慶長五年 利直代より著者伊藤祐清の死去の時まで



  慶長五年 一六〇〇 ◉ 関ヶ原の戦。南部利直 東軍に付き 出羽国最上に出陣『寛政重修諸家譜』
◉ 中野吉兵衛直正最上陣に従軍す『参考諸家系図』
◉ 和賀又次郎義忠の遺子主馬忠親、兵数百をもって花巻城を襲う、守将北信愛、防戦して一揆軍を撃退す、和賀初陣 『参考諸家系図』
◉ 北十左衛門 兵五十を率いて花卷城を援軍し一揆勢を撃退す、軍功により名久井森腰舘五百石を宛行われる 『祐清私記』『慶長御支配帳』外
  慶長六年 一六〇一
◉ 和賀再陣 和賀氏滅亡、和賀主馬忠親、仙台国分尼寺にて自刃、同寺に葬らる、子孫仙台伊達家に仕える 『伊達治家記録』『和賀氏系図』外
◉ 和賀主馬忠親挙兵に際し、援軍に当たった伊達家中・水沢城主の臣鈴木討死 岩谷堂城主母帯越中は戦後に徐封ヵ 註 江刺郡岩谷堂城主母帯越中の氏名は『和賀一揆次第』『永慶軍記』外 に 散見するが、『伊達治家記録』ほか、仙台藩の史書には存在しない武将である
◉ 和賀氏子孫仙台伊達家に仕える『和賀一揆次第』外
◉ 楢山帯刀義実 和賀陣の軍功により加増二千石となる『参考諸家系図』
◉ 利直 岸田伯耆守晴澄 関ヶ原の時西軍に応じ、戦後処分により預かる 註 大和郡山城主一万石岸田伯耆守忠武、兵部と同日御預け元和元年病死 七十才卒 寺林光林寺に葬る 伯州子右近、寛文元年病死。無嗣子により断絶『廃絶録』『奥南旧指録』『篤焉家訓』
◉ 利直 丹後国宮津城主宮部兵部少輔 関ヶ原の時西軍に応じた罪により預かる『篤焉家訓』 註 寛永十一年病死、兵部少輔子宮部兵蔵、南部にて出生、寛文四年正月二日病死、兵蔵子宮部千勝大猷院様就御法事、寛文七年七月二十三日御免 直々私家来仕罷在候『内史略』
◉ 利直 尾張犬山城主石河備前守貞清 関ヶ原の時西軍に応じた罪により預かる『篤焉家訓』 註 慶長十九年許されて帰府 五百石御家人となり、のち京都に移り金融業を営み、寛永三年病死という 『内史略』
◉ 利直 伊勢井生川口領主松浦安太夫 関ヶ原の時西軍に応じた罪により預かる『篤焉家訓』
註 寛永五年盛岡で病死 『内史略』
  慶長七年 一六〇二
◉ 白根金山の産金、春頃より土百目に金四五拾目から七八拾目を限り出る 『祐清私記』 註 慶長九年の夏の頃は、みよしと言う小麦あるいは火石、大豆ほどの金入り交じり、樋へもかけず直に俵に入れる。『祐清私記』
  慶長八年 一六〇三

◉ 北信愛 和賀稗貫郡に高八千石を拝領す『参考諸家系図』
◉ 楢山帯刀義実死去 七十七 その跡を五左衛門直隆が相続『参考諸家系図』
◉ 中野修理康実、利直により毒殺される。この時、利直長子彦六郎家直、野田内匠も共に死す 『祐清私記』

註 慶長八年は彦六郎家直の忌日(『御忌日記』)に従った。但、文禄二年、中野修理が従弟九戸隠岐に刺された時に修理へ充てた信直書状(傳存)があり、前後の状況は死亡であり、この事件は誤伝と判断される。類似の事件は寛永元年に家直の弟政直事件がある 中野修理康実の子吉兵衛直正、野田内匠直盛が共に毒死す『内史略』
 
  慶長十年 一六〇四
◉ 徳川家康隠居、世子秀忠二代将軍に就く『徳川幕府家譜』
◉ 領内鹿角と佐竹領の間に境界論争起こる『秋田県所蔵文書』「両境目之内承伝申候覚」 註 以降、頻繁に境論が起こり、幕府の裁定で決着を見たのは延宝五年(一六七七)である
  慶長十一年 一六〇五
◉ 利直嫡子(三男)権平重直、江戸桜田上屋敷にて生まれる『寛政重修諸家譜』
◉ 利直、夏、桜庭安房守に命じて、天正十九年に内山助右衛門が取残した領内の城館破却す「鹿角由来集」
  慶長十三年 一六〇八 ◉ 奥州南部及び松前辺金山ありとて、佐渡より鑿工等競い赴く『徳川実紀』
註 慶長三年・同七年の項を参照
◉ 利直、江戸城天守台普請の手伝いを命ぜらる『朝野旧聞袞稿』
◉ 利直、江戸城内で行われた増上寺弟子廓山と法華宗僧日経の宗論に、外様大名四人の一人として列座する   『徳川実紀』
  慶長十四年 一六〇九
◉ 城下盛岡中津川に上ノ橋を架橋 渡り初めを行う『封内郷村志』外
  慶長十五年 一六一〇
◉ 八戸薩摩守政義死去 六十七歳  『参考諸家系図』
◉ 利直 駿府にて家康に謁し、点茶を賜わり、道阿弥肩衝の茶入を賜う『寛政重修諸家譜』
◉ 城下盛岡中津川に中ノ橋を架橋 渡り初めを行う『封内郷村志』外
  慶長十七年 一六一二
◉ 将軍徳川秀忠、桜田の南部邸に臨駕。『徳川実紀』この時、嫡子重直、秀忠に拝謁す 時に七歳 『寛政重修諸家譜』
◉ 利直二男彦九郎政直に和賀稗貫二郡の内二万石を与え、花卷城に封ず。前郡代北松斎の遺臣を臣属させる。二郡中の制度を任せる 時に十四歳『参考諸家系図』
◉ 中野吉兵衛直正、加増され三千百石を知行す『参考諸家系図』
◉ 利直、禁中仙洞御所の普請を命ぜらる『徳川実紀』『書留』『御當家御記録』『篤焉家訓』外
◉ 城下盛岡中津川に下ノ橋を架橋 渡り初めを行う『封内郷村志』外
  慶長十八年 一六一三
◉ 北信愛、花卷城にて死す。享年九十一、或九十三 節叟忠公大禅定門 花卷雄山寺に葬る
註 北信愛の旧領は没収となり、遺臣ら利直子南部政直の家臣となる。『参考諸家系図』
  慶長十九年 一六一四
◉ 北十左衛門の子十蔵死す 健峯康公禅定門 『祐清私記』
◉ 八戸左近直政・楢山五左衛門直隆、越後高田城(城主松平忠輝)の築城普請を銘ぜられ、越後に赴く、左近直政、工事途中で病死、二十八 『参考諸家系図』
◉ 楢山五左衛門直隆 工事竣工後、将軍家より、銘義助の太刀を拝領す 『寛政重修諸家譜』『参考諸家系図』
註 楢山五左衛門直隆 慶安二年死去『参考諸家系図』
◉ 大坂にて合戦の噂が拡まり、武具の修理が流行る、諸品高騰する中、馬は高値の馬より安値の馬が取引される   『祐清私記』
◉ 大坂冬の陣起きる 利直出陣 人数三千二百九十三人『聞老遺事』
◉ 中野吉兵衛直正、私兵八十六人を率いて大坂陣に従軍す『参考諸家系図』
◉ 北十左衛門、南部十左衛門を名乗り大坂城に入る『祐清私記』
◉ 利直、陣中にて、家康に領内算出の薫陸を献ずる『寛政重修諸家譜』
◉ 利直、徳川家康より駿府にて道阿弥肩付の茶入と虎二疋を拝領『徳川実紀』
註 大方の記録は夏の陣後の話として伝えている
註 虎革を鞍覆に使用した故実、養虎山正伝寺に関しての説話がある

◉ 斯波詮直、南部利直に金の切割衆として従軍 帰陣後南部家を離散 上洛の後、同族出羽最上家に寄食す 『参考諸家系図』
  慶長二十年 元和元年 一六一五
◉ 利直公 福岡城より盛岡城に移り居城とす 寛永五年まで十二年之間 盛岡御城は利直公御縄張、元和三丁巳年御築普請初る 同五年 月御出来栄御移  夫より又三戸へ御帰被成、右之
間三戸は小笠原美濃・野田内匠御城代被仰付御留守居相勤之 『篤焉家訓』
註 『祐清私記』は、大阪参陣は盛岡より出陣としている
◉ 大坂再陣(夏の陣)利直、在国を申渡され出陣せず『祐清私記』
註 家康・秀忠に各馬二十疋を献ずる    『寛政重修諸家譜』
◉ 大坂落城、大坂入城の利直臣堀内主水・難波(南部)左門、利直の内命により千姫を救出す 『篤焉家訓』
◉ 北十左衛門、大坂落城の後、伊勢国松坂で囚われ、盛岡に送られ斬罪に処される 『寛政重修諸家譜』『阿曽沼興廃記』
註 『土屋知貞私記』『大坂陣山口休庵咄』に南部久左衛門が散見する
◉ 利直公元和元年より同(寛永ヵ)五年まで 十二年之間盛岡御城は利直公御縄張元和三丁巳年御築普請初る  『篤焉家訓』
  元和二年 一六一六
◉ 利直 大坂の陣後の帰国に当たり、越前坂井郡新保の船持木材商人久末久五郎 武具・馬具を費用自分持ちで田名部浦まで輸送する これにより七百石積の船一艘分諸役御免となる 『雑書』延宝八年九月条
◉ 利直の五男重信 閉伊郡花輪村(宮古市)に生まれる。幼名を彦六郎
註 のち、盛岡に出で花輪彦右衛門重政を名乗る『御系譜』 『正保三歳山城守重直公御代御支配帳』には、二百石 外に米弐百八拾駄 花輪彦右衛門様と見える
註 所生母は花輪内膳政友の女於松 『公国史』列伝夫人妾伝 『参考諸家系図』花輪系図は花輪内膳政朝女に作り、他に仮屋村勘平の女、箱石縫殿女など諸説がある。

  元和三年 一六一七
◉ 大久保右京教隆、父相模守忠隣の罪に連座して預けらる 『寛政重修諸家譜』
註 寛永五年許されて江戸へ帰る
  元和四年 一六一八
◉ 利直、将軍秀忠の遊猟に御供す。後日殿中で秀忠より銘差取棹(清冶作)の鉄炮を拝領す 『寛政重修諸家譜』
◉ 世子重直、この時従五位下山城守に叙任す『寛政重修諸家譜』
   元和五年 一六一七
◉ 利直 三戸に住居す 『篤焉家訓』 
註 御家御居城 一、盛岡  利直公元和元年より同(寛永ヵ)五年まで十二年之間在城       御縄張元和三丁巳年御築普請初る 同五年 月御出来栄御移       夫より又三戸へ御帰被成       右之間三戸は小笠原美濃・野田内匠御城代被仰付御留守居相勤之 一、郡山  利直公寛永三年より重直公寛永十二年まで拾ヶ年之間在城                                  『篤焉家訓』
  元和年中 一六一五〜二四
◉ 北上川筋、守雄城下大清水に土手を築く 『祐清私記』
  元和十年 寛永元年 一六二四
◉ 花卷城主彦九郎政直、花卷城で毒死す。年二十六 室八戸左近直政の娘
註 この時 中野吉兵衛直正・野田内匠直盛が毒にて伴死す 政直遺臣、皆花卷御給人となる。『内史略』
  寛永三年 一六二六
◉ 利直、八月十九日従四位下に昇り、九月六日、世子重直と共に、将軍家光の上洛に供奉す『寛政重修諸家譜』  供連都合弐千弐百六人『篤焉家訓』
◉ 世子重直、越前大野城主(五万石)松平出羽守直政を烏帽子親として元服。その時、直政の本家(実兄)越前福井城主(五十二万五千石)松平伊豫守忠昌より小袖入りの御挟箱を贈らる『祐清私記』
註 『祐清私記』は、この時十五歳と伝える。しかし、慶長十一年の生まれ(『公子伝』)であるから、当時二十一となり年齢が合わない
◉ 利直 寛永十二年まで拾ヶ年之間、郡山を居城とす『篤焉家訓』 註 『参考諸家系図』当時郡山城に居った中野吉兵衛元康譜   利直公寛永元年十二月家督、幼少に依て旧地の内肥爪村高水寺村に二千石   を賜ふ、同二年四月三日付御黒印あり、同六年郡山城御普請御用地に依て   同郡彦部村赤沢村岩手郡寄木村北森村田頭村に替地を賜ふ   同十一月十日付御黒印有 右の記録から利直が郡山城に居住した時期は寛永六年 或いは普請の進捗を考慮して同七年からと読むのが至当と考える
  寛永五年 一六二八
◉ 利直、江戸城西ノ丸数奇屋にて点茶を賜う『寛政重修諸家譜』
◉ 大久保数隆、父相模守忠隣の無実が晴れて江戸に帰る 『寛政重修諸家譜』
註 忠隣は後年に大番頭・留守居を歴任 南部家の後見として散見す 
◉ 利直、江戸外郭石塁搆造に付普請を命ぜらる『徳川実紀』
  寛永七年 一六三〇
◉ 利直、江戸城西ノ丸山里にをいて御茶を賜う『寛政重修諸家譜』
  寛永九年 一六三二
◉ 二代将軍秀死去。世子家光三代将軍に就く『徳川幕府家譜』
◉ 利直死去 年五十七。月渓清公南宗院と号す 盛岡の東禅寺に葬る 室は蒲生飛騨守氏郷女 『寛政重修諸家譜』
註 南部町三光寺にある御霊屋は青森県重宝に指定されている
◉ 重直襲封、父利直の遣物、一文字の刀及ひ道阿弥肩衝の茶入を献ず 『寛政重修諸家譜』
  寛永十年 一六三三
◉ 重直 盛岡四鎮山の一山岩手山大権現(当時、号田村大明神)の別当寺として大勝寺を建立 『篤焉家訓』
◉ 重直 幕府より筑前福岡城主黒田筑前守の家臣・栗山大膳利章・雖失父子を預かる 
註 大膳は承応元年、雖失は延宝四年に死去、子孫は南部家家臣となる『参考諸家系図』外
  寛永十一年 一六三四
◉ 重直 盛岡鬼門の祈願所として、永福寺を三戸沖田表村より盛岡に移転『篤焉家訓』
◉ 重直 将軍家光の上洛に供奉『寛政重修諸家譜』
◉ 重直 領知の御判物を与えらる『寛政重修諸家譜』
  寛永十二年 一六三五
◉ 重直 居城を三戸から盛岡城に移す『寛政重修諸家譜』
  寛永十三年 一六三
◉ 盛岡城御三階(のちに天守と改称)落雷により焼亡す『盛岡砂子』『盛藩年表』
◉ 重直 幕府より朝鮮との国書改竄事件にかかる規伯叟無方(方長老)を預かる『篤焉家訓』
註 明暦四年赦免して江戸へ帰る『篤焉家訓』 万治四年大坂で死去という
◉ 重直、江戸城城溝疏鑿の普請に付手伝いを命ぜらる『徳川実紀』 註 普請奉行を楢山五左衛門直隆、毛馬内左京直胤が勤める『内史略』 註 毛馬内左京直胤譜には、弁慶堀浚御普請とあり『参考諸家系図』 註 『書留』御普請御手伝は、糀町土橋之下より吉祥寺の下、赤坂之入堀、其外除土地形築立と伝える
◉ 重直 江戸参府の時期を誤って遅参し、蟄居となる。『寛政重修諸家譜』
  寛永十四年 一六三七
◉ 重直 十二月蟄居を免許さる。『寛政重修諸家譜』
  寛永十六年 一六三九
◉ 重直 幕府へ新鶴を献ず。幕府、これを禁裏へ駅進『徳川実記』 以下頻繁に見える
  寛永十九年 一六四二
◉ 重直の弟、花輪彦右衛門重政に三男八弥(初め正信、のち行信)盛岡に生る 母玉山氏
 寛永二十一年 正保元年 一六四四
◉ 領地閉伊郡山田浦に阿蘭陀船漂着。家老七戸隼人・御目付漆戸勘左衛門の二人にて、乗船するもの百二三十人の内十人を捕え幕府に伝える 『寛政重修諸家譜』
 正保二年 一六四五
◉ 盛岡四鎮山の一山早池峯山の別当寺妙泉寺宿寺、内閣文庫所蔵『盛岡城平城図』に寺屋敷として散見
◉ 重直、江戸城総構の堀浚普請を命ぜらる『寛政重修諸家譜』
◉ 楢山五左衛門直隆、内堀織部宣政惣奉行を勤める『書留』御普請御手伝 『参考諸家系図』外
  正保五年 慶安元年 一六四七
◉ 重直の弟花輪彦右衛門重政(のちの重信)、七戸城主七戸隼人正直時の名跡(高二千石)を相続七戸に移り、七戸隼人重政と称す『御系譜』
  慶安四年 一六五一
◉ 将軍家光死去 家綱、四代将軍に就く『徳川幕府家譜』
◉ 将軍家綱の二弟徳川徳松綱吉、上野国館林十五万石の城主となる『徳川幕府家譜』
註 承応二年左近衛厳中将右馬頭となり、綱吉と改名。明暦三年神田橋御殿焼亡により、竹橋御殿に移徙、寛文元年加増されて二十五万石『徳川幕府家譜』
  慶安五年 承応元年 一六五二
◉ 重直世子吉松丸夭死す 『増補国統年表』
  承応二年 一六五三
◉ 重直 大病により 幕府より上使として使番齊藤左源太利政が派遣さる『徳川実紀』
◉ 重直 山田主水殿の長子久松(重猶には甥)を養子と決め、江戸へ迎える道中、仙台領高清水驛にて急死す  『増補国統年表』 
  承応四年 明暦元年 一六五五
◉ 重直 大病を患う 幕府より医師久志本左京常倫派遣さる。危篤状態を脱して平癒『徳川実紀』
  万治二年 一六五九
◉ 重直 堀田加賀守正盛第五子内蔵助勝直を養嗣子とす 母は酒井讃岐守忠勝女 数日後夭死す    『徳川実紀』
 ◉ 重直 普門院浄圓長子直清 を養子とす、翌年夭死す『参考諸家系図』 真偽未確認
  万治四年 寛文元年 一六六一
◉ 重直 三戸辰の口で鹿狩をする。
註 この時、三戸御給人原半十郎兄弟勢子の一人として参加 兄弟、目付塩川八右衛門との間に口論あり、原兄弟、盛岡永祥院で成敗となる。塩川八右衛門、自分に有利な片手落ちな判決と自覚する処があり、殉死を決意するものがあったという『祐清私記』
  寛文二年 一六六二
◉ 重直弟利長死去『御系譜』
◉ 重直、嗣子に恵まれず、将軍家綱に意思を言上す『徳川実紀』
◉ 将軍家綱、重直の意思を請ける旨、南部家家老宛に内意を伝えられ、重直の身上調査あって、弟重信を養子に指名した節あり。『秘記』
   寛文三年 一六六三
◉ 舟越与五郎兄弟、谷村惣兵衛を殺害して秋田へ出奔す『雑書』『奥南旧指録』 譜代と新参諸士の確執の一端 註 『奥南盛風記』に「このような話は数多あり、亡失せり」と見える 註 後日談 寛文四年(一六六四) 福嶋(福島県福島市)に居る舟越与五郎兄弟に、新八戸藩主南部直房および盛岡藩主の世子行信より使者を以て帰国を促す書状伝存す『舟越家文書』
◉ 幕府 殉死を禁ずる『徳川実紀』
◉ 重直母死去  蒲生飛騨守氏郷娘  源秀院『忌日紀
註 水戸家へ源秀院様より御遺物として、天の座の御守小脇差(長九寸五分、袋花色錦)定家と宗祇の取り合いの歌書畳物・御小袖・小脇差・箱物焼金梨地御紋三ツ巴二重箱を贈る 『祐清私記』
◉ 重直 死去 年五十九。三峯宗元即性院と号す。盛岡の聖寿寺に葬る。室は加藤左馬助嘉明女 『忌日記』
・九月十二日 幕府老中より「御跡式いよいよ相違なく仰せ付けらるべく候間、御家中の者騒ぎ申すまじく」との伝達を受ける『秘記』外
・九月廿七日 老中稲葉美濃守より江戸詰家老三人が稲葉邸に呼び寄せられ、申し渡された上意 「重直跡式については存命のうちに願があった通り相違なく忌明後に申し付ける、従って三人のうち一人は早々にまかり下り、諸士の騒擾を仕置いたすように云々」『秘記』外
◉ 重直二弟七戸隼人重政、兄重直の遺跡十万石のうち、盛岡に八万石を相続、二十九代の大統を相続 重信と改名 従五位下大膳大夫に叙任す 兄重直が遺物・備前吉房の刀、及び道阿弥肩衝の茶入を献ず 『寛政重修諸家譜』
◉ 重直末弟中里数馬直房に遺跡十万石のうち、八戸二万石を与えらる『徳川実紀』 註 『柳営日次記』十二月六日条に 南部山城守(重直)、右跡式高十万石之内、八万石隼人、弐万石弟数馬、右は今朝雅楽頭(老中酒井忠清)宅にて舟(舟越)伊豫守并彼家(南部家)家臣毛馬内九左衞門奥瀬治太夫を招き、老中列座、上意の趣を演達、山城守養子願の儀、年来言上におよび仰せ付けらるべきの処、その内山城守死去、弟両人これ有る段御聞きにおよび、同性の間なるによって遺領を分け下さる とある
◉ 重信 嫡子八弥行信を世子とす『御系譜』
◉ 重信 八戸藩に渡した三戸郡之内、櫛引八幡宮境内および、紫波郡四ヶ村之内、盛岡四鎮山の一山新山御隠山(新山寺境内)を飛び地として盛岡領とす 『八戸藩境絵図』『同上関連文書』
  寛文六年 一六六六
◉ 塩川八右衛門 旧主重直の一周忌の日追い腹を切る『参考諸家系図』
◉ 重信 京極丹後高国を預かる『寛政重修諸家譜』   延宝三年病死『雑書』
  寛文十二年 一六七二
◉ 重信 八戸藩との間に建設した藩境塚が完成、絵図の取り交わしを行う 『一件記録』
  寛文十三年 延宝元年 一六七三
◉ 重信 盛岡城本丸三階櫓(天守閣)及び二階櫓の再建に付、幕府より許可を得る 『奥南旧指録』『奥南盛風記』 老中奉書傳存
◉ 盛岡城の西を流れる北上川の川道付け替え普請に付、幕府より許可を得る『奥南旧指録』 老中奉書傳存
註 『郷村古実見聞記』『盛岡砂子』、その他、寛永十二年説を採るが、傳存する老中奉書の差出人老中名から寛文十二年説は誤伝
  延宝四年 一六七六
◉ 重信 盛岡城三階櫓(天守閣)を再建なる『奥南旧指録』
註 天保十三年(一八三八)に御三階を天守と改称す『国統大年譜』
◉ 重信嫡孫隼人実信 行信嫡子 生まれる『寛政重修諸家譜』
  延宝五年 一六七七
◉ 重信 領内鹿角と佐竹領の間の境界論争、幕府の裁定で決着を見る 『一件記録』
◉ 重信 北上川に船橋を架ける この時大久保右京亮数隆を介して幕府の意向を確認している  『雑書』『祐清私記』
 註 この後、洪水との戦いで、渡し船、土橋・船橋の架橋を繰り返す歴史があった。
  延宝六年 一六七八
◉ 重信五孫信恩 行信五男 江戸で生まれる 『寛政重修諸家譜』
註 後の三十一代備後守信恩 幼名藤平 久信 後玉山刑部 『公子傳』 註 生母家士菊池庄兵衛武顕姉 慈恩院『忌日記』
  延宝七年 一六七九
◉ 重信 世子行信の意見を入れて、城内八幡宮造営のため妙泉寺宿寺を加賀野に移転す『篤焉家訓』
  延宝八年 一六八〇
◉ 将軍家綱死去 綱吉、五代将軍に就く『徳川幕府家譜』
註 綱吉将軍擁立に堀田備中守正俊・阿部豊後守正武と、酒井雅楽頭忠清・稲葉美濃守正則が対立の末、綱吉に決定を見る   『徳川実紀』
  延宝九年 天和元年 一六八一
◉ 重信 妙泉寺宿寺の跡地に城内八幡宮の御旅所盛岡八幡宮を建立、盛岡惣鎮守の社とする『篤焉家訓』
◉ 老中堀田筑前守正俊は大老に、阿部豊後守正武は奏者番寺社奉行兼帯から老中となる 『寛政重修諸家譜』
 註 南部家の側から堀田・阿部二氏を視る 重直の養子となって早世した内蔵助勝直は堀田筑前守正俊の五弟
当時、南部家の臣に用人を勤める岸半左衛門が居った この人は、初め館林殿綱吉の家臣であったが、阿部豊後守正武が、綱吉に依願し客分に迎えた人物であった。重直が阿部家を訪問した時に人材として、更に阿部家から貰い請け、同伴して帰った人物と伝えられている
 重信譜 幕府は、諸大名を武城に招き、今度の養君甲府殿・館林殿御両所之内、何れ然るべきと、おのおの趣意を問う。満座の大名互いに見合い、言葉を出す人なし時に、重信公仰せ上げられ候は、館林殿天下を御譲り可くならんか 何れも存念如何候やと申されければ、各一同に南部大膳大夫言上同意に候と申され、これにより館林右馬頭綱吉公武江へ入御これあり、征夷大将軍の勅任あり と言い伝えらる
註 『徳川実紀』その他によれば、酒井雅楽頭等と堀田筑前守等が対決して当日、重信は江戸城へ向かったが殿中に入ることができず、引き返したと記録している 従って右の記録は、何かを誇張した話であろうが、その後の綱吉との親好は尋常ではない 何かがあったものと考えられる

◉ 重信 松平越後光長の家臣小栗十蔵某の子市之助、十三郎を預けらる『寛政重修諸家譜』
  天和二年 一六八二
◉ 重信の代 世子行信により藏入の年貢を検見制を停めて槩歩制とする『雑書』『御家被仰出』
註 安永の頃に変動性の槩歩に改変し、時代は廃藩時に及んでいる
◉ 重信 むれたちて、上野の池の五月雨に、身の毛も薄き五位の白鷺」の歌を詠む (恩賞の催促)
  天和三年 一六八三
◉ 重信 いにし年、五位のぬれ鷺この度は、夏も寒さにまたすくみ鷺」の歌を詠む (恩賞の催促)
◉ 重信 奇しくも、歌を詠んだ日に、従四位下に叙せられ、二万石を加増され高十萬石となる『寛政重修諸家譜』
註 加増された高は花卷二郡(稗貫郡・和賀郡の二郡をいう)の新田高とされている 実態は 稲作地帯 和賀・稗貫・志和・岩手郡は村単位で各村一律に一・七五倍  畑作地帯 閉伊・九戸・二戸・鹿角・三戸・北郡は、同二・五倍 この合計で二万石を構成している
  貞享二年 一六八五
◉ 重信世子行信 将軍綱吉の御前で能興行あり 演目三井寺を仕舞
  貞享三年 一六八六
◉ 岩手山噴火 火砕流の発生によって積雪が濁流と化し角掛村を呑み込む 『盛岡領岩手郡岩鷲山焼崩候記』外
註 山体を田村明神とする山岳信仰があり、藩は京都に使者を派遣して吉田家より正一位岩鷲山大権現の神号を請け山を鎮める神事が行なわれている 『盛岡領岩手郡岩鷲山焼崩候記』外
  貞享五年 元禄元年 一六八八
◉ 重信 幕府へ塩鶴を一箱にして献上する恒例が調進不能となり、代替品として鯛を献上すことになる 『我覚集』
  元禄二年 一六八九
◉ 行信八男利幹生まれる『公子傳』
註 後の三十二代利幹 幼名吉之助・三戸左近尚信 南部主馬信応と改む 『公子傳』
  元禄五年 一六九二
◉ 重信 致仕す 来国次の小脇差、楽阿弥の茶壺を献ず『寛政重修諸家譜』
◉ 行信 父重信の隠居により三十代を襲封。従五位下信濃守に叙任す『寛政重修諸家譜』時に五十一歳
◉ 行信嫡子実信  世子となり従五位下隼人正に叙任す『寛政重修諸家譜』
◉ 行信世子実信  松平伊豫守綱政女と婚礼 同月従五位下隼人正に叙任す『公子傳』
  元禄七年 一六九四
◉ 行信五男 玉山刑部久信 七戸城代となり、二千石を領す(後の三十一代信恩)
元禄十二年 一六九九
◉ 行信 従四位下に叙せられる『寛政重修諸家譜』
◉ 行信 盛岡領大飢饉『御系譜』
◉ 行信 はじめて百姓に自分検見を行わせる『雑書』
註 後世に及んで、時に自分検見の実施が確認されている。 『菅原家所蔵文書』外
 一般に、藩財政破綻を導いた要因は,元禄以降、鉱山資源の枯渇と連続する凶作・飢饉起因と論じられているが、むしろ、自分検見の実施 目先の善政に囚われた処にこそ最大の遠因があったのではないかと考える
  元禄十三年 一六七〇
◉ 行信世子実信  疱瘡により死去 二十五 『寛政重修諸家譜』
◉ 行信五男 玉山刑部久信 兄実信死去に付世子となる
元禄十四年 一六七一
◉ 行信世子久信(後の三十一代信恩) 従五位下備後守に叙任す『寛政重修諸家譜』
◉ 行信世子久信 長門府中城主毛利甲斐守綱元妹元姫と婚礼『公子傳』
  元禄十五年 一七〇二
◉ 行信死去 六十一歳 玉翁宗珊徳雲院 『寛政重修諸家譜』
註 室は毛利和泉守光廣女・熊子 状況元年死去 清浄院殿  『御系譜
◉ 行信世子久信(後の信恩) 三十一代を襲封 南部備後守久信 『御系譜』
  元禄十七年 一七〇四
◉  久信 信恩と改名す 『御系譜』
  宝永四年 一七〇七
◉ 信恩 無嗣子で死去 三十歳   霊厳院殿 東禅寺に葬る 『忌日記』
註 室は毛利甲斐守綱元女元姫  寛保二年死去  真壽院殿 『忌日記』
  宝永五年 一七〇八
◉ 信応(後の利幹) 兄信恩の遺跡 三十二代を襲封す『公子傳』
◉ 信応 松平主殿頭女と婚礼 松平氏同六年疱瘡により死去 牛込法泉寺へ埋葬す『忌日記』
◉ 信応 従五位下信濃守に叙任 『御系譜』
◉ 信賀(後の利視) 叔父信応が家督を襲封の後、先代信恩の遺児として生まれる 『御系譜』
註 後の三十三代南部大膳大夫利視 幼名吉助 信賀 修理大夫信視『御系譜』
註 生母 家士黒沢伝兵衛定治女 享保二十年死去 浄智院殿 『御系譜』
註 養母 阿波徳島城主蜂須賀飛騨守隆長の女春姫 享保十一年死去 仙桂院殿『御系譜』

宝永六年 一七〇九
◉ 将軍綱吉死去 家宣、六代将軍に就く『徳川幕府家譜』
 宝永七年 一七一〇
◉ 信応 阿波徳島城主蜂須賀飛騨守隆長の女春姫と婚礼 『御系譜』(後の利幹)
註 春姫 享保十一年死去 仙桂院殿と号す『忌日記』
◉ 信応 先代信恩の遺児信賀(後の利視)を筋目の嫡子として世子とす『御系譜』(後の利幹)
註 この後、南部家は実子長男の存在に拘らず、先代の長男が「筋目の嫡子」として世子になるという家となった。しかし、利雄の代、「筋目の嫡子」を世子にすることなく自身の長男を世子とし、藩中は揺れ、家老を放討にまでしせしをて擁護したが、結果的に廃嫡とせざるを得なかった。『祐清私記』南部左衛門尉信時家督之事の項に見える、彦四郎の口を借りて「當家累孫嫡男に於ては家を継せず、忽ち命を取らん、あゝ無念や口惜やと歯をくひしばり眼を怒らし火焔の如くなる大息云々」と言わせる。これぞ当時の世相を映した、この時代の偽らざる気持ちではなかったろうか
  正徳二年 一七一二
◉ 信応(後の利幹) 大膳亮と改名す『御系譜』
  正徳三年 一七一三
◉ 領内馬門村と津軽領平内村の間に藩境論争が起こり、幕府の仲裁により決着を見る 『祐清私記』
註 盛岡藩の敗訴で終わる 註 後世、講談などで相馬大作・檜山事件の舞台として有名となったが、実態は全く無関係な事件である
  正徳四年 一七一四
◉ 信応 利幹と改名す
  享保六年 一七二〇
◉ 盛岡藩御用船、浦賀番所(享保五年新設)を通過する時、帆柱の処に立てたいた鎗の存在を咎められる
註 「初代南部光行以来の仕来り」と答え通過した。『篤焉家訓』 この事件を契機に、幕府より通行證文が交付された『篤焉家訓』
  享保九年 一七二三
◉ 利幹実子亀五郎信貞(後の利雄) 江戸に生まれる。 『御系譜』
註 のちの三十四代南部大膳大夫利雄 亀五郎信貞 幼名辰之助 信濃守 のち大膳大夫『御系譜』
註 生母 家士橋本清兵衛清政女 元文五年死去 貞林院殿 『忌日記』 註 養母 初め播磨姫路。後越後高田城主・榊原式部大輔政邦の女国姫 寛保三年死去 本性院殿 『忌日記』

  享保十年 一七二四
◉ 利幹 死去 三十七歳 霊徳院殿 聖寿寺 『忌日記』
◉ 信賀(後の利視) 養父利幹遺跡 三十三代を襲封 従五位下修理大夫信視と改名『公子傳』『御系譜』
◉ 信視(後の利視) 鈞命により榊原式部大輔政邦の女国姫と婚約 翌年婚礼『御系譜』
  享保二十二年 元文元年 一七三六
◉ 信視(後の利視) 遠江大井川普請手伝いを務める『御系譜』 
  元文三年 一七三八
◉ 信視 利視と改名す 『御系譜』
◉ 利視 先代利幹の実長男亀五郎信貞(後の利雄)を筋目の嫡子として世子とす 『御系譜』
  元文四年 一七三九
◉ 利視の世子亀五郎信貞(後の利雄) 加賀金澤城主松平加賀守吉治の女(吉徳)繁姫と婚約翌年婚礼『御系譜』
◉ 世子信貞(後の利雄) 従五位下信濃守に叙任す 『御系譜』
  延享二年 一七四五
◉ 将軍徳川吉宗隠居 家重 将軍宣下す『徳川幕府家譜』
  延享四年 一七四七
◉ 利視 大膳大夫と改める『御系譜』
  寛延二年 一七四九
◉ 利視 信直の神霊を城内淡路丸に勧請 淡路丸大明神と号す(現・桜山神社)『祐清私記』
註 淡路丸大明神の勧請は寛延二年九月と伝えられている 一方、『祐清私記』の著者伊藤嘉兵衛祐清は、『参考諸家系図』に従えば、同年二月に六十七歳にて死去とあり、淡路丸大明神の項は、増補者不明ながら、伊藤氏没後の増補と推考される
◉ 伊藤嘉兵衛祐清 『祐清私記』の著者 死去『参考諸家系図』
  寛延三年 一七五〇
◉ 利視 従四位下に叙す『御系譜』
  宝暦二年 一七五二
◉ 利視 盛岡にて死去 四十五歳 天量院殿  聖寿寺 『忌日記』
◉ 利雄 幕府より美濃国郡上城主金森兵部少輔頼錦を預かる『篤焉家訓』
  宝暦十一年 一七六一
◉ 利謹 従五位下信濃守に叙任す『寛政重修諸家譜』
  安永三年 一七七四
◉ 利謹 嫡を辞す『寛政重修諸家譜』
  天保八年 一八三七
◉ 江戸城登城に際し、行装に鉾を立てることを許可される。使用が中断されているが、「初代南部光行以来の仕来り」により、使用許可を受ける。『思い出草』『御供連御据帳』

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