南部信直について 25代晴継との間の続柄に拘る疑問
工藤利悦

 南部信直は、天文十五年に三戸城主の庶流・左衛門尉高信の庶長子として岩手郡一方井村に生れ、のちに宗家二十六代を相続した、近世中興の祖と称される人物である。
しかし、その前半生を伝える『南部根元記』は、元禄年間に既に原本が失われ、四系統の写本が流布していたとされる状況にあって、事蹟は諸説区々である。その一つは信直の実父左衛門尉高信の出自である。現在、一般に流布している二十二代康政二男高信説は、明治44年に刊行された『南部史要』をはじめ、昭和初年に刊行された南部叢書所収の『南部根元記』や『奥南旧指録』・『聞老遺事』に拠るところ多く、一方、寛永18年に幕府へ上呈した『寛永諸家系図伝』所収南部系図や、近世末期に編纂された『篤焉家訓』その他『南旧秘事記』それを受けた『内史略』等は、二十二代康政の嫡男で二十三代を相続した安信の二男として伝えている。その他諸説錯綜しているが、それらの諸説を大別すれば、五分類にできる。

第一類
現在伝来し、成立年代が明確なかつ最古の近世系図は『寛永諸家系図伝』所収の南部系図である。同系図は幕命により、寛永18年に上呈した系図で、信直の実父高信は晴継にから見れば祖父安信の二男、図式化すれば次の通りである。

康政─安信┬晴政─晴継
└高信─信直

この系統の系図は元禄頃まで散見して一時消えてしまうが、幕府による『寛政重修諸家譜』がこの説を採録したため、これを受けた形で再び顕在化する系図群である。
現在南部家が秘蔵とされる『歴代藩主画像』(天保期の成立か)のうち、信直画像には「第二十六代大膳大夫信直者晴政舎弟高信之嫡男也、晴継依早世嗣其家、寿五十五歳而卒」とある。顕在の南部家はこの系統の系図を正当としている。

第二類
系線は第一類系図を継承するもので、譜では続柄に触れていない系図群である。

第三類
信直の実父高信は、晴継にから見れば祖父安信の弟とするもので、現在巷間において定説化した説であるが、系線・譜をセットにしている系図は管見にない。図式化すれば次の通りである。

康政┬安信─晴政─晴継
└高信─信直

この説は『寛永諸家系図伝』と同時に編纂されたと勘考する『南部根元記』が流布する過程で派生したものと考える。ちなみに元禄年間には既に四系統の写本があったとされており、その一系統から流布したものと考える。

第四類
系図の系線と譜が不一致の系図群である。第一類から第三類に移項する過程を窺わせる系図群と考える。
イ、譜では第一類で見る「晴継には従弟」としつつも、系線は晴継の父晴
政と 信直が従弟とする第三類で表示するものが最も多い。
ロ、系線では第三類で表示するが、譜では晴継にとって従弟大叔父とするもので、仮に図示すれば、次のような例もある。

信時┬信義
├康政─安信─晴政─晴継
└高信─信直(晴継にとって従弟大叔父)

第五類
第三類の亜流系図群。この類の派生要因は大別して二系統が存在すると考える。その一は、第三類の説を受けて系線で表示したもの。これを仮に5-1類とする。その二は、第四類の矛盾を意識したものか、譜では記述を回避した系図群であることが想定される。その二の説を仮に5?2類とする。

【解説・結論】

一、史実は「信直は晴継」か

先ず、第一類(信直は晴継の従弟説)で指摘したように、現存する『寛永諸家系図伝』の記述を重視したい。同系図が幕府に上呈された寛永18年は、信直の没後四十二年、当時の状況においては現代史に属する時期の記録であること。先学の考証(太田孝太郎「南部根元記考」岩手史学研究No13)によれば、信直を根元とする信直の伝記『南部根元記』は『寛永諸家系図伝』所収系図と並行して編纂されたと勘考。私見も賛同する。なお、太田説によれば、元禄年間には既に原本は散逸して四系統の写本が流布していたと私的しているが、以下に明示する「史料第二類」に『寛永諸家系図伝』と説を同じくする享保12年写本『南部根元記』(盛中22.1-1)外が現存してあり、信直は晴継の従弟説は史実と勘考される。

二、信直は晴継の従弟叔父説が派生した時期

現在定説化されているのは、信直は晴継の従弟叔父とする第三類、並びにその亜流の説である。従弟叔父とは父の従兄弟姉妹、つまり、晴継の父晴政と信直が従弟の続柄をいう。この説のを第三類とし、初見は元禄10年藤根吉当写本『信直記』(盛中22.1-5)に「晴継公の御為には従弟伯父と云、大姉聟にて云々」とあり、既に元禄年間には流布していたことが知られる。しかし、信直を晴継の従弟叔父とする系図は第五類に示した通りであるが、系線・譜が揃って信直を晴継の従弟叔父とする系図、いわゆる第三類に括る系図は現在一点も確認できていないのが現状である。従って第三類説は、『南部根元記』の写本の流布に伴って広く伝播したもの考えられ、第五類の内、イとロの識別は困難であるが、5-1類の派生をみたものと考えられる。

その時期は何時か、 
新井白石は『藩翰譜』の中で「高信は晴政弟」信直は晴継の従弟の系図を図示してあり、『寛永諸家系図伝』を受けた系図と解説する岩手県史説もあるが、両書の視点は必ずしも基軸を一にしていない。従って『藩翰譜』は『寛永諸家系図伝』の説を継承したとは考え難く、『藩翰譜』が成立した延宝8年頃には、自他共に「信直は晴継の従弟」と伝えられていたものと勘考する。しかし、続群書類従所収の『南部系図』の成立時期は不明ながら、重信代迄を掲載していることなどから推して、延宝頃から元禄の頃には派生していたのではなかろうか。

三、信直は晴継の従弟叔父説の派生要因

『南部根元記』の写本は、元禄年間に四系統に分かれて流布していたことは記述の通りであるが、「信直は晴継の従弟叔父説」もその波に乗って派生し、伝播したものと考える。現在『南部根元記』の原本は所在不明であるが、流布する写本の中から、信直と晴継の続柄に限定して数例を分類抽出すれば次の通りである。
【従弟説】
南部根元記   享保12年写本          盛中22.1-1 
晴継公の御為には従弟と云、大姉聟にて云々
【矛 盾】
東奥軍記(続群所類従所収) 『南陽武鑑』異本 正徳元年写本という
『南陽武鑑』は『南部根元記』の異本
晴政の為には甥、晴継に従弟伯父なり、大姉聟なり
晴政の為には甥      晴継に従弟伯父
康政─安信┬晴政─晴継   康政┬安信─晴政─晴継
└高信─信直     └高信─信直
九戸本覚    南部根元記異本          県図21・4ー48
晴継の御為には従弟伯父、甥なれば云々
【文意不明】
南部根元記   天明2年本            県図21・4ー37
信直公は左衛門尉高信は従弟也伯父也息は姉聟也
【従弟伯父説】
南部根元記   内題「吾妻物語」 享保12年写  県図28・8ー34
晴継のために、いとこ伯父と并大姉聟なり
南部根元記   元文2年写本 
左衛門尉高信の嫡子にてましければ晴継の為には従弟伯父也大姉
聟也

右の状況を総括するならば、従弟説が従弟伯父説、或はその他説が創造されても何ら不思議はないということであり、現実にこれらを出拠とした系図類が現存しているということである。(附録 史料第四類参照)

四、先祖返りをした南部系図

寛政12年4月幕府に系図を上呈している。南部家では書名を「宝譜伝万茎」としている。同系図は信直を晴継に従弟伯父とする系図である。これに対して幕府は聞き請けなかったことを『寛政重修諸家譜』の中で理由と共に記載している。
信直の実父高信の譜で
今の譜(『寛政重修諸家譜』)に、石川左衛門佐に作り、津軽石
川城に居住すといひ、また、高信をもって安信の弟とし、高信が
弟に長義以下の三人を出せり。新呈の譜しるす処くはしきに似た
るときはこれにしたがふべしといへども、寛永系図高信が男、信
直が伝に、晴継早世し、信直従弟たりといへどもその家を継とい
ふときは、高信は安信が二男にして晴政が弟たる事証とすべし。
よりて専寛永譜に従ひて記す。また長義以下の兄弟にいたりても
高信が弟といふをもつてみな安信が子の系に記す

『寛政重修諸家譜』は寛政11年に編纂成るが、その後に成立する「南部家系図」はおしなべて「信直を晴継に従弟」説の系図であったことが知られる。(史料第一類、史料第二類参照)

五、現在の定説が定着した背景

『寛政重修諸家譜』が幕府によって編纂された後、「信直は晴継の従弟叔父」説の系図が先祖返りをしたような勢いを見せたが、やはり、底流には「信直は晴継の従弟叔父」とする説は隠然としていた。南部叢書『南部根元記』の解題に拠れば、多種ある写本の中で最も流布した写本は文政三年系統の写本であるとしている。また当時、古記録として引用されるなど、影響力が大きかった『祐清私記』や、『聞老遺事』などもこの系統の『南部根元記』を引用していたこと等が大きな勢力を保持させた要因と考える。しかし、この場合には系線は生かしても譜は入れることはなかった。そのような中、文化7年に幕府へ上呈した系図(盛中29.1-19)は、やはり「信直を晴継に従弟叔父」説であった。そのよう力がものして、明治44年『南部史要』が刊行された時には「信直は晴継の従弟叔父」説の採用であった。信直に関する事項に付いての、出典分析の結果によれば、『聞老遺事』および、文政三年系統写本の『南部根元記』が大きな比重を占めている。その後、昭和初年に刊行された南部叢書所収の『南部根元記』は文政三年系統写本によっていること、同系統の『南部根元記』を引用した『祐清私記』『聞老遺事』が相次いで刊行されたことが、「信直を晴継に従弟叔父」説を磐石なものとさせ、それに伴って形成された事跡が、史料批判も無いままに、史実に有無に拘わらず実像と捉えられていると云って過言ではない。
信直の家督相続に至る過程に関する解明は今後の課題である。


関連する史料は「こもんじょ館」に「南部信直の前半生について(疑問)」として掲載しておりますので、併せてご覧ください。


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