明治維新後における旧盛岡藩士の生きざま
工藤利悦

             旧盛岡藩士の子孫の人達の組織に「旧盛岡藩士
             桑田」と称する団体があります。明治八年以来
             連綿と継承されてきた組織ですが、この小文は
             桑田が年四回発刊しています、弘報「そうで
             ん」に掲載してきたものの内「明治初年旧盛岡
             藩士族の動向」(7回連載)の最後の部分て
             す。
              旧藩士の子孫の人達の口から、時折に出る言
             葉は、「曾祖父さんの代に飲み食いで財産を無
             くした」。
              私は熱っぽく応えます。
             中には、飲み食いで財産を無くした人も有るで
             しょう。事業に失敗した人。ありなしの財産を
             むざとだまし取られた人。当時の新聞記事は悲
             喜こもごもを紙面に書き立てています。しか
             し、それは新聞種の話ではないでしょうか。
              絶対多数の人達は、生活基盤を根底から覆さ
             れ、収入源を絶たれて、進む方向を見出せない
             中からも、妻子のために、新たな生活基盤を確
             立しようと一生懸命に頑張った。あなたのご先
             祖も絶対に一生懸命に頑張った一人であったは
             ずです。一口に「飲み食いで財産を無くした」
             と批評するのは酷ではないでしょうか。と
              
             
              
   旧盛岡藩士の生きざま          

 これまで六回にわたり戊辰の役以降の士族の動向について社会現象面から連載した。そこには生活基盤を自分の意志とは拘わりなく根底から掬われ、路頭に放り出される姿があった。そのため士族授産が行われた。一時拉げられ方向を失いかけた人達もいたが、多くの人達は日頃の素養により支えられ、人格者として迎えられて地域の発展に寄与、或は教育者として郷党の子弟の教育に献身して一生を全うした。

 新聞報道によれば、各地の学校建設には寄付金の形で多くの人達が積極的に対応している。そこには生活基盤を根底から掬われた人達の姿は微塵も窺えない。この間にも南部家は人材の育成をはかり、東京に外人講師等を雇い入れて英語学校「共貫義塾」を設立、そこから幾多の有能な人材が輩出した。歴史上の人物として名を留めた人も数多である。盛岡市の先人記念館で顕彰されている人達も多くいる。またそれらの人に勝るとも後しない人物。例えば、政府が各藩県より人材を求めて選抜登用した官員。国家試験による登用は明治二十年に始まるが、明治八年の官員録によれば、奥羽越列藩同盟に参加したことで賊軍と目されながらも、判任官以上の人達は六十数名が散見する。それらの人達は、様々な形で顕彰されてはいる。しかし、次に紹介する人達は、歴史上において陽の目をみた人達でないが、英傑と称される人達と並び、決して後れをとる人達ではない。畏敬の念を覚えつつ、波涛を乗り切った人達の生きざまを紹介する。紙面の都合から数人に限られたが、不特定多数の人達の代表の一人と見て頂きたい。

   三浦義好の経歴

 市井の一人としてその一生を全うした三浦義好は、天保十三年に三浦文助政義の嫡子として生れた。幼名寿太郎、のち清志と称した。家禄は一駄三人扶持(高二十石)と微禄。職歴とて華やかなものではないが、士族の本分を弁え、力強く生き抜いた姿をその履歴書は雄弁に語っている。まず幼少からの勉学の跡は次の通りである。十歳の時(嘉永四年)から十二歳(同六年)まで七戸官助に付いて、次いで十四歳(安政二年)まで中野喜六に師事して書道を学ぶ。同じく十歳の時から藩医横沢周斎に師事して漢学を学んだ。一方、武術は十二歳(嘉永六年)の時から柳生心眼流兵法と棒三剣柔術を石亀進、村木千之丞に師事、十六歳(安政四年)の時から新当流鎗術を白石一に、御流儀心的流砲術を荒木田忠治に師事、十七歳(安政五年)の時から日本伝謙信流軍学を毛馬内伊織に就き、十八歳(安政六年)からは四戸次郎に師事して小野派一刀流剣術を学び、更に二十一歳(文久二年)から佐久間宇左衛門、梅田忠平に師事して西洋流砲術を学ぶ武術家であった。初目見は安政三年、十五歳の時。元治元年部屋住で鉄炮武者となり、箱館出張、慶應元年帰国している。同二年大砲方手伝、次いで御先供となり、同四年戊辰の役には鹿角口の戦に従軍。戦後明治二年藩知事侍衛となる。同年七月南部家盛岡復帰の宣旨を逸早く伝えるため横田季之進に付き添い、早駕籠で伝令の役を務めた。翌三年救荒巡察役を務め、同年常備九番小隊銃士となる。同四年父の隠居により家督を相続、この時一人一名乗の布告により清志を止めて実名義好を名乗りとする。七年台湾出兵事件に際して従軍を出願。以下、履歴書により主なものを抽録す。八年第一大区九小区一番組総代、九年学校設立のため五十銭寄付、十年第廿一大区第三番扱所三等副戸長、同年学区取締補、十一年川目学校新築費として一円を寄付、十二年南九戸郡小久慈村・長内村戸長、同年川目学校新築費用三十九銭を寄付、同年南岩手郡川目村簗川村戸長、十四年同両村学務委員。同年依願免職。十五年岩手県税務課国税係に採用、月給四円(翌年五円)。十八年依願免職。この間、十七年盛岡罹災に際し窮民救助として五十銭寄付。廿年南岩手郡勧業会員に当選、二十一年南岩手紫波郡役所雇、日給二十銭。同年農商務省岩手大林区所花巻派出所在勤。二十二年森林監守心得雇となり、月俸七円(同年判任官六等森林監守となり八円)、二十五年非職。この間、毎年特別勤労賞金を受領。二十六年祭典式試験に合格、七等司業となり神職の道を歩む。三十一神宮教岩手本部岩手県皇典講究分所理事、次いで神宮司庁出仕。三十二年岩手郡会議員に当選、三十七年簗川村長に当選。その他数々の役職に挙げられて地域の発展に貢献し、四十四年隠居。これより前、三十七年に盛岡電気株式会社に入社、技術発電所係及びカーバイト工場係等を勤め大正六年依願解雇、在職中の勉励手当金百円を給与されている。大正十年死去、享年八十歳。「三浦義好履歴書」

   横田末次郎経歴

 横田末次郎は文久三年に本宿享の二男として生れ、明治八年従兄横田蝶次郎常春の養嗣子となり横田家を相続した人である。横田家は家禄四百石の家柄であった。横田蝶次郎の父容吉君易は明治三年死去。その跡を相続した蝶次郎(後改名・龍郎)は部屋住で目付を勤め、維新以降は藩学校で原書を翻訳しながら英語・洋算の教授をし、郷党子弟の指導にあたったが、病弱で明治八年死去した。享年二十七歳。末次郎は時に十三歳。遺言によりその跡を継いだのである。末次郎の養祖母で龍郎の母は菊池啓作の三女、実父本宿享はその弟で菊池啓作の二男。実兄は海軍主計総監をとなった本宿宅命(幼名恒太郎)。従兄には法学博士で中央大学の創始者の一人である菊池武夫等がある。だが末次郎の回想には「当時横田家の収入は道を閉ざされて昔日の面影がなく、灯光影暗きというべき」状況にあり、初め通った盛岡学校も退学を余儀無くしている。そればかりではなく住宅も人手に渡り、親類を転々と間借りしなければならない苦境に瀕し、加えて翌九年に実父死去の不幸までが重なる始末であった。十年末次郎(十五歳)は上京を決心し、実兄本宿宅命を頼り、養家の家族を残して上京する。しかし、頼る兄は西南戦役に従軍。兄の海軍の同僚でもあり、同郷の奈良真志(後海軍主計少将・明治四十四年死去)の家に預けられる形で居候する事になる。まもなく周りの人達の計らいで攻玉塾に通い、その後、進学を希望した兵学校は事情により断念。将来は海運国日本が到来することを予測し、機関生徒を募集する石川島造船所に入社、昼は職工、夜は機関の勉学に勤しむ毎日を送った。一方、養家の生活は一段と切迫し、再三に帰盛を求める便りは到来するが、「横田家の当主が職工で一生を過ごす事は先祖への申し訳がたたない」。明けても暮れても脳裏を過る苦悩の日々、大成ならずして帰える気持ちにはなれなかった。十五年盛岡に残した養母の容態が悪化したとの知らせに急ぎ帰盛、看護にあたったが間もなく死去した。孝養を尽すことが出来なかった事に苛まれつつ、葬儀を終えて再び上京を計ったが周囲が許さず、十六年に漸く念願叶って再上京。以降海上機関士となるために独立独歩、苦学の道を歩み、二十年に主任機関士(二十五歳)、次いで同年機関長へと昇進することができた。この間に家族を東京へ引取り生活は安定するに至った。その後日清・日露の両役には准尉官待遇で陸軍兵士輸送の任に当り、のち海外航路に従事して昭和十二年波乱万丈の生涯を閉じた。享年八十歳。その子には「自分は生活苦のため勉学したくても出来なかった。体験上学んだことは、勉学に励み、素養を身に付けて人格形成に励むこと、人のために尽す事は良いが印判押捺は絶対するな、借金はするな」と教えている。「覚書」

  台橘郎の経歴

 同じ船の道を歩もうとした一人に台橘郎がいる。台家の家禄は五十一石六斗。橘郎は安政五年台竹之進義明の嫡子として生れた。十歳(慶應三年)の時に藩学修文所に入学して漢学を学び、十三歳(明治三年)の時に藩食生(藩費生の義ヵ)となる。翌四年上京、父の友人の許に居候となりフランス語を学ぶ。五年横須賀造船場に入社して造船工となり、六年造船学校官費生となる。九年事情により中退。同年東京在住にて開拓使に雇われ白峯丸の造船に拘わる。十年室蘭造船所が新設したのに伴い転勤、同年更に札幌に出張してバッテラの造船に従事する。しかし、同年父の病気により退職して帰盛。十一年岩手県勧業課製鉄雇となる。十三年岩手県を退職して秋田県土崎港造船会社に勤務するが、翌十四年倒産で解雇。次いで跡地に設立された秋田造船会社に勤務するが、同社もまた十六年に倒産。やむなく同社跡地に造船業を自営開業する。しかし、これも上手くゆかず翌十七年に廃業、尋常小学校の仮訓導となる。十九年秋田県能代港に帆前船会社が設立さウれ、招かれて入社するが、間もなく同社も廃業。再び同地を借りて造船業を自営する。二十年秋田市に出て鉱業に従事、更に二十一年秋田県土木課雇となる。その後も秋田市役所、秋田県直税分署等と勤務を二転三転した後、鉱物分析所を設立して鉱山測量に従事。二十六年更に青森県下に居を移して各地諸鉱山で測量に従事、明治四十一年青森県大鰐村で死去した。七転び八起き。将に不撓不屈、波瀾万丈の人生であった。享年五十歳。「台橘郎履歴書」

   新渡戸常文の経歴

 新渡戸常文は通称謙吾、明治三年新渡戸連蔵の嫡子として生れた。父の家禄は百石。維新後の父謙吾の履歴は未詳であるが、九年に隠居。それに伴い常文が家督を継いだのは七歳の未だ幼児であった。その後の委しい経歴は不明であるが、父は実は野田舎人の二男、父の実家で養育されたものだろうか。家譜によれば成長の後、初め小坂鉱山に勤務して機械製図見習生となり、のち上京して東京平岡工場、芝浦機械製作所と転職しながら鍛工に従事。更に新橋工場に移り、二十七八年の日清戦役の後は鉄道隊に勤務して台湾鉄道の建設に従事する。当時の年令は二十四・五歳、二十八年父連蔵は死去した。その後更に北海道庁に技手として勤務、三十一年に開通をみた旭川鉄道の建設に従事している。その後三十五年病に犯されて退職。働き盛り、人生これからという時期に惜しまれて同年死去した。享年三十三歳。法名は鐵忠院浄進孝道居士と諡されている。苦難の中、孝養を積みながら無我夢中の人生であったと想う。如何に鐵に親しみ鐵を一生の友として在りし日を過ごしたか人柄が偲ばれる。「新渡戸家系図」

   三浦常弥の経歴

 三浦常弥は慶応二年三浦忠左衛門頭喜の三男として生れた。家禄二百石余。長兄数弥は夭死、次兄笵治は明治四年父の隠居に伴い家督を継ぎ、十年に事情不明ながら二十一歳の若さで隠居。常弥はその跡を受けて兄の家督を相続した。時に十三歳。実父は旧采地の三戸(青森県)で余生を送り、兄笵治はその後一関(岩手県)で死去している。常弥は家督を継いだとはいえ十三歳の少年。どのような成長経歴を辿ったものかは明らかではないが、十八年岩手師範学校高等師範科を第一期生として卒業している。岩手師範学校は九年の創立。実父頭喜は川嶋与蔵忠英の二男、杢左衛門中理(のち静雅)の弟である。更に云えば、嘉永六年若年寄であった杢左衛門は家禄家屋敷没収となり、実弟三浦忠左衛門の養育となったが、明治元年罪を免ぜられた経過があり、また勤勉実直、人徳の人であったために人望が厚く、当時相当の生活をしていたことが川嶋家の記録から読み取れる。常弥は推して伯父川嶋静雅に養育され、その援助により師範学校まで進学したものと知られる。卒業後は岩手県立一関中学校教諭を振り出しに滋賀県立彦根中学校、大分県立大分中学校、福岡県立柳川伝習館中学校、佐賀県私立瀧谷中学校、福岡県私立九州高等女学校、岩手県立福岡中学校、京都私立清和中学校、愛知県豊橋市立高等女学校、名古屋私立金城高等女学校、三重県桑名市立高等女学校、三重県立津中学校、名古屋私立育英商業学校、名古屋私立金城女子大学と歴任。この間、昭和十五年に教育勅語渙発五十周年式典において勤続五十九年により文部大臣から教育功労者表彰を授かる。昭和二十年死去した。享年八十一歳。「三浦家系譜」「角川岩手県姓氏歴史人物大辞典、工藤草稿」

   小山融機の経歴

 小山融機は実名秀綱。嘉永二年に家禄五百石、高知・戸来守(のち感)の嫡子として生れた。明治二年父の隠居により二十一歳で家督を相続、秀才の誉れ高く、同年フランス語を学ぶため上京。幕府の蕃書調所教授方を勤めた村上英俊の家塾に入門し、翌三年に大学南校に入学、藩貢進学生(藩費生)となった。同年学制改正に伴い大坂の開成校に移り、四年帰京、更に福地源一郎、箕作麟祥、中江兆民等に師事する。福地源一郎は家塾の外、南部家の共慣義塾でも教授を勤めたことが知られる、明治時代を代表するジャーナリスト。箕作麟祥は祖父が津山藩の蘭学者箕作阮甫、父は阮甫の養子で水沢(岩手県)出身の省吾。当代切っての洋学者であり法学者。中江兆民は土佐から出て江戸に遊学し、村上英俊塾に学び、維新後は箕作麟祥の門に入り、更に福地源一郎の塾で塾頭となり、大学南校ではフランス語を教えた、何れも幕末明治時代の錚々たる洋学者を師と仰ぎ、学問の道にあったことが知られる。この年、戸来を本姓の小山氏に改姓し小山融機と改名した。翌五年陸軍省徴兵課に出仕して十四等出仕に補され軍人の道を歩む。六年陸軍權少録となり、第一軍管徴兵使書記を初めとして第四軍管徴兵使書記、第六軍管徴兵使書記、第五軍管徴兵使書記と転勤、この間十二等出仕に昇進、九年に内務省に転属して十二等出仕に補されたが、同年病魔に犯され休職入院を余儀無くす。翌十年復帰したが内務省改革により免職、即日新たに内務省八等官属となり戸籍局に勤務、十一年七等官属に昇進したが再び病床に伏し、将来を惜しまれて同年死去した。享年二十九歳。「戸来家七百七十年史」

   北守政直の経歴

 北守政直は通称縫人、また清次郎、安政五年北守良太郎政智の嫡子として生れた。北守家は御新丸番頭家格で家禄二百五十石。政直は明治三年二月に家督を相続、盛岡藩權大属となった。同年免官。九年岩手県に出仕、地租改正係雇となる。その後県税係となるが、十一年開拓使函館支庁に出向して会計課に配属される。十二年民事課に勤務。十三年岩手県からの出向停止なり、新たに開拓使に採用されて准判任官に任官、函館支庁民事課勧業係となる。同年会計課統計係兼記録課編纂係に転任。十五年開拓使廃止により開拓使会計等の残務整理に従事す。同年函館県に出仕、九等属に任ぜられて兵事課に勤務す。十九年函館県等を廃止して北海道庁が設置される。これに伴い北海道庁属函館支庁在勤となり、同年判任官八等に叙される。二十年北海道函館区書記、二十七年函館築港審査委員、次いで函館港検疫官、二十九年依願免官。台湾に移って台北県属となり内務課兼財務課会計科勤務。三十一年内務部所務課長心得兼知事官房係長心得、養済院長心得となり、内務部庶務課及び官房秘書課兼文書課を兼務す。三十二年知事官房秘書課長兼文書課長となり、土語通訳兼掌者試験委員、巡査看守懲罰審査委員を勤め、同年依願免官。三十三年再び北海道に戻って函館区助役となり諸職兼務す。四十三年函館区長(現市長に相当)。大正五年満期退職。その後も各方面に活躍し昭和十五年死去した。享年八十三歳。「北守政直履歴」

  一條基緒の経歴

 一條基緒は天保三年一條友弥基定の嫡子として生れた。通称友治のち友次郎。安政二年父の隠居に伴って家督を相続。家禄十駄四人扶持、時に二十四歳。嘉永元年部屋住で小納戸、同五年奥勘定奉行、安政二年家督の後免。文久年間尾去沢銅山山詰兼廻銅支配人となり、同三年江戸勤番。明治元年小納戸。二年会計官(大蔵省の前身)鉱山司權判事に登用される。同年小坂、尾去沢、大葛、真金の各鉱山を出張。同年実名基緒を名乗りとす。この年鉱山少佑に昇進。三年佐渡県に出向して製鉱所(洋式製錬所)の取建工事に関与。同年鉱山大佑、次いで工部省設置により転属して鉱山寮十二等出仕、四年十一等出仕、次いで鉱山大属、五年工部省七等出仕、この歳鉱山師長ゴッドフレーと共に長崎県高島炭坑の官工準備に向けて長崎県に出張。六年従六位鉱山權助に叙任、鉱山寮主計課長となる。八年阿仁鉱山寮支庁在勤。十年官制改革により鉱山寮廃寮、鉱山局設置を機に退官。明治八年の官員録によれば、その部下に旧盛岡藩士大島高致、川口秀俊、下間継旦、飯岡政徳、高橋重中、山内長次郎、小山田寛哉、田鎖綱記、阿部知清、長沢行蔵が、また記載はないが小田島由義(のち秋田県鹿角郡長ほか歴任)などがあり、当時、基緒の上司となっていた鉱山寮助大島高任を含めて、その多くは基緒の紹介により任用された人達と伝えられている。その一人、田鎖綱記は後に官営大葛鉱山に勤務の後、速記術を学び、日本における速記術の開拓者となったことは周知の通りである。十三年岡田平蔵の経営する鉱業会社に招聘され尾去沢支局長となり、翌十四年同社辞職。十五年南部家家令、二十六年病により家令を辞職して盛岡に帰郷、二十七年盛岡で死去した。享年六十二歳。「明治政府に仕えた南部藩士・一條基緒伝」外

  中原兄弟の経歴

 中原雅郎は家禄百石中原勝弥の嫡子として生れ、維新後盛岡洋学校を設立、のち広島師範学校教授、兵庫県姫路中学校長等を勤めて明治四十年東京で死去した。その弟貞七は安政四年に生れ、明治四年兄雅郎が経営する盛岡洋学校に入学、六年同校廃校の後八年に宮城外国語学校に入学し十年卒業。更に仙台中学校、東京帝国大学予備門を経て十二年同大学文学部政治理財科に入学、十六年卒業の後東京駿河台の私立成立学舎を譲り受け、同舎の舎長となる。同舎は慶応義塾や高橋是清の共立学校に並ぶ中等教育機関として秀才が集まり、卒業生は全国高等学校を初め、札幌農学校、海軍兵学校の入学に合格する者が多かったと伝える。明治二十年女子部を設立して女子教育にも力を注いだ。これからの日本は人が大事である。その人を育てるのに母親の力が絶対不可欠である。従って自分は母親となる女性の学力向上に身命を掛けたい。しかし、女子部設立は脆くも資金繰難を招来し、経営不能に陥って両部とも他人へ依頼するに至った。心情余りある。その後二十五年山形県尋常中学校長、三十一年島根県第二尋常中学校長などを歴任し、三十八年大阪府立八尾中学校長となり大正三年退任した。その後の消息は未詳である。子孫の方は神奈川県に在住の由、何時の日かその後の経歴も辿ってみようと考えている。山形中学校在任中の生徒の一人であった後の首相・陸軍大将小磯国昭は「葛山鴻爪」(昭和三十八年刊)の中で「校長は中原貞七と云う豪壮恬淡な先生云々」と記している。兄弟の義兄弟に田丸卓郎の父田丸十郎、大川碌郎、小野慶蔵がいる。「角川岩手県姓氏歴史人物大辞典、工藤草稿」


    その原点は何か

 世界を駆け巡った人もあれば、郷里で一市井人として全うした人達もいる。人さまざまな人生はあったが、一朝にして根底より生活基盤を覆され、夫々が苦難の道を切り開き、一生懸命生き抜いたことは誰もが共通していることである。しかし、ここに紹介した人達に限ってみるならば、横田末次郎は「先祖への申し訳がたたない人生はすごせない。素養を身に付けて人格形成に励むことだ」と自分に言い聞かせて頑張っている。台橘郎や小山融機はフランス語を学ぼうと行動している。フランス語という共通項はここに紹介しなかった多くの人達に見られる行動パタンのようである。もちろん英語を共通項とする人達も多い。三浦義好のようにひたむきに郷里の為に挺身している人達は更に多い。北守政直の場合は新天地開拓のために、中原兄弟や三浦常弥は子弟教育に身命を注いでいる。それらの原点は何であったのだろうか。図らずも次に掲げる新渡戸稲造の回想の中にあるのではなかろうか。
 (自分は)五歳になった時、武士の一員となる儀式が行われた。初めて袴で盛装させられ、刀が初めて授けられた。碁盤が客間の中央に据えられ、碁盤の上に立たされた。そして本物の刃のキラキラ光る短刀が私の腰帯に差された。(明治九年三月帯刀禁止令により)高貴な者の義務を象徴する刀を放棄した時、私はしばらくの間、高い台座から落ちてしまったような感じがした。古い秩序はみるみるうちに崩壊し、道徳の道しるべも残さず、求める魂の寄合う所もない。しかし、叔父(養父太田時敏)から日頃「お前は家名を辱めぬため、また代々仕えた殿様を辱めぬため旧敵官軍の人々を凌ぐ偉い人物になる義務があるのだ」と諭された。「元花巻新渡戸記念館館長梅原廉氏メモ」


 夫々の人達の行動パタンは例え違っていても、新渡戸稲造の回想、太田時敏の気持ちは旧盛岡藩士共通の心願であった、と筆者は想う。その言葉の背景にいま一つ大きく渦巻いていたのは既に取巻く環境の一部であったにせよ目が海外にあり、外国語の拾得が視界を大きくする、との認識ではなかっただろうか。次の事柄からもその一端を垣間見ることが出来よう。

     ○

 文久二年以来箱館に勤番し、慶應元年四月語学・西洋学に精通していることを以て藩士に召し抱えられた長岡安平太の二男長岡半蔵照止は、明治二年東京府大学校大得業生に任ぜられ、のち開拓使に雇われている。八年官員録によれば九等出仕で散見する。語学が堪能で函館裁判所通訳などを勤めているが、通訳とはロシヤ語・英語等であろうか。晩年は礼文島で余生を送ったと伝えられているが、詳細は不明である。

     ○

 盛岡市の徳玄寺に国友宗五郎の墓碑がある。碑文によれば宗五郎は藩命により箱館に出向してロシヤ人から銃砲の製作、蒸気機関に関する技術を収得。帰国後は簗川で製作指導に従事する中、文久三年没したと見える。明治元年、東次郎が東北鉄道幹線計画を策定、東氏の理解者であった岩倉具視に鉄道建設に関する意見を熱っぽく話していた伝えられているが、その延長上にあったものと知られる。

     ○

 安政五年幕府が諸大名に日米修好通商条約締結を諮問したのに対し、維新史料綱要は南部家が開国を是とする答申をしたことを伝えて「盛岡藩主南部利剛、幕府の諮問に対し旧法(工藤註・鎖国政策)必ずしも墨守すべきにあらざるを、久留里藩主黒田直和は、別に所存なきを答ふ」と記録している。それはとりも直さず北地警衛の任を帯び、また函館警備の中から入手した、七つの海を視野に入れた情報に支えられたもの。このことからも目を海外に向けようとする環境がそれなりにあったとする推論は傍証されよう。


    おわりに

 後世の歴史家は盛岡藩の戊辰の役を総轄して先見性のある人物が欠如したための悲劇と説く。その善悪正偽を論ずる力はないが、維新以降賊軍として虐げられたとする意見には反論がある。詳細を述べる紙面がないので他藩の例を掲載して筆者の結論とする。

    官軍秋田藩の例

 昨年(平成10年)秋田市において戊辰の役戦没者の慰霊祭と戊辰の役シンポジュームが行われた。旧久保田藩の人達は事ある毎に「官軍の一員として戦った」と主張し、今回も同様であったようだ。戊辰以来の薩長閥政府を倒して政党内閣を樹立した原敬が、大正七年にその戦後五十年の殉難者慰霊祭での祭文「余は戊辰戦争は政見の異同のみ、誰か朝廷に弓を引くものあらんや、その冤を雪げり」の言葉すら、彼等の耳には敗者の辨としか聞こえないであろう。明治二年十一月久保田藩が太政官に提出した領内の戦災記録によれば、荘内口の戦いにては雄勝平賀仙北三郡一万三千百余軒の内、二千三百五十軒を焼失。鹿角口の戦いを含む川辺秋田二郡は三千九百五十軒の内二千三百三十五軒焼失という損害により農村は荒廃を余儀無くし、自藩の戦費のほか西国諸藩からの応援出兵戦費は数十万両に達し、全て藩債として残ったのである。

 それに追い討ちを掛けたのは明治二年正月、久保田藩主佐竹義堯に渡されたのは功労状とは程遠い十二ヵ条の問責状である。
一、慶邦(仙台藩主伊達氏)の家来並に利剛の軽卒を故なく殺害いたし乱条
 不届の事。
一、庄内征伐を仰せ付けられ候処、甚だ柔弱にして、且武道に無拙、都て朝
 敵悉労、兵に打込み、他藩の力を以て防戦いたし、言を欺き増石歎願と申
 候儀、何の面目有りて望み候哉、功なく賞を願し私欲の大胆な事。
一、南部利剛城地召上げられ候上は、天朝之城地なるを以て其藩え守衛申付
 け候処、城地に乗込み候程、剰へ城中土足の侭踏込み、天朝を恐れず不届
 至極の事。
一、利剛東京へ召登られ候節、昼夜歩行の心得にて発足いたし候処、其藩守
 衛を蒙りながら、天命を背き奸ばかりを断り、利剛に失を与えんと欲する
 の条、武家に似合わず真義を失ふ不届之事。
一、盛岡城地守衛申付候処、利剛謹慎を介けず、酒興乱舞等をいたし候条、
 一端不和を醸すと申ながら隣国の好み、租税を失う佐義、不辨不道之事。
一、(中五条略)。
一、其藩柔弱に有りながら他藩を偽り候か、侮り候か、幕下の如く取扱軽か
 らず儀、不埒至極之事。
一、己を捨て人を救ふは人たるの道なるを、人を捨て己を立ん事を至りせし
 めば、職分に似合わざる事。
      正月

 奥羽にて孤立する中、領内を戦火に晒してまで勤王の節を守ったにも拘わらず、戦後の政府の対応は冷ややかなばかりでなく、奥羽越列藩同盟を離脱した節の無さとまで詰られるに至っては何をか云わんやである。明治九年の新聞報道に「士族は秋田県下に八千余人ありて、十分の九分九厘は懶惰にして職業なく、空しくお情けの仕送りを消費するのみ」(東京日日新聞・明治9、2、4付)。

 「官軍の一員として戦った」という、この時代錯誤とさえ感じる言葉が今に生きていること事態、筆者には「誇り」というよりは、むしろ、先人の口惜しさを代弁する裏返しの言葉と聞え、哀れさえおぼえてる。

   賊軍松山藩の例

 ある一日、聴くともなくラジオの囁きが耳許をかすめていた。誰かと誰かの対談が正岡子規の話題に移っていた。文学談義ではなかった。子規は伊予旧松山藩士。松山藩は戊辰戦争では朝敵とされて追討をうけ、土佐藩に軍事占領された。やがて藩主松平勝成らの恭順の誠意がみとめられて占領を解かれる。子規らには将に屈辱の歴史があった。薩長土肥の出身者を見下し得る人物に大成することが多くの旧松山藩士の心願となり、その中から正岡子規が誕生した。子規が文学の道で頂上を極めるに至る背景には屈辱を撥ね除ける原動力があったため、といっているようであった。

   官軍佐賀藩の例

 薩長土肥の一翼を担った肥前旧佐賀藩士の動向を、「一族再会」江藤淳著に見る事ができる。佐賀藩は鳥羽伏見の戦いの後、薩長勢力から追討宣旨の請求がなされ、危うく逆賊呼ばわりをされる憂き目を味わいながら、当時日本最強の軍事力を保有していたこともあって官軍の一員として迎えられ、奥州戦線には主力として参戦した国柄である。その経過を著者の口を借りて述べるならば「前藩主鍋島閑叟(藩主はその子茂実)は薩長が朝命を仮て私意を遂げようとしていることを、極めて明晰に見抜いていた。それどころではない。外圧の大きさを痛感しており、その前で国内分裂を激化させる事の危険を知り過ぎていた。一方、その対外感覚を京都の薩長勢力は全く欠いていた。口に攘夷を唱えながら彼等の関心が国内の政権奪取にしかなかったことは、慶喜の大政奉還後まったく外交的無策に終始し、長崎港を無政府状態に放置して平然としていたことからも窺われる。閑叟は上洛を遅らせたのはこの混乱の収拾にあたっていたのである。佐賀藩追討を主張した薩長が実行に踏み切れなかったのは、一つには閑叟からこの対外感覚の欠如を反撃されたからであり、さらには佐賀の強大な軍事力を無視できなかったから」といい、更に佐賀藩が奥羽に出兵した動機に触れて、(要旨)「奥羽追討に佐賀藩の出兵を要請したのは岩倉具視であった。遅ればせながら彼(岩倉)もまた薩長軍を以て奥羽勢を討つことの不利を悟りはじめていた。それは奥羽列藩の戦意を昂め、官軍は私兵に過ぎないという批判を愈々激化させるであろう。薩長の中に佐賀藩を出兵させることは明らかに官軍が私兵でない論拠となる。これに対して最初から武力追討に批判的であった閑叟がこの要求を容れたのは、これまでの親幕的な過去を持して、会津庄内の嘆願運動を前面に掲げる奥羽列藩同盟に向き合い、戦わずに鎮撫できる可能性を保持していること。戦って選果を挙げれば閑叟に異心ありという薩長のいいがかりに報いることができる。和戦にかかわらず(佐賀藩の)出兵が不利な立場から抜け出せる。此の両者の利害の一致がもたらしての出兵であり、その結果は強力な近代的軍事力を誇示して、新政権内に確かに存在を大きく浮上、発言権を得たのであった」という。因に、「戊辰の役を通じて佐賀藩の出兵は五千百余人、内戦死者七十五人負傷者百十三人。薩摩藩は出兵七千三百余人の内戦死者五百十四人、負傷者七百四十三人であった。佐賀藩は当時では核兵器に相当するアームストロング砲や射程距離が長いエンヒールド(後装式施条銃)、七連発スペンサー銃を装備して各地の戦線で決定的破壊力を発揮した、」と
 わが盛岡藩もその装備の前に屈したことは周知の通りである。

 江藤淳の論は更に続く。
 佐賀藩に比して薩摩藩は火縄銃程度の装備。両軍の装備優劣の差が、歴然として死傷者数に現れ、薩長の誤解を深めさせる結果を招来した。維新史の裏面で佐賀藩出身者に対する猜疑が育まれ、江藤新平らは追い詰められて佐賀の乱の結果で終った。佐賀藩は新政府樹立に利用され、その後薩長閥に葬りさられる歴史を辿った。それはかつての栄光ある佐賀海軍が薩摩閥海軍によって衰退を余儀無くしていった道程でもあった。


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