孫らで組織する技栄会
四月に除幕式を予定
盛岡藩出身の海軍大将山屋他人(1888?1940年)顕彰碑が盛岡市北山の時宗教浄寺(盛岡市北山、松尾正弘住職)に建立される。同寺は山屋家祖先が眠るゆかりの地。山屋他人直系の孫に当たる山屋登氏(東京在住)が菩提寺の東京・長谷寺から古里の教浄寺へ分骨するのに伴い、孫たちで組織する技栄会が世話役となって、後世に故人の偉功を伝えようと松尾住職らと計画した。四月十九日に除幕式が行われる予定。
顕彰碑は玉山村産の花こう岩で、自然の形状を生かす。高さ2メートル、幅1メートル。「海軍大将山屋他人の碑」と揮毫(こう)が入る。功績を記載した銅板も取り付けられる。
建立揚所は教浄寺境内の本堂前の一角。分骨と合わせて除幕される。分骨するための墓は昨年のうちに整備が完了している。
山屋他人は盛岡出身の旧盛岡藩士。盛岡学校卒業後、中津川沿いにあった猪川塾に学んで1879年(明治十二年)、伯父の野辺地尚義(東京芝紅葉館支配人)を頼って上京。攻玉社をへて1888年、海軍兵学校を三番で卒業。日清、日露、第一次世界大戦すべてに出征した。
1919年(大正八年)、斉藤実に次いで本県出身者としては二人目の海軍大将。1904、5年(明治三十七・八)の日露戦争、日本海海戦で自ら考案したT字戦法を東郷平八郎大将が採用。バルチック艦隊に完勝した。
他人の末娘の江頭寿々子さんの一人娘である優美子さんが、外務省勤務の小和田恒氏と結婚し、雅子妃殿下がお生まれになった。
現在山屋他人が眠る長谷寺(ちょうこくじ)は東京都港区西麻布に所在。永平寺別院として格式のある寺院。
登氏ら親族は昨年初め、祖先をとむらい、山屋本人の古里である教浄寺へ最終的に墓を一つにしようと考え、分骨する計画を進めた。顕彰碑は技栄会メンバーが郷里に功績を伝える目的で昨春から取り組み始めた。
同会の一人、岩下秀男氏(法政大名誉教授)は「山屋家の墓は(山屋他人の)東京と(祖先の)盛岡の二カ所。すべて古里に移そうと話が進んだ。顕彰碑は他人の功績を墓誌で残すため技栄余がサボートして松尾住職と協議してきた」と話す。
岩下氏は山屋他人功績を残す伝記の編さんも進めている。
「盛岡タイムス」平成15年2月17日
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孫21人顕彰碑建立へ
足跡を伝えたい
盛岡出身の海軍大将・山屋他人
市内の教浄寺・四月除幕
盛岡市出身の海軍大将で皇太子妃雅子さまの曽祖父、山屋他人(一八六六?一九四〇年)の顕彰碑が、盛岡市北山一丁目の教浄寺(松尾正弘住職)に建立される。碑は、山屋の疎二十一人でつくるいとこ会、枝栄会が建てるもので、除幕式は四月十九日に行われる。
山屋は盛岡で生まれ、一八七九(明治十二)年に上京し、海軍兵学校・海軍大学校を卒業。一九一九(大正八)年に海軍大将となり、連合艦隊司令長官などを務めた。戦術家としての功績が語り継がれている。退役後に七十四歳で亡くなった。海軍葬の葬儀委員長は米内光改が務めた。
墓は東京都西麻布の長谷寺にあるが、管理が困難になってきたこともあり、山屋家のぼだい寺だった教浄寺に遺灰の一部を移すことが決まった。四月十九日に分骨式と顕彰稗の除幕式を行う。
県産の御影石製の顕彰碑は、高さ2メートル山屋の生涯を解説する文章を刻んだ銅板をはめ込む。顕彰碑の建立は、孫で法政中大名誉教授岩下秀男さん(七八)=東京都在住=が中心に昨夏から進めてきた。岩下さんは山屋の伝記本も執筆中で、除幕式前に完成する予定だ。
子どものころ、数年間を山屋とともに過ごした岩下さんは「祖父は謙譲を美徳とする人だった。子孫として功績を明らかにし、後世に伝える責任がある」と話している。
「岩手日報」平成15年2月17日
【参考】 山屋家の略家系
山屋家は祖を、稗貫郡主稗貫大和守武重に族臣として仕えた亀ケ森能登喜明と伝える。亀ケ森氏は、同郡亀ケ森村(大迫町)を領した在名による。
天正十八年、豊臣秀吉による奥州仕置によって稗貫氏は滅亡。当主稗貫孫三郎家法の夫人は、亀ケ森能登喜明を伴って三戸(青森県)に落ち、南部信直に謁し、後、その側室となり稗貫御前と称した。随身した亀ケ森能登は、南部家に召抱えられ、百石を九戸郡山屋村(九戸村)に宛行われ、山屋三右衛門と改めたという。その跡を嫡子万左衛門家明(のち三右衛門)が相続、慶安元年に知行切添新田十石を加増され、高百十石となった。盛岡蔵奉行を務め、寛文元年に死去した。家明に二男あり、家督はを嫡子万右衛門辰明(のち三右衛門)が相続。同五年山屋村が八戸領となり、上地によって稗貫郡円満寺村(花巻市)、岩手郡松尾村に知行替えされた。同十三年松尾村に切添新田二十石を知行、延宝七年改有高四石五斗六升を加増、高百十四石五斗六升となり、貞享元年死去した。子孫は連綿と相続。盛岡の現当主静子は盛岡市に在住する。
一方、二男は勘右衛門という。勘右衛門は藩主重直の代に召し出され、四駄二人扶持(高二十石)を知行、貞享二年死去した。山屋他人家の初代である。
勘右衛門にもまた二男があった。長男半弥勝興は寛文十年に、別に召し出され一家を興し、従って、次男勘之丞が嫡子となったが、天和三年部屋住で死去。このため、勘右衛門の家督は、孫でかつ勘之丞長男の勘五郎勝写が嫡務承祖した。しかし、幼少相続のため家禄は減せられ、二人扶持を相続した。当初四駄は成人までの預りであったことも想定される。舞台御用を勤め、寛保三年死去した。その跡を本家山屋儀左衛門勝如の次男門平勝武(三戸百助相手、宝暦六年没)が継ぎ、以下、兵太(のち軍太夫・勘右衛門、勝武の実弟、用人方物書など、享和四年没)─ 留之助勝安(のち勘右衛門、土川惣右衛門の叔父、天保五年没)─ 権八(高浜八十八の四男、元治元年隠居)─ 富治勝寿(大萱生忠右衛門秀徽の次男、明治七年隠居)と養子相続が続き、結果として家禄の回復はなかった。明治七年父の隠居に伴い他人が相続。明治十一年の士族明細帳によれば、盛岡の加賀野新小路三〇番屋敷に居住と見える。その後、明治十九年に海軍兵学校を卒業。大正二年海軍中将、のち第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官、横頴賀鎮守府司令長官などを歴任。同八年海軍大将となり、昭和十一年退役、同十五年没した。その跡を太郎が相続、現当主登は東京都に在住する。他人の五女寿々子は江頭豊と結姫、その娘優美子は小和田恒と結姫し、その長女雅子は、平成五年皇太子妃となられた。
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