南部信直の前半生について(疑問) 3  川守田事件の記載諸説


川守田事件の記載諸説

 某年、信直が暴徒に教われ、川守田城に逃れて命拾いをしたという事件があった。『南部史要』は『祐清私記』等を引いたと推察されるが、晴継葬礼の後、信直が帰城の途路に何者かに襲撃されたと伝えている。『南部史要』は活字本であることから、同説は広く知られて、ほぼ定説化した形となっている。諸説あることを紹介する

 川守田城は、永禄中川守田常陸入道の居館であったと伝えられている。現在の城山公園の西方山手・北流する熊原川の下流左岸の丘陵地に位置し、規模は東西約150メートル、南北約100メートル、屋敷型であった(沼館愛三「南部諸城鳬の研究」)が、国道四号線三戸バイパスの開通によってによって、城趾の大部分は破壊されて堀の一部のみが現存する。

      【南部史要】
              第二十六世 信直公

  天正十年正月四日晴政公薨じ、同二十日晴継公また兇漢<のために拭せられ、世子なきを以て人心大に動揺し群議紛々として決せず、十数日を経て尚ほ葬儀を行ふに至らず、二月十五日一族重臣大会議を開く、(中略)北信愛奮然として衆議を排し、田子九郎は嘗て先君の養ひて世子とせるところにして、家系正しく且つ国君の器なり、これを措て誰をか立つべきと、直ちに席を立ち勇士百人に弓、鉄砲を持たしめ、信愛自らこれを率て公を田子館に迎ふ、公少しく躊躇の色ありしも信愛の励ますところとなり、即日三戸城に入りて職に就く、されど人心未だ定まらず、その翌日先君の葬儀を興源院に営めるも、変あらんことを慮り、公その従者に命じて悉く甲胃を着せしめ、且つ北信愛を以て三戸城を留守せしむ、式終り公、帰路につけるは夜陰なりしが路に伏兵あり、左右の樹間より弓矢鉄砲を乱発す、公遁れて川守田常陸の館に入る、敵追ふて至り攻むること急なりしが、公自ら鉄砲にてその敵将と覚しき者を射殺し、城兵また一斉に突出奮戦せるより、敵狼狽して遂に遁走す


 一、元文六年本『南部根元記』晴政との確執信直鷹狩の折とする説

 (晴継が誕生して晴政は)信直わ失はばやと思ふ心つき玉ひにける、信直は家督こそ得さらめたばりとは露程も思ひより玉はず、或時信直家人少々召連、鷹狩に出玉ふに、晴政内々折を窺ひ玉へけれは、幸と悦ひ、剣吉兵衛・金田市久助・福士何某等に命せられ信直をやみ打にし玉はんとす、彼の人々主命とは申なから、筋なき仰なれはさすかに痛わしく思ひて、さのみ火急にも追ひ奉らす、信直急き難を逃れて河森田常陸か舘にかけ入玉ふ、討手の輩信直打もらしぬと聞へしかは、晴政大に憤り玉ひ、自身に御馬出され、彼の舘を攻落さんと真先かけて進み玉へ、門内に打入玉ふを信直窓より指のそき窺ひ給は、案の外的は晴政にて御座す、誰もせよ、我一命をとらんとするは敵なれは、只一鉄炮に打まへらすへきと狙ひ玉ふを常陸見奉、大に驚正敷殿にて御座す、主君と申親と云ひいかでか天理に背き玉へき、只威に鉄炮をうたせ玉へと制し申けれは、信直けにもとや覚しけん、側に進たる武者一騎討落し矢叫し玉ふに、晴政大に驚き給ひ、此城に鉄炮は非しと思ひしに存の外鉄炮を打けるそやも夫は共防とて其身は御馬引返し三戸へ帰り玉ふ、(中略) ○晴継 の死去した事、○悲嘆した晴政は伝来の宝物・記録を焼捨てた事、 ○元亀三年八月四日晴政死去の事、○家督評議の事などが続き、次いで(信直公は)晴政公に一度御養子と成り給へは御家督に立給ふに何の子細有るまじき事なれども、晴政公に悪まれ玉へ、其比は田子に身をひそめて御座しけるに、北殿より進めを得て、軈て三戸の御城に御入有て南部二十六代の家督にそなわり給ひけり、かくて晴政の御葬礼営ませ給んとて萬年山聖寿寺へ送りまへららせ、北邱一片の煙となし、北左衛門佐は三戸御留守主居を勤て、嫡子彦助二男主馬介御供に出らるる、家中も未聢と帰腹の心もなけれは、御供の人々は皆物具にて出られけり。既に御葬礼儀戒事畢て信直三戸へ駕を廻し玉ふ所に、逆意の輩、爰の木陰彼森に隠れて御帰りヲ討奉らんとしたりけれとも、御用心稠しき躰を見てさすか後難をや憚りけん、身を潜めて打出てず、信直難無く御馬を三戸え入られ、家中の面々急ぎ出仕有へき旨諸家中へ相触られ、若異義に及ばば速に註伐有べき由断り玉へは、東中務・南遠江父子を始大方帰服申せられける中に、九戸政実はいかが思われんけん、所労と号し、出仕なされ共敵対の色も立られず、我本城に引蘢てそ有ける、かくて其年も暮て天正元年のはるにかへりぬ。               



二、元文六年本『南部根元記』
                    晴継葬儀の帰路説
        別伝に曰

 (信直公は)北殿より招請を幸と悦ひ玉ひ、軈て三戸の御城に御入有て南部二十六代の家督を御相継なされけり、則晴継の葬礼営せ玉わんとて萬年山聖寿寺え送まいらせ、一片の煙と成奉。北左衛門佐は三戸御留守主を勤て、子息主馬之介御供せられけり、世上の人意未定らざる頃なれは、御供の衆は皆々物具にて出られける。既に御送葬事畢て信直公三戸え駕を廻し玉ふ所に、誰とは知らず逆意の輩道に相待信直の御帰りを討奉らんと、所々の詰り々に簇り弓・錆を射かけしかば、御供の面々思もよらぬ事にては有り、其上小勢にて防戦ふへきやうもなし、漸く黄昏に及て川守田の舘に入せ玉ひぬ。

 亭主川守田常陸入道急き出合請し入奉る、逆意の輩、御をしたへ透間もなく門内え乱入、信直公窓よりのぞき見玉ひて錆しはらく直真向に進む大将と覚しき者を打落し玉ふ。是を見て御供の若侍北主馬之介・金田市久助など我も我もと駈出、散々に切て廻れば逆心の者共たえ兼ねて門外へ引退、城兵勝に乗て寄手四方え追払、城中へ引て入、一揆の徒党は如何思ひけん、其夜重て寄せる事もなかりけり。夜明信直公馬を三戸へ入らる、御家中の面々急ぎ出仕致へき旨相触られ、若異義に及者有らは速に討果すへき旨断玉へは、中務・遠江父子を始各帰服申されける。九戸政実も信直の御事は一家の筋目なれば家督に相立玉ふ事聊も非分にあらず、違背申べきにあらねば御家督の事故なふ静謐に御家中諸士不残出仕申されけり。       



 三、『祐清私記』南部信直公の伝譜の説     二と同類

一、信直公三戸御城え被為入南部二十六代御相続、晴継公之御葬礼本三戸聖寿寺にて御執行、御帰之節九戸方之者共大勢狼藉仕候由、急き、之事故信直様川守田館え(三戸の町はつれ)御駈込御防、館主川守田常陸其外大勢忠節仕候由、寄手を信直様御直々鉄炮にて寄手之大将御討留被成皆々退散し、夫より三戸え御帰城、其後御領分中え御触被成御世継之拝礼御受被成御領分御治被成候由。



 四、南部叢書本『奥南旧指録』巻一       二と同類

 南部九郎信直公(後大膳大夫と申す)三戸の御城に御入有て南部を相継し玉へば、一族老臣諸家中まで何れも違背なく従ひ奉る・則彦三郎晴継公の御葬礼を営み玉ふ、御代々の御菩提所萬年山聖寿寺へ御送りまいらせ北邱一片の煙となし奉る。北左衛門代々三戸御留守居を勤め、嫡子主馬之介信直公を守護し御供せられける、御一門の内にも御供せられぬ方々もおふかりける。既に御葬礼御儀式終りて信直公は三戸へ御駕を廻らし玉ふ所に、誰とはしらず逆心の輩道に相待信直公の御帰りを討奉らんと、所々の詰り々々にささへ弓・鉄炮を打懸しかば、御供の面々思ひも寄らぬ事、其上小勢にて防戦すべき様もなし、漸く黄昏に及ぶ頃信直公川守田が舘へかけ入玉ひぬ。亭主川守田入道急ぎ請し奉り、逆徒等御跡を慕ひ隙間もなく門内へ乱入る。信直公窓よりのぞき見玉ひ鉄炮を取直し暫しためて放し玉へば、真先に進み来りし大将と覚しき者を打落し玉ふ。是を始御供の若侍北主馬之介・金田一久助など我も我もと駈出、さんざんに切廻れば逆心の者共こらひ兼ねて門外へ出ける。城の兵ども勝に乗て寄手を四方へ追ちらし城中へ入る。一揆の徒党はいかが思ひけん重て寄せる事もなかりけり。夜明ければ信直公御馬を三戸へ入らせられ、御家中の面々急ぎ出仕致べき由相触られ、もし異儀におよばば速に討果すへき旨御触有ければ、東中務、南遠江父子を始各帰服いたされける。九戸政実も信直公の御事は一家の筋目御家督に御立玉ふ事聊も非分にあらず、違背申べきにあらざれば三戸へ出仕せられけり、其外誰有て否と申人もなく御家督事故なく静り御家中諸士残らず出仕申されける。



五、『八戸家伝記』   晴継の父であり信直の岳父である晴政との確執とす

        川守田村毘沙門堂

 元亀三年三月三日 信直有宿願、参詣川守田村毘沙門堂。晴政聞之、自亦託参詣、至彼地、将襲撃之、事既臨危急、信直不及



六、『系胤譜考』五と同様、晴政の時代の事件とす。『参考諸家系図』は文中の「政栄」を「政義」に作る。但、両者は同人。『系胤譜考』は、寛保三年、藩命を以て諸士に書上させた系図集。『参考諸家系図』は、文久年間、藩士星川正甫が『系胤譜考』を元本とし、その他諸系図集を以て編纂した私撰系図集 

 八戸政栄譜傳曰、永禄年中信直様田子に被成御座候頃、嫡家晴政様と御不和に付、信直様より政栄御頼被成候処、度々御難を救ひ申由、就中信直様川守田館にて九戸九郎を鉄炮にて御打殺被成候節も、晴政様御腹立強御座候故、信直様田子えの御帰宅を無御心元思召候付、根城え御忍被成御座、御危難御遁被成候由




七、『奥南盛風記』
               天正十九年のことと記録している

        櫛引合戦南弾正同典膳討死之事 

 爰に南部の一族南遠江康義と申せしは、信直公従弟にて知謀深く猛勇なる人なるが、其頃浅水に居城せられける、是へ九戸が下知として櫛引河内攻囲む、去ども城兵金石の勢を振て防ければ、寄手不叶引退く、是に依て南殿・北尾張信愛と調し合、両旗にて櫛引を攻落しと已に南殿は出張有、然るに、信愛先年己が領地と南殿領と境目の出入、内心不和なりしかば、此度の出陣を諾すと云ども、苫米地を控て櫛引に不来、南殿の人数は逢戦といへども、不勢なれば一先引退き野中(法師岡)にて取て返し、追来る敵と戦ひしかど、人数のみ多く討れ、あへなく引退けりる、遠江殿嫡子秀氏(晴政公の女婿信直公と相婿)、二男典膳、いかがしたりけん、引をくれ戦しが、敵大勢に取巻れ、二人とも終に討死す、遠江殿は御子二人共に討れ、勇気も弱り悲嘆の泪せきあへず、此時信直公は三戸馬場の舘に御座有しが、此由を聞玉へ、御愁傷に御袂をしぼり玉ふ、

 爰も無勢なれば叶かたく思召、侍四五人御供にて川守田舘へ入玉ふ、敵いかがして聞けん、櫛引河内十七騎にて追来る、信直公防がたく、已に御自害と見へける、舘主川守田申けるは、是に候三尺五寸の鉄炮二ツ玉こめ、是にて先に進し兵をあそばされ候へ、仮へ若はづれたらん時は一度に打て入べし、其時御生害候へと我身台となりて進め奉れば、信直公即ち鉄炮を打玉ふ、其間二三丁も有し、御運強くも先に進みたる士の真ただ中に当り、後ろに控へし士の高股を通り、二人共に馬より打落され、惣勢ひるみて見へける時、川守田を始、有合人々一度に抜連切かかれば、敵勢忽退散す、信直公は喜び玉へ、後ろの道より忍出、田子に一先帰り玉ふ、(此時の鉄炮、五寸つめ三尺にして川守田の子孫持伝へけるとぞ)

 南遠江守殿は安信公の御弟にて高信公にも御弟也、南殿と称し五戸浅水にて三千石知行有、御子二人討死ニ付、末の御子右馬介直義を家督とす(下略)

 註
1、南殿と称される人物を冒頭では「南遠江康義と申せしは、信直公従弟」とし、結びの処では、「南遠江守殿は安信公の御弟にて高信公にも御弟也」とある。つまり、後者を図式すれば
      (政康)┬安信─(晴政)
          ├高信─信直
          └康義┬秀氏
             ├典膳
             └直義
      康義と信直は叔父甥の関係にあり、冒頭で「従弟」と記載している事と矛盾している。従弟説には寛永十八年に幕府へ書上げた系図に基づく『寛永諸家系図伝』南部系図がある。『寛永諸家系図伝』は、信直の続柄を記載する中において、その父高信は安信の二男としている。
        政康─安信┬晴政─晴継
             └高信─信直
なお、同系図には康義に関する記載はないものの、『寛政重修諸家譜』南部高信の譜は今の呈譜に石川左衞門佐に作り、津軽石川城に居住すといひ、また高信をもって安信の弟とし、高信が弟に長義(註・康義同人)以下の三人を出せり、新呈の譜しるす処くはしきはこれにしたがふべしといえども、寛永系図高信が男、信直が伝に、晴継早世し、信直従弟たりといへどもその家を継ぐといふときは、高信は安信が二男にして晴政が弟たること事証とすべし、よりて専寛永譜に従ひて記す、また長義以下の兄弟にいたりても高信が弟といふをもつてみな安信が子の系にしるす。
      (政康)─安信┬晴政─晴継
             ├高信─信直
             ├長義(註・康義同人)
             ├信房 石亀
             └秀範 毛馬内
 因みに『寛永諸家系図伝』の成立のために南部家が呈譜した寛永十八年は信直没後四十二年の時期である。2、現地の方にお教えいただきたいが、三戸城と川守田城との距離感覚が無視されている記録であるように思えてならない。


八、『九戸記』
               天正十九年のことと記録している

        南少弼同典膳討死之事 

 爰に南部之一族南遠江長義と申は、信直公之叔父にて、知謀深く猛勇なる人成し、其頃浅水に居城せらる、是へ九戸下知と櫛引河内責囲、去共城兵金石の勢を振て防かかれは、寄手不叶引退く、依是南殿・北尾張信愛と牒し合、両旗にて櫛引を攻落さんと、已に南殿出張有る、然るに信愛先年己が領地と南殿領と境目の出入にて、後内心不和、此度之出陣を諾すと云共、人数苫米地に扣て櫛引に不来、南殿は人数を進戦と云共、無勢なれば一先引退き、野中にて取返し、追来る敵と戦しか共、人数多く討れ、間もなく引退ける、遠江殿嫡子秀氏、二男典膳、如何おくれ戦しか、敵大勢に取巻、二人共討死、遠江殿は御子二人共討れ、勇気も弱り悲嘆の泪せきあえず、此時信直公は三戸馬場舘に有御座、此由を御聞御愁傷に御袂をしぼり給ふ、

 爰も無勢なれば不叶思召、侍四五人御供にて川守田舘に入せ給、敵如何して聞けん、櫛引河内十七騎にて追来る、信直公防がたく、已に御危見得ける、舘主川守田申けるは、是に候三尺五寸の鉄炮二ツ玉こめ、是にて先に進し兵を被遊候得、若はづれたらん時は一度に可打入、其時御生害候得と我身台と成可奉進ば、信直公鉄炮を打給ふ、其間二三丁も有らん、御運強くも先に進みたる士の真中に当り、後ろに扣たる士高股に通り、二人共に馬より打落され、惣勢ひるみて見へける時、川守田を初め、有合人々一度に抜連れ打て出れは、敵勢忽退散す、信直公喜び給ひ、後の道より忍出、田子村に一先帰り給ふ、此時鉄炮五寸つめ、三尺にして川守田子孫持伝へけると云、(下略)


 ■ 類似事件
  信直公馬場野舘的射九戸九郎被打事
久慈備前・七戸彦三郎等、九戸に心寄せ、九戸九郎が底意を請て秘事を廻し、天正元年三月十五日(又二十五日)信直馬場野舘に招し的射の遊を催し、於其場打奉らんとエミ(笑みヵ)ケル、信直角(かく)とはユメ(夢)ニモ不知、家中の若侍十七人相具し、馬場舘に御出有之、九郎相図を得聞も、天道我に南部を与へ玉ふ時至れりと喜び、武田菱に鐘の白旗を春風に飜し、其勢百五十騎三戸に馳向ふ、去程に信直は的射の御遊半にて興を催し玉ふ、折節木村右馬之介、此度九戸の催促にて九戸勢の中に有しか、元より信直へ志し深かりけんは、密かに先へ菟抜(かけぬけ)馬場野舘の御的射場へ騒しく馳参じ、信直に告て云、今日の御遊びは九戸謀略を以て殿を討まうし為に招し申たるにて候、早九戸九郎百五十騎にて唯今是へ押寄候、急御本城へ御帰り可然と申上ければ、信直聞召し、敵寄と聞て何方へ可逃、仮敵何百騎にて寄たりととも九戸九郎が分際にて何程のことが可有、信直が日頃の手並は知つらん、(中略)更に御帰城の気色なし、木村重て申けるは、仰尤には候得共乍去身を全ふして敵を亡すは良将之策(中略)と諫め申せば信直実と思召、亭主には唯今老母高源寺(こけち)気色悪しくとて木村を指越候故帰り候とて、御馬を引き寄せ打乗玉ふは、御供人之前後守護し三戸指て帰り玉ふ、九郎は信直の帰り玉ふとはゆめにも不知、諸勢を引具し三戸へ到着し、馬場野舘へは信直の城下ならでは通べき道なければ、信直御逗留はじ心得何心もなく城の前を此(馬場野舘の義ヵ)を指して小坂を打上る処を信直は塀の中より是を見玉ひ、只一放と衒(ねらい)玉ふに、(中略)あやまたず九郎の妻手の肩先より左の脇へ打ち抜き、馬より真逆(まさかさま)に落ち、其侭にてぞ果にける(下略)


 略譜  附・信直誕生後家督まで年表

     
二十五代晴継との関係


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