![]() |
![]() |
「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について 3 |
本堂寿一 170709 |
一付・豊臣秀吉朱印状の諸城破却令の実際? 目 次 はじめに (1)「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要 以上前頁 (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について ■ 48城注文の写本の色々 ■ 列記タイプと箇条タイプ ■ 『篤焉家訓』例と『聞老遺事』例の具体的違い ■ その他の写本との比較 以下 次頁 (3)破城と不破城はどのように選定されたか (4)発掘調査からみた破却の状況 (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について おわりに (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について ■ 48城注文の写本の色々 以上のように「内山助右衛門奥北の舘破却之事」に伝えられた天正19年における南部領内の城わりは現地残留の蒲生氏郷の指揮によるものであった可能性は高く、浅野長政(長吉)も大きく関わった形で進行したものであった。一方、48ヶ城注文は前述のように、その充所からして氏郷側への報告であった。信直と氏郷の深い関係についてはやはり前述のように天正19年9月15日付の「敬白起請文前書之事」とその「血判起請文」であったに違いない。繰返しとなるが48ヶ城注文にはやはり信直と氏郷の関係を想定せざるを得ない。 ところが、48ヶ城注文は前述のように南部氏の歴史を語る『南部根元記』以下に掲載されず、祐清らの目に入らなかったことは否定しがたい。前述の「唐之供」南部左衛門尉信愛の署判と合わせて真書であったかその疑いも持たれるものである。しかし理由は何であれ、この書上はある段階まで不出であり、祐清ら誰の目にも入らなかっただけという考え方も成り立つ。 そこで本章では、最初に48ヶ城注文の数ある写本を比較し、原本の実在性について検討してみたい。 前述のように48ヶ城注文はいずれも転写本である。それらの内、筆者の手許に工藤利悦氏の協力による7例(盛岡市中央図書館および岩手県立図書館架蔵の自筆現本から書写)がある。それらは『篤焉家訓』・『続奥南盛風記』(下)・『聞老遺事』・『内史略』(四・十一・二十)・『国統大年譜』等である。これらは所在地名と城名、代官・持分(知行)といった名称・語句はある程度一致するものの、列記順や文字にそれぞれ違いが認められ、特にも存置数に一致を見ない。幸いに以上の南部家関係編纂物は作者と作成年代が判明しているものもある。『篤焉家訓』(盛岡市中央公民館蔵)は文化14年(1817)から天保5年(1834)にかけて藩内の諸著書・記録を編成したもので、市原篤焉の編書である。工藤利悦氏のホームページ『近世こもんじょ舘』(2003)によると、篤焉は市原郡右衛門の号で、『篤焉家訓』は別名『奥南秘鏡』という。『藩譜拾遺』『奥南余録』『奥南旧指録』『奥南盛風記』『古事録』その他の記録を以って編纂され、盛岡藩内の逸事・見聞等全般を知る好書とされている。文化14年に筆を起こし、23年の歳月を要し、天保10年(1839)に纏め上げたという。その内、48ヶ城注文については八之巻に収められ「一、信直公御代御領中城数御書上之事」とある。 『聞老遺事』は『岩手百科事典』によると、前述のように著者は梅内祐訓(明治2年?1869年68歳没)で、彼による編集とされ、その成立は安政5年(1822)とされている。その引用書目には『奥南旧指録』『奥南盛風記』など35部におよぶとあり、巻末の「諸城破却書上」(48ヶ城注文)は本書の重要史料とされている。これが『篤焉家訓』などのそれより流布したことは、『南部叢書』に活字にして紹介されたためである。しかしながら『聞老遺事』が『篤焉家訓』の前出としても、48ヶ城注文については『篤焉家訓』のそれより古いと見なすことはできない。 『聞老遣事』本文の文禄元年(天正20年)条には前述『祐清私記』の内山助右衛門の記事も引用されている。それには「去年より当年に至り浅野長政ノ臣内山助右衛門封内ヲ巡視シ諸城ヲ破却シテ帰ル、公ハ九戸ガ故墟ヲ修補シ、福岡卜号シ、是に居玉フ」とある。ところがこの記事を除いて『聞老遺事』も浅野長政の天正19年の糠部帰還からいきなり文禄2年の名護屋出陣(朝鮮出兵)へと展開させ、慶長の不来方築城へと続いている。このことは『聞老遺事』の著者自身も編集時に48ヶ城注文の存在について知らなかったという例証である。すなわち『聞老遺事』の48ヶ城注文は編集後に入手された新知見であり、よって本文に挿入できず、その巻末に付け加えざるを得なかったということである。 『続奥南盛風記』(岩手県立図書館蔵)と『奥南盛風記』との著者や成立年代などの具体的関係は不明である。工藤利悦氏によると『奥南盛風記』(上・中・下)は『奥南旧指録』とともに南部家歴代の事蹟を記述したもので、寛保(1741?)から宝暦(1751?)頃の編と見られるが、著作年代ともに不明という。したがって『奥南盛風記』は『篤焉家訓』の編纂を遡るものの『続奥南盛風記』の記事は明和年間(1764?1772)をも含み、『聞老遺事』などとの前後関係も不明という。もしこの編纂が18世紀後半代に入るとすれば、48ヶ城注文の初出となろう。しかしこの48ヶ城注文は破城31、不破城17であり、誓詞の48ヶ城における36対12とはほど遠い割合である。このように『続奥南盛風記』の48ヶ城注文が最も古いとしても、以上のように粗雑さが考えられ、他写本より原本に近いかは問題である。 『内史略』は横川良助(安永3年?1774?安政4年?1857)著で、多量の史料を中心に纏めたもので、江戸後期の南部藩最大の史書・秘史料ともされている。しかしこれも著作年は不明である。岩手県文化財愛護協会(岩手県立図書館)から『岩手史叢』として刊行され、48ヶ城注文については3例収録されている。ところがこれらには引書名はなく、利用価値を低めている。工藤氏は『内史略』を江戸時代における最も新しい書と評している。 『国統大年譜』は南部家の所蔵古文書・記録類を元に明治時代に編集された年表である。この48ヶ城注文の引用については『聞老遺事』により補と付記され、『聞老遺事』の列記タイプを引用したものである。 ■ 列記タイプと箇条タイプ さて48ヶ城注文について、前述のような江戸時代後半までなぜ不出の書であったかという理由についてはさて置き、48ヶ城注文の書写例はそれぞれの編纂順からすれば『続奥南盛風記』下(『奥南盛風記』の続編と考えて)、『聞老遺事』、『篤焉家訓』、『内史略』、『国統大年譜』といった順に位置づけられよう。ここでは以上を中心に比較してみたい。 書写の系統は前述のように必ずしも以上のように各編纂の順でもなさそうである。例えば『聞老遺事』は『国統大年譜』は『南部叢書』本と同じく「一、何々」としない列記タイプである。一方『続奥南盛風記』と『篤焉家訓』は「一、何々」とする箇条書きタイプである。よってこれら底本においてすでに列記タイプと箇条書きタイプが存在していた可能性も考えられる。またさらに遡って底本となった原本が一通であったとすれば、列記タイプと箇条書きタイプにおいて簡略化した形式の前者が遅れて出現したのではなかろうか。箇条書きタイプは列記タイプに対して城舘を項目にして城数を確認することにおいて有効であり、正文においてもこの形式が妥当と考えられるからである。 近世古文書館の工藤氏からは『聞老遣事』とされる箇条書きタイプのコピーも届けられており、よって『聞老遺事』の類本にも箇条書きタイプが存在することは明らかである。例えば室野秀文氏から教示された雫石の「舘市家留書」の文禄5年(1596)条(『雫石町誌資料』第4集・平成12年)もその例である。よって文書の年号が古いからといって48ヶ城注文の掲載についてはより吟味を必要としよう。以上の観点から『篤焉家訓』の箇条書タイプについて先に提示した『聞老遣事』の列記タイプを比較し、その異体的な違いについて検討して見たい。 ■ 『篤焉家訓』例と『聞老遺事』例の具体的違い 『篤焉家訓』の48ヶ城注文については、神山仁氏の前掲書「元和一国一城令と奥羽地方の城郭」にその全文が紹介されており、よってここでは筆頭から志和郡までを比較例として提示する。以下の( )は『聞老遺事』の字体との比較である。また『篤焉家訓』の原文には校閲と思われる数ヶ所の注釈がある。それらについては省略とする。
『聞老遺事』の列記タイプと『篤焉家訓』の箇条書きタイプを比較すると、以上のように『篤胤家訓』の48ヶ城注文は明朝体の花押を模写したと思われる点に大きな特色がある。これをもってして写しに忠実であろうとした『篤焉家訓』の姿勢を伺うことができる。しかし明朝体は近世の創作である感は否めない(注(4)参照のこと)。典型的な明朝体は徳川家康花押として有名である。『北上市史』第2巻所載168の天正19年辛卯雪月の「南部信直知行状」(『口内文書』)の信直花押は武家様に近い明朝体であるが、その家臣がそろって明朝体に移行していたとは認めがたい。また、その天地の崩れも大きい。その他、判形ありと記した例に『続奥南盛風記』があり、さらに単に「判」とした例に『内史略』二十(署名者7名で1人漏れ)がある。これらによっていずれの原本にも同じ花押が書写されていたと推定される。一方、『篤焉家訓』の誓詞が「此判形之者共可被加御成敗者也」.であるのに対して『続奥南盛風記』は「此判形之者可被加御成敗者也」で「共」が抜け、『内史略』二十では「此判形之者え可加御成敗者也」と「え」が入り「被」が抜けている。些細な違いではあるが、「え」入りは誤りであり、「共」抜けも連署であることからすれば書き漏らした可能性が高い。 前述のように48ヶ城注文の写本の何れもその筆頭を稗貫郡の「鳥谷崎」とする。ところが、それに続く稗貫郡と和賀郡の書き順については『篤焉家訓』は上記のように入り乱れ、対して『聞老遺事』はそれらを郡毎に分け、より整理されている。また『篤焉家訓』は「稗抜郷」「和賀郷」「稗抜ノ分」などと郡名についても入り乱れ、志和郡から「郡」に統一されている。対して『聞老遺事』は最初から「郡」として統一されている。さらに『篤焉家訓』では「糠部之内」とある以外は「之内」がないのに対して『聞老遺事』は「南部之内和賀郡」といった形で全体が統一されている。この「之内」について両書で大きく異なる点は、『聞老遺事』は「花輪」「毛馬内」を「糠部郡之内」とし、『篤焉家訓』はそれらを「鹿角郡」としている。これは『篤焉家訓』が正しく、『聞老遺事』は「糠部郡之内」を連続させたための誤りである。 『聞老遺事』の文字使用は「姉平」が「姉帯」、「栗谷川」が「厨川」とあるように古風ではあるが、逆に旧字に仕上げた可能性がある。『篤焉家訓』は前述のように「稗貫」を「稗抜」、「安俵」を「安兵」とし、文字の簡略化は目立っが、人名では『聞老遺事』の「代官藤四郎」は『篤焉家訓』では「代官藤五郎」、同じく「福士右衛門持分」は「福士左衛門持分」、「安保孫三郎持分」は「安藤孫次郎持分」、「代官木村杢尉」は「木村杢之丞」であり、他例と照合すると『篤焉家訓』が妥当である。 「破却」という語句については、『篤焉家訓』の場合、個々すべてが「破却」で統一され、『聞老遺事』の場合は最初の「鬼柳」のみが「破却」で、他はすべて「破」と簡略化されている。このように『聞老遺事』には『篤焉家訓』と比べると整理され、より簡略化された部分が多い。また城舘の分類では両書に「平城」「山城」「平地」と三種認められ、それには両書とも混乱が認められる。例えば、『篤焉家訓』は鳥谷崎から二子までが「平城」であるが、安兵(「今、安俵」と注釈あり)以降が「平地」である。一方、『聞老遺事』は志和郡の「肥爪」までを「平城」と「山城」分け、見舞(『篤焉家訓』に「今、見前」と注釈あり)から「平地」と「山城」となり、いずれにも一貫性が認められない。しかし「平城」を「平地」とするその多用から考えて、原本は「平城」と「平地」に二分類されていた可能性が高い。それを『篤焉家訓』で「平城」と写し、その「城」を「地」に修正した部分が3ヶ所認められる。異体的には肥爪(「今、日詰郡山也」と注釈あり)・見舞・不来方を「平地城」として修正せず、一戸・金田一・名久井について「平城」と記したものを「平地」と書き改めている。また、原本の段階ですでにこうした分類は曖昧だったようである。例えば、段丘立地の「毛馬内」「花輪」「浄法寺」「野辺地」を「山城」とし、同じ段丘でも花巻・盛岡・三戸地方のものを「平城」「平地」とした点にそれが考えられる。 『聞老遺事』の写は、前述のように城数48ヶ所の不破城12ヶ所について確定しようとしたであろうが、それを10ヶ城とせざるを得なかった。それは鳥谷崎・新堀・不来方・増沢・三戸・名久井・剣吉・毛馬内・花輪・野辺地(類本では洞内が加わって11ヶ所)である。一方、『篤焉家訓』の写で「破却」としたものは34ヶ所、「破却」の無記名は14ヶ所(鳥谷崎・新堀・片寄・見舞・長岡・不来方・増沢・三戸・名久井・剣吉・毛馬内・花輪・洞内・野辺地)である。「洞内」の不破については『続奥南盛風記』『篤焉家訓』と同様であり、よって底本となった原本でも不破であった可能性は高い。よって『聞老遺事』に「洞内」を加えて11ヶ所としても、残り一ケ所については片寄・見舞・長岡かのいずれかということで、決めかねたのであろう。 以上のように『篤焉家訓』と『聞老遺事』の存置数の違いは『篤焉家訓』の方が底本にそれだけ忠実であったためと考えられる。一方『聞老遺事』はそれらの内12ヶ所を限定はしてみたが逆に無理であったということである。このように12ヶ所を特定しえないことは言うまでもなく、原本が12ヶ所を確定したものでなかったことを示すものである。そうした原本に依拠した限り何度数えても12ヶ所の復元は無理である。したがって『篤焉家訓』の原本についても浄書された「正本」の案文(控え)ではなく、やはり「正本」の作成に要した草案の類ということが妥当である。他方、限定された数字と異なり、文字の訂正や書き順の整理、年号の書入れは後でも可能である。したがって『聞老遺事』は原本の粗略な文字を整え、所在郡毎に城舘の記述順を整理した可能性が高い。いずれにしてもこれら写本の原本は48ヶ城注文の「正本」の控え(案文)といったものでなかったと言わねばならない。 ■ その他の写本との比較 前述のように『続奥南盛風記』(下)は箇条書きタイプではあるが、「郡」のまとまりや、城館の書き順は『聞老遺事』と似ている。しかし、「破却」をそれぞれ「破脚」と書き、それを「破」と簡略化していない点では『篤焉家訓』タイプに近い。ところが前述のようにその破却数は31、不破数は17で、不破数は『篤焉家訓』よりさらに多い。しかも「唐之供」は最尾の「野辺地」のみで、他は「朝鮮陣供」と記されている。この「朝鮮陣供」は『続奥南盛風記』(下)と他書の大きな違いである。ところが「唐之供」と「朝鮮陣供」は合わせても3名に過ぎず、信直を含めて「唐之供」を9名とする『聞老遺事』や『篤焉家訓』よりはるかに少ない。このことは『続奥南盛風記』(下)における写しの粗雑さを示すものである。「朝鮮陣」とは『奥南旧指録』にも用例が認められるが、これをもって原本が「朝鮮陣供」で、その写が「唐之供」であるとは認めがたい。たとえ『続奥南盛風記』(下)への48ヶ城注文の掲載(書写)が他書より早かったとしても、内容において他例より原本に近いと見なすことはできない。 その他、『内史略』前四は箇条書きタイプであるが、書き順・語句の使用に『篤焉家訓』とも『聞老遺事』とも似た部分があり、破却数は31、不破数は15で、48ヶ所としながらも合計46ヶ城である。これは「古軽米」と「新井田」(新田)を書き漏らしのためである。また同書前十一も同じく折衷タイプであるが、『篤焉家訓』などの「持分」を「持分之所」と書き直し、本来48ヶ所に含まれていない下北半島の「田名部」(七戸将監持分)を加えて12ヵ所としている。さらに同書前二十は前十一を前四に戻した形となるが、それでも破却数33、不破数15で、これも36対12という対応ではない。 以上のように48ヵ城注文はいずれも文末の誓詞において城数48ヶ所、その不破城を12ヵ所としながらも実際にその数を特定したものは存在しない。このことはやはり前述のように原本において12ヵ所が確定されていなかったことを示唆するものである。すなわち12ヵ所を特定して提出した正本の案文(控え)ではなかったということである。個々人の花押についても後に書き足すことは可能であり、前述のようにそろって明朝体であることはそのことを示すものである。また前述のように「唐之供」に対する留守居名の添え書きは、正文とすればやはり注釈めいており、正文においては「唐之供」とともに記載する必要があったかは疑問である。これらの記入は信直抱え(直轄地)への代官の派遣とともに、対応者との照合において必要とした内容として必要性を有する記述である。すなわち、草案の段階で必要される事柄と考えられる。 注
|