平成19年9月15日
「盛岡暦」が県文化財に
金澤コレクション まとまった時代の14年分
庶民向けに遊び心も



 県文化財保護審議会(会長・工藤雅樹東北歴史博物館長)は14日県庁で開かれ、諮問された「南部絵暦盛岡暦?金澤コレクション」を有形民俗文化財、九戸村の「黒山の昔穴(むかしあな)遺跡」を史跡として県指定するよう答申した。県指定文化財は2件を含め341件。有形民俗文化財は27件目、史跡は38件目の指定となる。金澤コレクションは昨年12月、県に寄贈されたもので嘉永6年暦(1853年)から明治3年暦(1870年)までの全14枚で、江戸時代とその流れで製作された盛岡暦は現存がわずかしか確認されていない上、コレクションは江戸末期から明治初期にかけ連続性が認られ、盛岡暦の変遷を理解する上で欠くことのできない極めて貴重な史料として指定に至った。

 江戸時代の暦は文字によるものが普及していたが、南部絵暦は読み書きをできない人にも理解できるように文字を絵に置き換えて表した暦。審議会委員で南部絵暦研究の第一人者、工藤紘一氏によると、幕府では天文方で製作した公式の原案を基にした暦製作は各藩内に認められていたものの、中身を変えたり追加したりすることは基本的に禁じられていた。

 その中で、2つに分類される南部絵暦の最初にできた田山暦は農民救済の面が強く、1年の農作業のポイントとなる暦を農民に普及させる狙いから発案されたとみられる。その後に盛岡暦という現在も毎年発行されている構成の絵暦が開発された。田山暦は手書きや絵柄など一つ一つの象形を判にして作成したのに対し、盛岡暦は図柄を1枚の版木に掘って印刷した。城下では武士や町民が多く、工藤氏は「農民救済ということより売ることを念頭に置いて、見て楽しい遊び心が入ったものに変節している」と解説する。

 版木1枚あれば多量の枚数が刷れ、人気があったため販売し続けたとみられるが、「暦は使い捨て」(工藤氏)のため今日まで現存するのは、文政9年暦(1826)から明治5年暦(1872)まで31年分32種類だけだ。(ただし、盛岡暦は明治の初めごろに10年ほど途絶え、復活しており現代も毎年作られている。)

 その中で金澤コレクションは途中に欠落はあるもののまとまった時代の18年の間の14年分が残され、現存が確認されているうちの約半数を占めている。いずれも盛岡藩全般の印刷をしていた城下の舞田屋理作・喜作の発行で、ほとんどは舞田屋の発行。舞田屋は明治初年で発行をやめ、その後は暦屋が乱立、競争する時代が数年あったという。

 金澤コレクションは十和田市在住の郷土史家金澤浩氏が1964年、旧盛岡藩領だった五戸町の中村家から入手した。県立博物館で80年の開館以来、5枚を借り受けて常設展示してきたが、昨年、金澤氏から県に寄贈された。盛岡暦関係資料では盛岡市内個人蔵の天保13年暦(1834)が県指定されているほか、明治20?30年代の「南部絵暦・盛岡暦版木」10枚が県指定されている。

 黒山の昔穴遺跡は折爪岳直下の標高430メートル前後の尾根上に立地し、県北部に分布する平安時代の代表的な高地性集落。10世紀後半から末の時期に集落が営まれている。個人所有で約3万7468平方メートルが指定となる。

 遺蹟保存状態が良好で、当時の社会情勢を知る上で貴重な遺跡というのが指定の理由としている。
                   「盛岡タイムス」平成19年9月15日     

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