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「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について 4 |
本堂寿一170709 |
一付・豊臣秀吉朱印状の諸城破却令の実際? 目 次 はじめに (1)「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要 (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について 以上前頁まで (3)破城と不破城はどのように選定されたか ■ 「信直抱代官」と「持分」における破城と不破城の関係 ■ 北上盆地の例 ■ 三戸・八戸地方の例 ■ 三八上北の城館破却と存置 ■ 48ヵ城注文不破城に対する『岩手県史』の評価 ■ 八戸城と横田城破却の謎 ■ 「平屋敷」化について 以下 次頁 (4)発掘調査からみた破却の状況 (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について おわりに (3)破城と不破城はどのように選定されたか ■ 「信直抱代官」と「持分」における破城と不破城の関係 以上のように48ヶ城注文の原本が草案段階のものとしても、それにより近いと判断された『篤焉家訓』に視点を置き、48ヶ城はどのような条件で選定されたか、という点で各城館の特色について検討してみたい。 48ヶ城注文は「信直抱」(直轄領・代官備え15ヶ所。但し留守居の三戸を加えた数)と「持分」(家臣知行地か給地33ヶ所。但し無記名の古軽米1含む)に分けられている。その中で破城の対象となったのは、三戸を除いた「信直抱」全体と、北氏・八戸氏・浄法寺氏・浅沼氏といった大身クラスから中堅クラスの寺崎氏・工藤氏・川村氏・安保氏・野田氏・一戸氏・佐々木氏・小笠原氏・恵比奈氏といった「持分」にまで及んでいる。また不破城については一門の大身クラスに限定された傾向はあるが、新堀・片寄・増沢といった外様的城舘も含まれている。こうした全体を包む「信直抱」と「持分」の所領配分は48ヶ城注文以前、すなわち信直の上京以前に決定し、その上で存置も選択されていたとみなければならない。 確かに不破城を地図上にドットし、その全体を僻徹すると、「野辺地」「毛馬内」「花輪」は津軽・秋田領境の警護を兼ねた縁辺の統治に必要ないわゆる「関城」であり、「名久井」「剣吉」は信直腹心の城舘というだけでなく、治府三戸城の防御という配置からも否定しえない。前述のように「不来方」については北上平野部における将来の居城と目された存在であり、南の「鳥谷崎」はこれまた伊達領に対する関城として、また平野南半における府城として必要性はあきらかである。これらをさらに地域毎に細かく見ればどうなるか。 ■ 北上盆地の例 まず北上盆地の不破城については江刺氏が置かれた「新堀」がある。ここは「鳥谷崎」に近いが「不来方」からすれば「鳥谷崎」と閉伊郡への「増沢」の分岐点に位置する。また「増沢」は遠野口を扼す警衛位置で関城に該当する。『篤焉家訓』で不破とある「片寄」「見舞」「長岡」は「新堀」と合わせて「不来方」と「鳥谷崎」の位置を考えると、北上川の東西を含めてほぼ等距離に埋める形で配置されている。その中で「見舞」はかって斯波氏が南部方の拠点「不来方」を攻める本陣を置いたと伝える城舘(『祐清私記』)であり、また逆に南部側が斯波氏を亡ぼす足がかりにしたと見られる城舘であった。すなわち「見舞」は一時斯彼氏と南部氏の勢力圏境界に接し、「不来方」と「高水寺城」とのほぼ中間である。しかし「見舞」は「信直抱」でその代官は「日戸内膳」である。しかし「信直抱」は破却が原則であったとすれば、『篤焉家訓』の「見舞」はそれと矛盾し、破却対象であった可能性が高い。「見舞」に対峙するように斯彼氏の勢力圏側平野部に位置したのが高田舘である。ここも48ヶ城注文に含まれていないが、ここは斯波氏滅亡の手引きを演じた高田吉兵衛、後の中野修理亮直康の旧在郷居舘と伝わる。しかし規模・形状はほとんど不明である。吉兵衛の城内屋敷は高水城西郭の吉兵衛舘であると伝えられ、その斯波家を出奔して南部方に属し、中野舘(盛岡市茶畑)に入って中野氏を名乗り、信直は不来方の福士伊勢守とともに斯波に対する押さえとしたと伝えられている。こうして天正16年に斯波氏は滅亡し、中野氏はその功績によって同郡片寄村に2,500石加賜され、中野村と合わせて3,500石となり、片寄村今崎城に居して郡中の制度を司る、と同家譜は伝えられている(『参考諸家系譜』)。 「長岡」については、斯波氏家臣で川村一族と推定される長岡氏の存在が知られているものの中世における沿革はほとんど不明である。しかし、斯波領において片寄城が北上川の西を代表する大型城舘とすれば、館山とも呼ばれるこの長岡城(館)は東側最大級の城舘である。慶長5年(1600)の志和一揆に際しては斯波孫三郎がこの長岡城による計画であったと伝わる。ところが年来の被官石田与三が変心して門を閉じ、孫三郎の謀計は失敗して大萱生に引き退いたという(『奥羽永慶軍記』)。慶長5・6年は一揆が頻発し、多くの城郭が再活用された年代であったが、長岡城にそれまで居住者が居たということになろうか。ここは48ヶ城注文で南部東膳助の持分とされ、東膳助は署名者8人の一人南部東膳助直重(『聞老遺事』は「東」抜け)と同人である。この人物について『紫波町史』は前述のように石亀氏としている。石亀氏は南部氏の血族であり、信直はそれをもってこの「長岡」に所領を与えたとすれば、それだけに重視された地であったということである。南部一門の持分として破却の対象でなかった可能性が考えられる。 『聞老遺事』の48ヶ城注文によると「長岡」は「平地破」であり、『篤焉家訓』は「平地城」である。「破」と「城」の違いは大きい。「見舞」と「乙部」についても『聞老遺事』は「平地破」であり、『篤焉家訓』は前者が「平地城」、後者が「平地破却」である。よって前述のように草案には「見舞」から続けて「平地」云々と書かれていたと推定される。それを『篤焉家訓』が書写した底本は「平地城」とあったものを『聞老遺事』が書写した底本では「城」を「破」と書き改めたと考えざるを得ない。48ヶ城注文の草案の書き手やその写し手が以上の城郭を知っていれば、その中の「長岡」と「乙部」については「山城」と書いたであろう。一方、「不来方」も「平地城」と記されており、草案の書き手はどの程度の高さまで「平地」とすべきか迷った結果かもしれない。「長岡」と「乙部」の麓には「平城」と称すべき舘跡もあるが、それをもって「平地城」と記されたとは認めがたい。 以上のように「片寄」と「長岡」は「山城」であり、「見前」を含めて地理的にも歴史的にも北上平野の防衛的要衝であるものの、写本となった原本において「平地」と「山城」、破却か不破かがより明確であったとすれば、これほどの混乱はなかったかもしれない。前述のように『篤焉家訓』の「見前」を存置から除いても不破城は13ヶ城で、もう1城を減じなければならない。 ■ 三戸・八戸地方の例 以上に対して南部氏の本領ともいうべき馬淵川流域から北部(後に北郡とされた一帯)にかけて存置の対象城舘がどのように選択されたであろうか。 48ヶ城注文の城舘全てを地図上に落とすとその密度は北上平野に多く、一方、広い糠部郡にあっては馬淵川流域に抜きん出て数多い。このように対応させて僻徹すると、破却の主な対象地域は和賀・稗貫・紫波・閉伊・九戸といった地方は南部氏がその力や外交で版図に組み入れた地帯であり、一方、存置は「三戸」「名久井」「剣吉」と本城三戸城近在に固まった傾向は否めない。これは前述の『祐清私記』「内山助右衛門奥北の舘破却之事」にある「信直居城三戸近辺」のことと一致する。そうした中で「洞内」の存置は広大な三本木平の中央として対象となったものであろうか。しかし、現況からすればその形状は堅固な城郭であったとは見なしがたい。 『奥南旧指録』によれば、「剣吉」の北氏は南部時実からの別れで三戸城の北に屋敷を有したのが「北」と称された始まりとある。また同家系図(『参考諸家系譜』)も左衛門尉信愛の父致愛を21代南部信義の子とし、南部氏との血縁関係を伝えている。その系図によると信愛の妻が南遠江守長義の娘であり、二男が直愛(秀愛)で、直愛の妻が南部晴政の第5女で、娘が中野修理直康の二男吉兵衛正康の妻である。中野修理直康(実連・康実)は九戸政実の弟である。 同じく『奥南旧指録』によれば、東氏は南部時実の二男政行を祖とし、名久井工藤氏を継いで名久井を名乗り、また三戸城下の東に名久井屋敷あり、「東」と称したとある。48ヶ城注文の署名者南部彦七郎正永(直義)の父が中務尉重康(天正8年卒)、祖父中務尉政勝(天正18年卒)とある。この系図が正しく、48ヶ城注文の「名久井」の南部中務が政勝で「唐之供」で、その留守が彦七郎正永であったとすれば、時は天正20年であり、これも大きな矛盾である。正永の妻は南部晴政の第三女であったが、後妻は八戸彦次郎政栄(署名者八戸彦次郎直栄の父)の娘とある。 以上のように「剣吉」と「名久井」は南部氏一門であり、馬淵川の両岸において八戸側に対する関門的位置を占めた地である。さらに『奥南旧指録』によれば両氏は南部康政の三男遠江守長義(信義。兄が南部安信と南部高信)に始まり、浅水を知行して浅水を名乗り、三戸城の南に屋敷を有したので「南」と称されたとある。この浅水城は48ヶ城注文からは埒外とされているが、南氏の系図によると長義の弟が石亀紀伊守信房であり、その弟は毛馬内靭負尉秀範(南部大学)である。そして秀範の娘は南長義の二男康義(浅水城主)の妻である。石亀紀伊守信房のこ男楢山氏の祖で48ヶ城注文署判者の一人南部帯刀助義実であり、義実の妻は南長義の娘である。『岩手県史』は48ヶ城注文の署判者の一人南部右馬助政慶を長義の子康義(家督)の子右馬助直義(家督)と同人とする。 以上の南部氏一門に対して八戸彦次郎政栄は新田城主新田行政(妻櫛引将監の娘)の嫡子であったが、八戸を継ぎ、弟政盛が新田家を継ぎ、嫡男弥六郎政慶がさらに継ぎ、その二男弥十郎栄達が八戸彦次郎直栄の名代として「唐之供」となっている。この点で「新田」(新井田)が被城となり、南部彦七郎(正永)の「持分」ということの結びつきは疑問である。また八戸彦次郎直栄の妻は南部信直の娘である。 以上のように48ヶ城注文の署判者は信直の旗下といってもいまだ独立領主であった八戸氏、そして九戸氏に連なる中野氏を除けば、いずれも信直を支えるに至った三戸南部家の血筋を誇る譜代一族である。かって南部晴政(天正10年卒)の代に養嫡子信直との間に不和が生じ、一族争乱のもととなったことは南部史における通説である。それは、晴政は長女に信直を迎えて養嫡子とし、また二女を九戸政実の弟実親に、そして三女を東政勝に、四女を南慶儀に、五女を前述のように北主馬秀愛(直愛)と有力者に娘を嫁がした。ところが妾腹に実子晴継誕生したことで信直は排斥されることとなり、晴故には東政勝が助成し、北信愛と両氏は信直を擁護し、八戸氏や一戸氏が仲介したという。その晴継が幼少にして天死し、晴政も相続人を定めないまま病死したために、信直の擦立派と政実の弟実親の擁立派が対立し、北信愛と八戸政秀は信直を、政実以下九戸一党は実親を推すこととなり、評議での信愛の権謀によって信直が擁立されたということである。『南部根元記』にはこの評議に加わった「御一族」として東中務少輔・南遠江守・北左衛門佐・石亀紀伊守・七戸彦三郎・毛馬内靭負頭・石井伊賀守・桜庭安房守・楢山靭帯・吉田兵部少輔・福田掃部介・葛巻覚右衛門といった諸士が列記されている。時経て彼らの中で九戸政実に加担したものは没落し、残ったものが48ヶ城注文にそれぞれ名を連ねたと見なすことができる。 以上のように48ヶ城注文の署判者および「信直抱」地における諸士の持分などは九戸氏との対立による勝ち組であり、それによって三戸を固めた状況が看取される。対して八戸彦次郎政栄の居城根城の破却はやはり異質とである。 ■ 三八上北の城館破却と存置 三戸郡から上北郡にかけて現在は三八上北地方と呼ぶが、この広大な地域の中で48ヶ城注文に選定された城舘は中市・沢田・洞内・七戸・野辺地といった城舘である。それは内陸を通り、七戸城を中心に馬淵川から陸奥湾に至る道筋でもある。特に不破とされた洞内(十和田湖市)の存置が注目される。洞内城(舘)は七戸町と十和田市の間に位置し、洞内法連寺境内を中心とする一帯(東西150m、南北200mほどで、堀跡などは不明であり、前述のように要害の地とは認めがたい。よって剣吉と野辺地の単なる中継点といった以外に守城といった機能は考えがたい。つまり七戸城と野辺地城を除けば、中市舘以下は歴史的にも地理的にもほとんど目立たない存在である。これらが選ばれた理由について沼舘愛三の『南部諸城の研究』には、馬淵川流域を含めて「三戸・新田・名久井・剣吉・洞田・沢田の六城、即ち残置された半数が本城三戸の近辺に近在しているのは、一に三戸城の防衛と数百年来父祖縁故の古城を破棄するに忍びなかった為めでもあろう」とある。48ヶ城注文で「新田」(新井田)と「沢田」を存置と伝えた例はないので沼舘愛三の見誤りと言わざるを得ないが、沼舘はこれらを「父祖縁故の古城」と位置づけた点に前記の「御一族」の繁栄地として通ずる点がある。このことは確かであろう。 海老名(恵比名)左近持分とされた沢田舘(十和田湖町沢田)は奥入瀬川右岸沖積地からやや奥まった地であるが、約1ヘクタールを二重の巨大な土塁で取り囲んだ方形居舘である。よって中世はこの地における拠点的な城舘であったと思われる。舘主海老名氏について『南部諸城の研究』では沢田氏とし、小笠原氏の一族かとある。中市舘(倉石村中市)も小笠原弥九郎持分とあるように小笠原氏はこの地方に繁術した一族である。『奥南旧指録』によると「安芸氏。本名小笠原奥瀬村知行に依って奥瀬氏と成る」とあり、三上氏・桜庭氏・福士氏とともに甲州恩譜代と伝えられている。その奥源氏の居舘は沢田舘よりさらに奥入瀬川の上流にあった。奥瀬舘は堀を持たない居舘で要害性に乏しい。中市舘も同様に堀跡の不明な屋敷城で特記すべきものがない(『南部諸城の研究』)。一方、五戸川右岸には100m×200mほどの五戸の舘跡があり、周辺では西約2kmに石沢舘、南西6kmに又重舘跡、北北西約5kmに九戸一揆の時に七戸勢に攻撃された伝法寺城といった比較的大規模な見るべき城舘跡がある。しかしこれらは48ヶ城注文の埒外である。よって沢田舘と中市舘は南部氏譜代の小笠原一族の城舘として選ばれたと見られるものである。そうした城舘の要害性からすれば、前述の北氏の剣吉舘もさして堅固ではない。よって存置とされた名久井城を含めて三戸城の守備と見なすことも問題であり、やはりこれらについても北氏・南氏といった有力御一門の持城であったことがその理由であったと考えられる。 ■ 48ヵ城注文不破城に対する『岩手県史』の評価 以上のように48ヵ城注文の不破城、すなわち存置の理由については確証しえない点が多い。また48ヵ城注文の不破城についていちいちそれぞれの存置理由について考察を試みた例もなく、『岩手県史』の場合は48ヵ城注文の破却・不破の数的不一致についてそれを正すことを目的に考察を試みている。同第3巻では『聞老遺事』の列記タイプを提示し、「片寄」「長岡」を不破城とし、その他「浄法寺城」をも不破城にして存置13ヶ所とし、さらに同5巻には「見前城・長岡城・洞内城の破却は確実であろうし、遠野の鱒沢(増沢)城は破却され、横田城は不破城であったことも事実であったろう」とある。加えて「七戸」と「八戸」について「破却は誤写であろう」と一定しない。すなわち、第3巻では署名者である中野修理の片寄城と南部東膳助の長岡城は存続したものと考え、一方、第5巻では遠野の領主浅沼氏(阿曽沼氏)の本城が鱒沢城ではなく横田城であったという理解によるものである。また、七戸城については、南氏の系図から南康義(県史は南右馬助政慶=直義の父と見る)の弟南右馬助直勝が、天正19年に七戸氏が滅亡するや七戸城代に2,000石で起用されたという判断によって「不破」と見なしている。また「八戸」を「破却は誤写であろう」とした理由について述べておらず、一方、『南部諸城の研究』の著者沼館愛三(昭和25年没)は八戸城(根城)について「破却」を受けて根城から新井田南館(新田城)に移ったと考えた。そして新田城については「不破」とし、「八戸氏遠野移転と共に新田氏も移転し、廃城となった」とした。沼舘は「新田」について48ヶ城注文のいずれにも破却とあることを意に介さなかった。 『岩手県史』5巻は前述のように48ヵ城注文の歴史的意義について南部領における代官制度と家老体制の始まりとして評価した。それは「代官をもって充当していたのは和賀郡五城・稗貫郡二城・志和郡二城で、新領地統治の形相がよくあらわれ、この三郡の城持は南部主馬佐・江刺兵摩頭・寺前縫殿助・中野修理亮・南部東膳助・福士右衛門など」で、「新領地に新しく赴任した人々」と評価し、その他の代官充当による破城は久慈城・一戸城・金田一城・櫛引城・七戸城などで、これらを九戸政実党の拠った城舘と分類した。そうした中で城持となった姉帯城の野田氏・花輪城の大光寺氏・七戸城の横浜氏を新しい入替えと見て、城持衆と代官はそのまま当時における南部領統治の実体であり、地方統治機関の始まりであるとした。さらに譜代重臣8人は近世南部藩の家老役の祖形であると評価し、48ヶ城注文における破城・不破城ともにそこに割り付けられた家臣配置をもって南部領初期の統治体制と見なした。 48ヶ城注文で破却とされた「新田」について、佐藤一事氏は八戸市ではなく五戸町の「新井田」だと述べている(佐藤一事「南部大膳大夫国之内諸城破却書上」の分析『地方史研究』306第53巻第6号・2003)。その理由は判然としないが、、五戸説は八戸・中市・新田・沢田という列記順と、天正17年の夏に信直が中央工作のために前田利家のもとに派遣した木村杢助(48ヶ城注文の金田一の代官木村杢之丞と同人か)が五戸に居て新田木工と呼ばれた可能性からかと考えられる。しかし、五戸の新井田舘は城舘の八戸の新田城のように城郭としての体をなしておらず、やはり疑問である。 ■ 八戸城と横田城破却の謎 確かに48ヶ城注文に下北半島の「田名部」を入れるといった『内史略』例は論外としても、先述の「片寄」「長岡」「見舞」といった例をすべて存置とすることは不破の12を超えることとなり、やはり問題である。また「破却」と明記され、それに従うかぎり、数合わせの対象となり得ない八戸城(根城)の存在も不思議である。城主八戸彦次郎政栄(彦次郎直栄の父)は天正18年以後に信直の治下に属したとは言え、その旗下として独立性を保っていたわけである。その八戸城の破却は政栄を継いだ直栄の手によると考えざるを得ず、八戸城の属城ともいうべき新田城もそれに準じたのではなかろうか。このことは八戸彦次郎直栄の唐之供の名代は弥十郎、すなわち新田城主新田政盛の二男九郎左衛門栄達であり、前述のように新田の持分は南部彦七郎である。彦七郎は名久井城の南部中務(東氏)の嫡男南部彦七郎正永と同人と考えられ、署判者の一人である。こうした八戸城の破却や新井田の持分者の交替は八戸一族が率先して破却の手本を示した現れであろうか。しかし、八戸氏は根城を撤収したということでもなければ、新田氏の所領も東氏の手に移ったという形跡も無い。一般的には八戸氏の根城から遠野移転は寛永4年(1627)であり、新田氏もその時移転して廃城になったと考えられている。やはり48ヶ城注文には内容に一貫性は認めがたい。 八戸氏については寛永初期(1624?)の『三戸城古城図』によると、八戸弥六郎(直義)13,000石の城内屋敷は下馬御門(表門)の手前にあり、そしてその城外の元木平に100間四方の土居を巡らした下屋敷が与えられていた(小井田幸哉『三戸城』三戸町観光協会・平成元年)。この八戸氏の三戸城下屋敷については天正18年の豊臣秀吉朱印状に基づき、屋敷が割り当てられたと推定されるわけで、そうした城下町の整備工事はいかに九戸政実の反乱に動揺していたとは言え、秀吉の厳命であり、その年には着手されたと考えざるを得ない。八戸氏にとって天正20年以降、三戸城のそれが御屋敷となり、八戸城(根城)については破却と理解されてきたわけではあるが、家臣団を含めた居住はその後も続いたことは発掘調査によって明らかにされている。また文献資料によっても八戸城には城主妻子がそのまま居続けたことは信直の手紙から明らかである(小井田幸哉『八戸根城と南部家文書』平成元年)。天正18年の秀吉朱印状の「則妻子三戸江引寄可召置事」に違反とは言え、八戸は別格であったためと考えられる。八戸の破城は廃城ではなく、破城による平屋敷化であると見なされる所以である。 一方、遠野浅沼(阿曽沼)氏は小田原に参陣せず、南部氏の附庸とされた(『阿曽沼興廃記』)とは言え、旗下としてその独立性を保とうとしたらしく、没落は『遠野市史』第1巻(昭和49年)を代表に慶長5年(1600)とするのが定説である。それに対して48ヶ城注文はその本城横田城(後の遠野南部氏の鍋倉城)を破却し、その家臣の支城である増沢城を存置したとする。これは『岩手県史』ならずとも、どう考えても矛盾である。しかも横田は「信直抱」とされた直轄領であり、破却も素性不明な代官「九戸左馬助」の手によるものである。その「九戸左馬助」の右に「唐之供」と付記されており、「唐之供」は横田城当主(『阿曽沼氏略系』によると孫次郎広郷)である可能性が高い。このように本主の居城を撤収して家臣居城を存置したという行為は、普通は当主の滅亡か、配置替えとも言うべきことであるが、その子孫三郎広長は慶長5年(1600)に横田城から家臣を引き連れて上杉征討に出陣(『阿曽沼興廃記』)したとされている。そしてその滅亡は横田城の留守を預かった鱒沢左馬助広勝ら三人の反逆によるとされている(『遠野市史』)。このように疑ってみれば『岩手県史』に限らず48ヶ城注文における横田城の破城は誤りであり、存置と見なすことも同調できることである。 しかしながら、横田城を存置にして、12ヶ城という限定から不破の増沢(鱒沢)城を破却に置き換えるといった勝手な文書解釈を出来ることではあり得ない。増沢城と板沢城は遠野盆地の東西の位置的関係にあり、「増沢」が浅沼忠次郎持分、「板沢」が浅沼藤次郎持分である。当時、前述のように増沢城主は鱒沢左馬助広勝とされ(『遠野市史』)され、忠次郎・藤次郎については『阿曽沼興廃記』.などには見当たらず、このあたりも不審である。また何よりも阿曽沼氏当主孫次郎広郷が存在したに関わらず、その本城横田城は破却前にすでに信直抱え、すなわち直轄領とされていることが矛盾である。これらについて換言すれば、信直が阿曽沼広郷を追放し、その領地を直轄化しようとする目論見が48ヶ城注文に盛り込まれたということである。しかし勝手ならず、慶長5年にようやく実行に移され、その翌年漸くそれを可能としたという経緯が正しいであろう。 以上のように遠野の横田城についての48ヶ減注文の破却対象となったことは、阿曽沼氏が天正18年の小田原不参で南部氏の附庸となったこと、さらには南部側の記録が伝えるようにその反信直的行動に対して制裁を加えようといった恣意的な選定であったと推定される。それが慶長5年に増沢氏(阿曽沼一族)らの反乱で本主阿曽沼氏が追放されたことに繋がる。すなわち、阿曽沼氏の滅亡は増沢氏との確執によるとされるのが通説であるが、横田城破却という狙いが48ヶ城注文に盛り込まれたことは、信直による阿曽沼氏の排除を物語り、それが天正18年の九戸の乱段階からあったという伝えの例証ともなる。この点からすれば48ヶ城注文とは密書的性格をも有したことになろう。また『篤焉家訓』では「三戸」の「信直留守居甲斐守」が「板沢」の「留守甲斐」(『聞老遺事』では「千徳」が「留守甲斐守」)と同人の可能性あり、この人物の素性も問題である。 浅沼(阿曽沼)氏の横田城破却について、それはその後の遠野城である鍋倉山ではなく、松崎護摩堂山の旧横田城について該当するという考えもあろう。しかし本城を不問にしてこの旧城を信直抱え(信直轄領)としたということはあり得ない。しかも鍋倉山横田城には松崎から民家も移転して城下町が形成されていたと伝わる。この鍋倉山積田城の破却について『遠野市史』は、先の秀吉朱印状の「家中之者供抱諸城令破却」を重視する立場から、「横田城が破却され、その後再び築かれたとは考えられないし、そのまま残して破却しなかったことも考えられない」とし、また「利直(信直不在で利直を代行と見たか)は秀吉に虚偽の書上をしたとは考えられないし、阿曽沼広長が南部氏に対抗して、取り壊しをしなかったとも考えられない」とし、今後研究を有することだとある。また、阿曽沼氏が没落し、慶長7年ころ「利直が整備補強したことから考えれば、城としての構えでなく、単なる舘としての家屋があったのではないか」とある。 ■ 「平屋敷」化について 前述のように「平屋敷」化については八戸城(根城)の場合も発掘調査によって証明されている(『根城一本丸の発掘調査』八戸市教育委員会・1993)。よって八戸城以外でも「破却」といっても「破城」であって「廃城」ではなく、それらは「平屋敷」として存続できたという説もある。この点について佐藤一事氏の前掲書「南部大膳大夫国之内諸城破却書上の分析」によれば、「南部諸城数百のうち、四八城を選択し」、それ以外を潰して「一二城は現状維持で文字通り存置し、三六城は(平屋敷)化して実質(存置)」したものと解釈している。そして「(破却)とされている城舘は、軍事的機能は失っているが、居住・支配機能は(存置)されており、(廃城)ではなく(破城)」であり「南部信直はこの四八城を以って領内支配をしていくという意思表示である」と評価されている。さらに「中央政権の力を積極的に利用して、近世的家臣の城下集住と家臣団の再編をねらったものである」とする。 上記説の依拠するのは、破却の実際について発掘調査成果から「平屋敷」化として評価された八戸城(根城)であるが、しかしながら現在ではこうした明確な調査成果は八戸城(根城)のみである。したがって破城36城全てが平屋敷化し、その後も居住・支配機能を有したと断定することは果たして正解であろうか。さらに48ヶ城を分置して近世的な家臣の城下集住を狙ったなどは、三戸城・福岡城での在府の形成とも矛盾し、南部領でそうした地方知行制は一般化しなかったことも確かである。すなわち家臣団の集合をそのまま個々の知行地に許したとすれば、それこそ秀吉の厳命に対する違反であり、信直にとっても家臣の軍事力の容認でより有り得ないことである。そのための城わりである。 発掘調査例を取り上げれば、姉帯城や一戸城においては九戸政実の乱以降、屋敷として継承されたという痕跡は認められていない。和賀郡における鬼柳城(鹿島舘)においても同様である。仕置において戦場となったところはそれで居住が途絶えたことは当然であり、その後に居住するものが現れたとしても、それは「平屋敷」化は当らないであろう。また和賀氏が追放された二子城にしてもその後の当主在住はあり得ず、まさしく廃城であった。したがって「破却」で「平屋敷」に移行したと評価される八戸城の例をもって36ヶ所の破城全体に「平屋敷」化を及ぼすことは誤りと言わざるを得ない。遠野の横田城については何よりも本主を除外して破却しようとしたことであり、「平屋敷」化といった問題ではない。 |