「旧盛岡藩士桑田」は旧盛岡藩士の末裔が組織する、会員数1700余名の団体。明治維新後、様々な思いで故地を旅たった旧藩士の末裔は、全国に支部組織を結成して今日に至っている。
首都圏に在住する人達の首都圏三支部(関東支部・神奈川支部・埼玉支部で約400名ほど)はそのひとつ。会員同志は初対面であっても、会話が弾めば何代か前の先祖が親族関係のケースが多く、忽然として、さも旧知の間柄であったかのような空気を醸し出す不思議な組織である。
先祖が盛岡を離れて百数十年。盛岡の地を知らない人達も多く、先祖の故地を想う気持ちは強い。
旅行会の歴史は古く、かつて、関東支部が毎年6月に盛岡市で開催される本部総会への出席者を、先祖の地を巡る旅行会と抱き合わせで募ったがはじまり。その後神奈川支部・埼玉支部も合流して、現在では隔年ではあるが、十数年の歴史を持つ親睦の旅行会となっている。
これ迄、三戸・九戸・花輪等などの史跡・旧蹟を訪れたが、ことしは三陸沿海岸及び閉伊街道(宮古一盛岡)の史跡を巡る。
平成15年6月7日(土)、一行は東北新幹線「はやて3号」で東京駅から車中の人となり、仙台駅で下車。バスに乗り換えて国道45号線を北上。宮古市の民宿に宿泊する予定。
主な見学場所は、釜石市唐丹の星座石、宮古市では浄土ヶ浜のほか、宮古海戦記念碑、旧盛岡藩の鏡岩及び鍬ヶ崎の砲台跡、藩主南部重信出生地の花輪、ここには重信生母花輪氏松の墓碑もある。その他、楢山佐渡の菩提寺であり、南部重信ゆかりの華厳院など
一行は翌8日盛岡にて解散、総会に出席する。
文責 工藤利悦
参 考
【星座石】
享和元年9月(1801)伊能忠敬は日本沿海興地図作製のため唐丹村で実地測量をしている。同村の肝煎葛西昌丕は、文化11年(1814)これを記念して碑を建立、併せて「地球は微動するという西洋の説を確証するよう後世の人々に依頼する」と刻んだ「星座石」をのこしている。伊能忠敬の測量記念碑は全国でも珍しいものとして岩手県の文化財に指定されている。
【山田湾内のオランダ島】
寛永20年(1643)オランダ東印度会社のプレスケンス号が、山田湾内の大島に碇泊。知らせを聞いた大槌代官所の代官はとりあえず給水を許可する一方、藩主に報告。盛岡藩は船長スハープら10人を拿捕して幕府へ引き渡した。このことがあって、現在、大島は「オランダ島」と名付けられている。
【山田町船越の荒神社】
閉伊十郎行光は佐々木高綱の猶子として源頼朝から閉伊郡半分地頭職を与えられたと伝えられ、末裔は宮古地方を中心に蟠踞した雄族。
実は船越の荒神社の海辺は、鎮西八郎為朝に纏わる伝説の地である。
閉伊十郎行光は、伊豆大島に生まれた鎮西八郎為朝の四男嶋冠者為頼のこと。嶋を船出したのち、辿り着いたのがこの浜であったという。豪壮な景観地として名が知られている。
南北朝期をさかいに閉伊氏は衰退したが、その末裔は、田鎖・大沢・蟇目・高浜・和井内・赤前・片岸・思え・茂市・苅屋・花輪・大川・箱石・田代・山崎・江刈内・小山田・近内・荒川・釜石・長澤氏などに分流した。
【宮古海戦】
明治2年(1869)3月25日、宮古港で官軍と旧幕軍が戦った海戦。わが国海戦史上、壮烈無比、例のない激戦といわれている。
明治2年、榎本武揚の率いる旧幕府軍は箱館の五稜郭に拠って官軍と対峙。北上する官軍の軍艦甲鉄の乗っ取りを企て、回天を旗艦(艦長は掛川藩出身の甲賀源吾。海軍奉行荒井郁之助も参加)に蟠龍・高雄の3艦が南下した。
時に宮古湾に投錨していた官軍の軍艦は甲鉄を先頭に8艦。甲鉄はアメリカから購入した当時の最新鋭艦である。
旧幕軍の艦隊は南下の途中暴風にあって各艦は離ればなれになったが、回天は蟠龍・高雄の2艦を待ちきれず、アメリカ国旗を掲げて唯一艦をもって宮古湾に突入、敵艦の10メートルほど手前で、国旗を日の丸の旗に掲け替えて乗り寄せ、彰義隊生き残りの笹間金八郎、新撰組の野村利三郎ら10人が鋼鉄艦へ刀を振りかざして斬り込んだ。しかし、対峙する官軍艦隊の速射砲に苦しめられ、激戦30分の後、回天は敗走して戦いは終わった。
この戦いで艦長甲賀源吾ら旧幕軍13名が戦死、負傷者は数知れずという激戦であった。官軍も多数の戦死者を出した。
回天は蟠龍と宮古沖で合流、箱館に入港したが、高雄は野田付近の海岸に乗り捨て、艦を自焼して乗組員は降伏した。
この鋼鉄艦は後に東(あずま)艦と命名され、日清戦争の時には「品川乗り出す東艦」と歌にまでなった当時の新鋭艦。
この海戦には官軍方として後の海軍大将元帥東郷平八郎も参加、回天には新撰組の土方歳三が乗艦していた。わが国近代海戦史上、初の海戦であった。
宮古市内には藤原地内に幕軍無名戦士の墓、中里団地には官軍勇士墓碑があり、光岸地には東郷平八郎揮毫の宮古海戦記念碑がある。
【台場】
盛岡が太平洋岸防備のため築かれた砲台。異国船が頻繁に出没するようになった幕末、北は野辺地(青森県野辺地町)から南は大槌まで七浦に砲台を築き、警備兵を配した。台場には土塁を巡らし、その中に大砲を据え、火薬庫、詰め所を置いた。 宮古代官所管内には、代官所内の外、鍬ヶ崎・鏡岩・重茂・磯鶏村の4ヶ所にあった。下記の別表をご参照下さい
【浄土ヶ浜】
陸中海岸国立公園の中でも代表的な景勝地。純白の石英粗面岩からなる小さな半島が海中に突きだし、頂きに赤松の緑を載せ、澄んだ海の青とが見事な調和を見せている。天和3年(1683)霊鏡和尚が発見、「さながら浄土のようだ」と讃嘆したことが命名の由来と伝えられている。
【花輪御前墓碑】
花輪は南部家29代重信の生地。利直の子として元和2年(1616)に誕生している。母は花輪内膳為房の娘松、後年重信は盛岡へ出たが、生母花輪氏はその地に留まり、寛永15年(1638)7月14日花輪で死去、同地に葬られた。享年37歳、慈徳院殿松室琳貞大姉、慈徳院の甥七右衞門政方は寛文5年(1665)、重信によって召し出され50石を宛われた。(子孫は累進して261石を知行した)、二甥刈屋五兵衛為勝は寛文5年に召し出され、のち100石を領した。三甥花輪八兵衛為政は浪人で死去、その子八兵衛正矩の時、寛文中に召し抱えられ、のち100石を領した。
慈徳院の供養碑は盛岡東禅寺境内にもあり、花輪地蔵尊として祭られている。
【華厳院】
花原市に在する曹洞禅院、山号は洞沢山、もとは天台宗の寺院で閉伊頼基(閉伊十郎行光と異名同人)が、その父鎮西八郎為朝の菩提を弔うために建立したと伝えられている。
その後田鎖氏は滅亡し寺は荒廃していたが、延徳元年(1489)遠江国(静岡県)掛川の雲林寺四世劫外長現漸次を勧請して再興、曹洞宗に改宗された。本尊は釈迦牟尼佛、藩政時代、この地は南部家の世臣楢山家の知行所となり、同寺は楢山家の菩提所となった。末寺十ヶ寺、更にその末葉が数ヶ寺ある。現在の本堂・庫裡は大正7年(1918)の山火事によって類焼後、同13年に建立されたものである。境内には正保4年(1647)鋳造梵鐘のほか、
明治二年(1869)奥羽越列藩同盟に加担した罪により、明治政府によって勿首の刑に処せられた楢山佐渡の供養碑がある。
華厳院は南部重信が幼少の頃に、読書・書道を学ぶ場であり遊び場でもあったと伝えられている。
また、文化4年(1807)のいわゆる択捉事件で、ロシアに連行された後、帰国した大村治五平は、楢山家の預かりとなった。従って、華厳院に幽閉され、同寺はその終焉の地でもある。
別表 『盛岡領分海岸并箱館表東蝦夷地持場御警衛備覚』より
宮古通
一、銕炮三拾五挺 四拾弐人
附箋 此鉄炮五挺増、長役二人御減、下札之通御仕組直之事
下札 一、銕炮 四拾挺
足軽四拾弐人
一、長役 弐人
右之通此度御仕組直之事
一、長役 四人
一、弓拾五張 拾八人
附箋 此弓隊足軽御止、士分御撰御仕組替事
下札 一、弓 十張
一、弓武者 十人
一、小組頭 弐人
当初之儀は弓修行之者も有之御場所に付き、
右之通此度御仕組直之事
一、長柄弐拾筋 足軽弐拾四人 附箋長柄長役共不残御減之事
一、長役 弐人
一、歩武者 三拾人
附箋 鉄鎗歩武者に御仕立之事
一、小組頭 六人
附箋 此小組頭四人は御減、下札之通御組立之事
一、昇 五本
附箋 一本御減、下札之通御組立之事
一、長役 壱人
一、使武者 弐人
一、郡役 壱騎
一、貝太鼓役 弐人
一、火業師 弐人
一、同手伝 弐人
一、百目銕筒 弐挺
一、歩卒 三拾五人
附箋 一、歩卒 弐拾人
右之通十五人御減、御仕組直方前同断
右へ諸職人従僕庶人共合、天保十三年増人数共弐百六拾三人
右人数宮古代官役屋下ぇ相備、小本より山田迄之沖合に異国船相見得候節早速海岸ぇ為致出張候手当に御座候
一、百目唐銅筒 壱挺
附箋 組み立てぇ御廻御加之事
右は兼て有合之内より相廻候旨弘化四年書上候分
一、打方并手伝之者 弐人
但、旗幕昇等之品も兼て差廻、急卒之手当に備置候
鍬ヶ崎(台場)
一、弐貫目・壱貫目木砲 弐挺
一、三貫目唐銅筒 壱挺
一、弐貫目同 壱挺
一、五百目同 壱挺
右は三貫目弐貫目五百目唐銅筒新製出来相増旨弘化四年書上候分
一、打方并手伝之者 拾五人
但書前同断
鏡岩(台場)鍬ヶ崎・鏡岩・重茂・磯鶏村
一、三百目唐銅筒 壱挺
一、打方并手伝之者 三人
但書前同断
重茂(台場)
一、弐貫目・壱貫目木砲 弐挺
一、五貫目鳳天激筒 壱挺
右五貫目鳳天激筒新製出来相増旨弘化四年書上候分
一、壱貫目木砲 壱挺
一、壱貫目唐銅筒 壱挺
右壱貫目唐銅筒新製出来相増旨弘化四年書上候分
一、打方并手伝之者 拾五人
但書前同断
磯鶏村(台場)
一、壱貫目唐銅筒 壱挺
右大砲場新規取建相備候旨嘉永五年書上候分
一、打方并手伝之者 三人
但書前同断
宮古海岸固、此度増人数共、合三百弐拾壱人
領内七浦の砲台設置場所(宮古浦を除く)
・野辺地浦 合弐百四拾弐人
(台場)湊町浦
・田名部浦 合五百五拾人
(台場)脇沢・佐井・大間・異国間・大畑之内湊町浦・志利労
・七戸浦 合弐百八拾八人
(台場)泊
・五戸浦 合弐百弐拾五人
三戸 五戸七戸為援精 合弐百八拾弐人
・野田浦 合弐百拾五人
(台場)城内・古館・黒崎
沼宮内 野田為援精 合拾弐人
福岡 野田為援精 合八拾弐人
・大槌浦 合三百八人
(台場)大沢・小谷嶋・吉里々々・刈宿・黒崎・尾崎・鎌ヶ崎
花巻 大槌・宮古為援精 合弐百五拾人
遠野家士 大槌・宮古為援精 合七拾人
領内七浦都合弐千弐百四拾五人(計算上の実数2149人 但、援勢の人数を含まない 96人不足)
蝦夷地警衛人数ほか城下へ備置の後詰人数三千百七拾余人
合五千四百弐拾人
七浦とは
野辺地代官所管内の浦、田名部代官所管内の浦、七戸代官所管内の浦、五戸代官所管内の浦、野田代官所管内の浦、宮古代官所管内の浦、大槌代官所管内の浦と読み替えられる、盛岡藩沿岸の総称。
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