし、剣吉に庇護したためという『遠野南部家文書』
  永禄八年 一五六五
◉ 正月 晴継死去 芳梢華公 『寛政重修諸家譜』  年十三歳『南部史要』
註 没年に多数の異説あり 南部藩史編纂局の記録から引けば次の通り、天文六年正月二十四日説、天文十六年六月説、永禄六年説、永禄八年正月四日説、永禄八年正月二十四日説、永禄九年説、元亀三年九月説、天正六年正月二十四日説、天正八年説、天正九年説、天正十三年正月説の存在を示し、『聞老遺事』は、ほかに天文十六年六月説などを記録す
◉ 信直、二十六代の家督を継ぐ『寛政重修諸家譜』
◉ 秋田安東愛季、鹿角に侵攻す『長牛系図』『奥南落穂集』
註 『聞老遺事』は永禄九年安東近季に作る。守将南部九郎正友(一戸氏)の石鳥谷城は陥落 石鳥谷城の兵は退いて長牛城(守将長牛
(一戸氏)縫殿介友義)に拠る。また、「三戸より 岩手・田頭・松尾・沼宮内・一方井・堀切・平舘・厨川をして援しめ玉ふ 然も 毎戦我兵利あらず」とも記述している
  永禄九年 一五六六
◉ 安東愛季の兵再び鹿角に侵攻す。谷内城(守将一戸弾正)落城
永禄十一年 一五六八
◉ 世子信直、七時雨路より鹿角に入り、安東愛季を撃退す この時、長牛縫殿介友義の叔父与九郎政武討死す『長牛系図』 
『聞老遺事』は同十二年に作る
  永禄十三年 一五七〇
◉ 晴継 晴政の嫡子として生まれる 但し『南部史要』説により逆算
永禄年中 一五五八〜七〇
◉ 晴政、田子信直と不和ニ付、(中略)、なかんずく、信直、川守田舘にて九戸九郎を鉄炮にて 討ったことを、晴政立腹、信直が根城の八戸政義許に逃れる『参考諸家系図・八戸系図』
註 信直が川守田舘に入った理由には諸説あり
  元亀三年 一五七二
◉ 大仏ヶ鼻城主石川左衛門尉高信、大浦為信のために襲撃され、その城陥落により自刃す 『永禄日記』『津軽一統志』

註 南部家側史書は天正八年説、同九年説を掲げるものが多い。『岩手県史』は元亀三年説を全面的に否定する立場を採る。私見は元亀三年説を肯定するもので、 従って、高信にかかわる元亀二年以降の事件は事件そのものは仮に史実としても 年代の特定については疑問視して対応する必要があるとの考えである
◉ 斯波詮真 岩手郡不来方を侵す『参考諸家系図』
◉ 斯波と南部と百姓納米出入に依て争論。石川左衛門尉高信、紫波表に出陣す『祐清私記』
註 総合的に判断し、高信の出陣は疑問 南部家の紫波侵攻の正当性と、斯波氏を誹謗するために創作された説話と勘考される
◉津軽にて相川掃部・西野内匠の乱あり、 津軽郡代津村某を襲う『南部史要』
天正三年 一五七五
◉ 北十左衛門信景、信連、愛信とも 桜庭安房光康次男として生まれる 註 母は北左衛門尉信愛の妹。のち伯父北信愛の養子となり北十左衛門を称す『参考諸家系図』
天正四年 一五七六
◉ 信直嫡子彦九郎(のち晴直・利正・利直、信濃守)生まれる。『寛政重修諸家譜』
註 『御系譜』など、おおむね「生母家臣泉山出雲妹 法名慈照院」とあるが、 『祐清私記』「信直公奥方平産之事」は「生母を晴政長女に作る 但し、この説 を伝える記録は他に見ていない
◉ 織田信長、安土城に移り、信忠に岐阜城を譲る
天正六年 一五七八
◉ 波岡三郎兵衛尉顕村、津軽為信のため浪岡城で滅亡『北畠氏城墟碑文』外、奥州津軽の南部宮内少輔、御鷹五足進上『信長公記』
註 後世この記録を知った南部家内に、南部宮内少輔は晴政説(『御當家御記録』『南部史要』)・信直説(『南部耆旧伝』)が派生した。但し史実は、織田信長書状(『青森県史』資料編 中世二「下国伊駒 安陪姓家之記 愛季の譜」所収)に「使者愛季之郎従南部宮内少輔季賢」である。 誤解てあることは明かである。これは、三戸南部家の歴代が確定されていないことに起因する問題であると理解しなければならない
  天正八年 一五八〇
◉ 信直、大光寺左衛門尉正親を鹿角郡代とし、鹿角郡内に三千八百石を与える『郷村古実見聞記』

註 この説は天正十八年の誤伝か、もちろん世子信直ではなく、当主信直を意識している記述と考える   天正十八年の項を参照
註 『盛藩年表』は天正八年大光寺光愛津軽郡代となる 天正十八年鹿角郡代の誤 伝ヵ 

  天正九年 一五八一
◉ 晴政の叔父石川左衛門尉高信(信直実父)津軽にて死去 『石井三庵政満覚書』『祐清私記』 『南部史要』
註 『寛永系図傳』に従えば晴政の弟としなければならない
註 『奥南落穂集』は、天正八年高信死去 跡を彦次郎政信相続。石川城より波岡 城に移徙に作る       元亀三年の項参照
◉ 九戸政実謀反の風説あれども、実否慥かならず。時に九戸政実より
八戸政義に逆意を企て加勢を依頼する密書到来す、政義これを信直に伝える 『参考諸家系図・八戸系図』
註 この記述は、前半と後半に矛盾が認められる 後半の記述は信直が当主であることを前提とした記述である

天正十年 一五八二
◉ 大光寺左衞門光愛、津軽郡代石川彦次郎政信(野部直実弟)の後見役となる
註 これにより、後見役は大浦右京為信・汗石隠岐と共に三人となる
◉ 晴継死去説あり。『祐清私記』 年十三歳 『南部史要』永禄六年の項参照
◉ この時、嗣嫡定まらず、群臣議決せず、北信愛が発議により田子信直を後嗣に 議決す『参考諸家系図』
註 年号記載なし 信直、晴継早世によって従弟であるといえども、その家領を継ぐ 『寛永諸家系図傳』信直譜
註 『系図綜覧』略系図には晴政の嗣子晴継の記載なく、晴政の弟高信の子信直と 表記一方、本譜では「政康長男安信、次男高信。安信の跡を晴政、その子晴継、 高信の子信直に作り信直の譜には「彦三郎晴継早世をもって無嗣、(晴継とは 又従兄弟であるが)嫡統に入り嗣ぐ、但し、一通、元禄丁丑年(十年)之春、 依金地院之求」とある。略系図と本系図の記述は統一されていない理由は何故か、関心 がある しかし筆者の関心事は他にもある。流布している南部系図は、基本的には 『寛永諸家系図傳』に基づく系図であるが、補完史料として活用している『南部根元記(何れも写本)に拠って内容を著しく別物にしていることである そもそも 『南部根元記』の原本は既に散逸し、故太田孝太郎氏の考察によれば、元禄初年に四系統の写本があるとされている 細部に及んでみると、内容的には全くの異質本までが 流布している。特にも筆者の関心事は、近世南部系図の中で、傳存最古の系図である『寛永諸家系図傳』は二十五代晴継と二十六代信直が従弟(父同士が兄弟)であると記録するのだが、いつ頃から「又従兄弟
(祖祖父が弟の子)説が浮上している。その時期の解明が今後の課題でる。それを解明する手がかりを明示しているのが『系図綜覧』所収系図の後付に「元禄丁丑年(十年)之春、依金地院之求」である 他に『南部根元記』の類本『元禄記』等があり、共に貴重である
◉ 武田勝頼、自殺して武田家滅亡す
◉ 織田信長、明智光秀のために本能寺を攻められ自殺 織田信忠、同じく二条城で殺される
◉ 豊臣秀吉、織田信長の葬儀を大徳寺で執行す
天正十一年 一五八三
◉ 大永七年(一五二七)に、武田信虎のため峰の城にて自害した破切井三河守義実三代の孫・治郎実春、武田信虎のために信州高岡寺で討死、甲州破切井氏滅亡す『身延山縁起』
註 『公国史』は天文五年とするが、実春の遺児破切井彌六郎義長、父討死の時、 難を逃れて甲斐国を出奔、奥州に下り八戸根城工藤将監秀信の女婿となりと作る 註 『祐清私記』は「破切井六郎と申せしが、晴信(甲斐の武田氏)にせばめられ 破切井住居不叶、聞は我等惣領家南部殿糠部住居之由(中略)今の八戸右之破切 井六郎の御子孫之由、云々」とす
◉ 信直叔父、浅水城主南遠江守信義(はじめ長義・三千五百石)死去 遠江守康義家督  『参考諸家系図』
天正十四年 一五八六
◉ 斯波民部大輔詮真の女婿、高田吉兵衛康実、斯波氏と確執となり、三戸に帰る『参考諸家系図』
註 高田吉兵衛康実、実は九戸右京信仲四男にして九戸左近将監政実の弟、幼名九戸弥五郎直実・後直康斯波家に仕え、紫波郡高田村を領して高田吉兵衛を名乗る 『参考諸家系図』
◉ 高田吉兵衛康実、南部家に出仕す、岩手郡中野城を預けられ斯波氏と対峙す、これによって中野修理と改名す『参考諸家系図』
◉ 信直 滴石の手塚左京進を討つ『寛政重修諸家譜』 『祐清私記』
註 『南部史要』は天文九年に戸澤政安を滴石に攻め、政安出羽に出奔に作る
註 雫石地方には、手塚氏について高信のために滅亡した戸澤系庶流と、信直のために滅亡した斯波氏庶流の二流が居ったように伝えられている 私見では、そもそも、高信説は信直の名前が高信に変化したもの。戸澤領を支配していた某氏 が斯波氏に席巻され、雫石地方は斯波領となった。私見の仮説は「信直、滴石の 手塚左京進を討つ」とする手塚氏は、斯波氏庶流が雫石在住時代の苗字。雫石氏は天正年間に信直のために滅亡し、雫石を離散した後に名乗った苗字ではないかとするものである
註 『祐清私記を読む』を擱筆後,『岩手県管轄地誌』は,斯波氏庶流が戸澤系庶流の家に入り婿となり,後孫の時に至り手塚を名乗り,後,南部信直のために滅 亡と伝える。傍証する記録は管見にないが,私見の仮説は否定されていないので 仮説はしばらく,そのままにして置く 24.11.7

◉ 前田利家使者寺前縫殿助三戸に到来す 『南部家文書 前田利家書状』 後、南部家臣となる
 天正十五年 一五八七
◉ 信直 三月北左衛門信愛を使者として秀吉公へ鷹三十一居を献ぜらる『篤焉家訓』
註 秀吉は九州へ出陣中に付、北左衛門信愛は金沢にて前田利家の饗応を受けて帰国す『北松齋覚書』『篤焉家訓』外
◉ 信直 前田利家と起請文を取り交わす  『南部家文書 前田利家起請文』
天正十六年 一五八八
◉ 信直、紫波郡主斯波民部大輔詮元を討つ『寛政重修諸家譜』
◉ 中野修理康実の軍略により斯波氏滅亡す 『参考諸家系図』 中野修理康実、よって紫波郡に二千五百石を加増され、都合三千五百石を知行す『参考諸家系図』
◉ 大萱生玄蕃秀重、主家滅亡に荷担。斯波氏滅亡の後、南部家に帰降。旧領大萱生村外を安堵され、高六百五十石を知行す。寛永十二年隠居。同十八年死去す、妻は斯波民部大輔詮元の叔母『参考諸家系図』
◉ 大光寺左衛門佐光愛、大浦右京為信の讒言により津軽を退去、秋田比内郡山田村に潜居す 『大光寺氏由緒書』
天正十七年 一五八九
◉ 大光寺左衛門佐光愛、秋田安東氏の大館城代前田下総が死去した隙に乗じて同城を略奪 三戸の信直に注進 『大光寺氏由緒書』
◉ 信直 豊臣秀吉より上洛を命ぜらる『聞老遺事』  『南部家書状 年号無し』
◉ 信直宛前田利家書状 『南部家書状 年号無し』 信直の上洛に当たり、浅野長政の指示に従うことと読める
天正十八年 一五九〇
◉ 八戸殿宛浅野弾正少弼長吉書状 豊臣秀次、九戸討伐のため二本松に到着を通達『遠野南部家文書』
◉ 津軽城代楢山帯刀・南右兵衛より注進。大浦右京為信の自立の挙兵を告げると 『参考諸家系図・八戸系図』
註 楢山帯刀は石亀紀伊守信房二男。諱は義実 『参考諸家系図』は、信直公天正 中津軽御城代を勤む 慶長八年死去七十七、一本五十四 室南遠江守長義女
註 南右兵衛について『系胤譜考』『参考諸家系図』は伝えておらず、書翰は遠野 南部家文書の中に数通傳存するが、人物の特定は出来ない
註 『岩手県史』は、弾正少輔慶儀に関連してではあるが、「南家では故意に事蹟 を秘しているのではないか」と南系図を疑問視している

◉ 信直、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣す『寛政重修諸家譜』
◉ 八戸薩摩守政義、信直留守中の三戸城を守る。長男彦次郎(のち弾正)直栄、名代として従軍す 『参考諸家系図』
註 信直 小田原参陣に向け北信愛・同信継を三戸城留守とし、八戸直栄を根城に 南晴義・同康政を浅水城に、北愛一を剣吉城に、毛馬内秀次を毛馬内城に、大光 寺正親を花輪城に沼宮内治部を沼宮内城に、福士政善を不来方城に、中野政康を 高水寺城に置きて警備せしめる『篤焉家訓』 註 『郷村古実見聞記』は天正八年大光寺左衛門光愛、鹿角に三千八百石を下され 花輪郡代となる
◉ 信直世子利直、小田原にて前田利家の烏帽子親にて元服。利字を贈られ利正と号す『御系譜』
◉ 信直世子利直、秀吉の命により蒲生氏郷の女と婚姻『篤焉家訓』
註 実は氏郷伯父会津南山之城主(六千三百石)小倉作左衛門行隆女『奥南旧指録』 註 寛文三年死去 九十一歳、法号源秀院殿 二十八代重直の母 蒲生氏
◉ 信直、七月十八日、豊臣秀吉に謁し本領安堵の朱印状を拝領す『寛政重修諸家譜』
註 朱印状の日付 七月二十七日(原本傳存) 但し信直所領の内、津軽三郡は、 既に津軽右京亮為信に安堵されており、南部家の手を離れる『寛政重修諸家譜
◉ 信直宛浅野長政書状 葛西大崎一揆が起きたことを伝達す  『南部家文書 年号なし』
◉ 和賀郡主和賀薩摩義忠、二子城を落居、仙北へ落ちる時に出羽仙北大鐘原で土民に殺さる『和賀一揆次第』
註 『奥南落穂集』は、多田薩摩守義興、出羽仙北田沢に潜居して其十月病死 註 『奥羽永慶軍記』は薩摩守義忠に作る 和賀氏没落す
◉ 稗貫郡主稗貫孫三郎廣忠、花卷十八ヶ崎を出奔、稗貫氏没落『祐清私記
註 『奥南落穂集』は、孫次郎家法また廣忠に、『奥羽永慶軍記』は孫二郎廣忠作 る 子孫仙台伊達家に仕える
◉ 南弾正少輔盛義・同典膳康政兄弟、三戸法師岡にて討死 『参考諸家系図』
◉ 南弾正少輔盛義の跡を弟遠江守直義が相続 三千六百石 『参考諸家系図』
◉ 豊臣秀吉、会津黒川で奥州仕置の令を出す 京都に凱旋す
註 大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・白川義視等を罰し、木村吉清・同清久を大崎 ・葛西氏の旧領に封す 註 蒲生氏郷を会津に封ず
◉ 信直宛浅野長吉書状 葛西・大崎一揆を討伐する旨伝達す 『南部家文書』
天正十九年 一五九一
◉ 前田利家使者内堀四郎兵衛 三戸に到来す『南部家文書 前田利家書状』
註 後 内堀氏、南部家臣となり、のち盛岡築城の時に奉行の一人を勤める『祐清私記』外
◉ 和賀郡主和賀薩摩義忠の遺子、又次郎義忠、旧臣等を集め二子城に挙兵。破れて自殺す 『奥南落穂集』
◉ 九戸方武将七戸国家 一戸城を襲撃す。この時浅野長政の臣、浅野庄左衛門重吉足澤城より援軍、城主北左衛門尉信愛の二男主馬允秀愛一戸城を守る 銃弾を受けて負傷 戦後二千石を拝領『参考諸家系図』
◉ 中野修理康実 兄九戸左近将監政実の一揆に荷担せず、信直に精勤。上方軍を郷導して大功あり、戦後に於ける恩賞の沙汰を固辞、領地に一寺建立を願い出、郡山に長岩寺を建立す『参考諸家系図』
◉ 信直 蒲生氏郷と起請文を取り交わす『南部家文書 蒲生氏郷起請文』
◉ 九戸左近将監政実、九戸城に拠る。豊臣秀次を総大将とし、徳川家康(岩手沢まで進軍)、浅野長政(軍監)、堀尾吉晴・蒲生氏郷等先陣として九戸城を囲む この時、姉帯城・根反城の攻防戦あり、『寛政重修諸家譜』外
◉ 九戸左近将監政実弟彦九郎実親 兄政実等が城を出た後も籠城。奮戦して討死 『参考諸家系図』
註 実親の室は二十四代晴政二女 『参考諸家系図』
◉ 九戸城落城『東奥軍記』外
註 『寛政重修諸家譜』南部信直譜は「九月七日夜、九戸政実、長政の陣に降参す 八日残兵なお城を守るにより、氏郷、直政(井伊)攻城、遂に落城」とす、落城 の日時に諸説あり
◉ 九戸政実等三迫(宮城県栗原市)にて斬首される。『東奥軍記』外
◉ 蒲生氏郷 落城した九戸城を修復 『祐清私記』
◉ 信直 九戸城を福岡城と改め居城とす『御系譜』外
◉ 信直 福岡城を居城とす。利直公元和元年まで二十五年之間 『篤焉家訓』
◉ 浅野長政の臣、内山助右衛門、鹿角・二戸郡等の諸城館を破却す 『祐清私記』
◉ 北左衛門尉信愛隠居。二男主馬允秀愛、その家督を相続す『参考諸家系図』
◉ 信直、和賀・稗貫・志和三郡を拝領、十万石を領す『寛政重修諸家譜』 (失った津軽三郡の替地) 註 志和は内実、南部家附庸となった南閉伊遠野領主阿曽沼氏領知ヵ
◉ 北主馬允秀愛、花卷十八ヶ崎(のちの花卷城)城代となり、前禄を停めて新たに和賀稗貫二郡に八千石を与えらる  『参考諸家系図』
◉ 北主馬允秀愛 世子利直より一字拝領し直愛と改名する『参考諸家系図』
◉ 伊達政宗、出羽米澤から陸奥岩手沢に移封さる
◉ 信直世子利直、十六歳となり、武田の吉例を以て初陣の儀式を行なう『祐清私記』『篤焉家訓』
註 利直は既に小田原の陣という実戦で初陣を済ませている『祐清私記』と整合性が疑問 のち 参勤交代で参府の前、門出の儀式として重臣桜庭屋敷に足を止める仕来りと位置付られた説話ヵ
◉ 豊臣秀吉、諸国に朝鮮出兵を令す
◉ 信直 浅野長政より不来方に新城築城の話を持ちかけられる『祐清私記』
註 築城の時期に関する説は慶長二年説、同五年説、同六年説、同八年説、元和元年説、同三年説、 同五年説などがあり、居城としたのは寛永十二年の事である
天正二十年 文禄元年 一五九二
◉ 中野修理康実二男想吉(のち虎丸・吉兵衛)、福岡城で殿上元服をし、世子利正(のち利直) より一字拝領、正康と号す。のちまた、直の字を与えられ直正と改名す『参考諸家系図』
◉ 八戸弾正直栄、この年ヵ父薩摩守が隠居して家督を嗣ぐ『八戸家系』『参考諸家系図』共に年号を記載せず
文禄初年 一五九二〜九六
◉ 北左衛門尉信愛、尾張守と改名す『祐清私記』
文禄二年 一五九三
◉ 豊臣秀吉、朝鮮に出陣 文禄の役 信直、肥前国名護屋に従軍す。従者百人『浅野家文書』 ◉ 信直、名護屋で伽羅一本 銘「石膓」を拝領す 『寛政重修諸家譜』
◉ 八戸薩摩守政義・彦次郎(のち弾正)直栄、信直出陣中の三戸城を守る
◉ 中野修理康実、居城今崎城で従弟九戸隠岐と歓談中、隠岐に刺される 二日後疵が癒えず死す
註 この時、康実嫡子想吉直正 同席して即座に父の敵を討つ『寛政重修諸家譜』 異変に対して信直より修理康実宛元気附け状(現存)
◉ 中野修理康実遺領の内、想吉直正に三千石、直正の兄高田弥七康仲に五百石を宛行がれる 『参考諸家系図』
文禄三年 一五九四
◉ 豊臣秀吉 伏見城の工を興し、淀城を破却す
文禄四年 一五九五
◉ 世子利直、従五位下信濃守に叙任『寛政重修諸家譜』
◉ 八戸弾正直栄死去 三十五 室信直女千代姫 家督の年不詳 これにより、二弟三五郎(のち左近)直政、兄の家督を相続す『参考諸家系図』
慶長三年 一五九八
◉ 豊臣秀吉死去。遺物雲次の太刀、粮米千石を拝領す『寛政重修諸家譜』
◉ 領内鹿角郡に白根金山発見される。山師、越中滑川の人青山庄左衛門『諸山開立年限』
註 年号記載なし  北十左衛門により発見され。十左衛門金山奉行となる『祐清 私記』その後、寛文九年銅山となる。山師山野目小平次『諸山開立年限』
◉ 花卷城代(郡代とも)北主馬允直愛死去、嗣子なく、その禄を父北尾張守信愛が嗣ぎ、花卷郡代に就く 『祐清私記』
註 直愛室は二十四代晴政五女『御系譜』
慶長四年 一五九九
◉信直死去 三戸聖寿寺(現・三光寺)に葬る 江山心公常住院 享年五十四 『南部系図』外
◉ 信直死去により、北尾張守信愛剃髪して松斎と称す『祐清私記』
◉ 信直嫡子利直、二十七代の家督を相続『寛政重修諸家譜』
◉ 利直 福岡に居住す
註 慶長四年信直公御卒去後利直公福岡に御住居、其後盛岡城御普請出来利直公盛 岡に移り玉ふ、然るに中津川洪水にて度々橋落ち堀へ川水押入是を防ぐに安から ず、利直公再び三戸へ移り玉ふといへども御心不叶、依て将軍家達して郡山に御 在城漸く重直公に至て盛岡城造営成就し寛永十二年移り玉ふ『奥南旧指録』
◉ 利直二男彦九郎政直、盛岡城に生まれる、母は石井伊賀守直弥の女『御系譜』『参考諸家系図』外
◉ 前田利家死去す『寛政重修諸家譜』
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