平成15年6月30日
九戸政実は独立大名
「南部氏に反乱」は脚色



            室町幕府名家二階堂氏の一族              「群書類従」の中に記載  南部氏に反乱を起こしたとされている九戸政実は、室町幕府の名家二階堂氏の一族で、独立した大名であったことが盛岡市津志田の郷土史研究者・工藤利悦さんの調査で明らかになった。「九戸氏を含めて当時の資料は南部氏によって消されているが、室町幕府の記録に南部大膳亮(三戸南部氏)と並んで九戸五郎・奥州二階堂と大名として記されている」という。これまで定説とされていた歴史が覆ることになる。    九戸氏は南部家初代光行の五男行連の子孫だと言われてきた。  寛政5年(1793年)の群書類従(塙保己一が徳川幕府の援助を受けて和学講談所を開所し、群書類従を編さん)の中に収められている、永禄6年(1563年)5月の諸役人附光源院殿(室町幕府13代足利義輝)御代当参衆並び足軽以下覚書に「九戸五郎・奥州二階堂、南部大膳亮(南部家24代晴政)・奥州」と見え、南部家と並ぶ大名として記されている。  「ここにある九戸五郎は年代的に言って九戸政実。九戸郡九戸村長興寺寺沢の九戸神社に保管されている棟札に、天文7年(1538)の年号で政実と書かれている。政実という名前は元服後の名前。ということは15歳前後で元服するから、この年で15歳以上になる。ところが九戸政実が56歳で亡くなったとする記録が江戸時代にあり、それだと、この年の年齢は3歳、だから56歳という説は否定される。天文7年が15歳として計算していくと永禄6年は30歳位になり、九戸政実に間違いはない」と、工藤さんは話す。   南部信直(26代)の伝記を書いた南部根元記は「信直と敵対した人はすべて悪者になっている。九戸政実は限りなく悪者として書かれ、それを裏付ける資料は一つもない。南部家の手の届く限り資料は無くしているが、足利幕府の記録までは手の出しようがなかった」。現在伝えられている行連から始まる九戸氏の系図も疑わしく、白紙にした状態で調査を進めたという。  九戸氏と二階堂氏の関係については、元弘4年(1334年)に北畠顕家(南朝の国司)から南部又次郎(師行・根城南部)に言い渡した信濃前司入道行珍申とする書状に、久慈郡(現在の九戸郡を含む)を領し、九戸には行珍に繋がる一族の誰かが代官として入ったことが示されている。北畠顕家の文書は根城南部家の文書から見つかった。  この行珍という人は尊卑分脈(室町時代に編さんされた諸家の系図)を見ると、二階堂行朝・信乃守(信濃守)で、法名は行珍=出家した年は正中3年(1326年)=とあり、行珍は二階堂行朝と特定された。行珍が九戸氏の始祖と思われる。「従って群書類従による二階堂系図によっても裏付けられる」と、分散している資料から史実を探り当てた経過を説明する。    「信直は家来の九戸氏が反乱したと言って訴え出たが、実は家来でなく対等の大名同士の関係にあったわけです。秀吉に事実と異なることを訴え出たことは間違いない。これまでの中世史の研究は、全て勝者の歴史で史実から離れている。今後、改めて歴史の再検証が必要だ」と話している。

「盛岡タイムス」平成15年6月30日

    当事者工藤利悦の弁  『盛岡タイムス』に記事として書かれていることは、イメージとしては異論はありません。しかし、「諸役人附光源院殿(室町幕府13代足利義輝)御代当参衆並び足軽以下覚書」に見える「南部大膳亮・奥州、九戸五郎・奥州二階堂」の記録は、既に、知る人ぞ知る史料であり、殊更に新説ではありません。  主張したかったことは見出しのことではなく、「九戸五郎・奥州二階堂」の注釈となっている「奥州二階堂」は何処に繋がる二階堂氏か。の疑問に対し一条の方向付けが見えてきたということだったのでした。  少し具体的に申すならば、 1. 『南部家文書』5号文書「北畠顕家国宣」から、元弘四年に信濃前司入道行珍が久慈郡(九戸郡)を領有し、代官が派遣されていたこと。 2. 信濃前司入道行珍は『尊卑分脈』や『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」「二階堂系図は」等によって俗名を二階堂行親といい、室町幕府の名門二階堂氏の系に繋がる人物であること。 3. 従って、九戸五郎に奥州二階堂氏と表記されている理由は、二階堂行親の身内の誰か(二階堂氏)が代官として久慈郡(九戸郡)にいたことは国宣によって明らかであり、行親に連なる人物の末裔である可能性が高いこと。 という、三段論法的発想ですが、九戸氏 は二階堂行親の末流と考えて大きな誤りはないものと考えます。勿論、今後において傍証史料の積み重ねが重要であることは申すまでもないことです。  因みに関連する史料を列記します。   北畠顕家国宣     (北畠顕家花押)  信濃前司入道行珍申、久慈郡事、申状如此子細見状、早可被沙汰居 代官於彼郡之由、国宣候也、仍執達如件 元弘四年二月十八日    大蔵権少輔清高  南部又次郎                 『南部家文書』5号文書   『尊卑分脈』(国史大系本)第二編     藤原氏 南家祖左大臣武智麿四南乙麿系 乙麿┬許人麿   └是公─雄友─弟河─高扶─清夏─維幾─為憲─時理───┐  ┌───────────────────────────┘  └時信┬維清     └二階堂祖 維遠─維兼─維行─行遠─行政─行光──┐  ┌───────────────────────────┘  └行盛┬行泰     ├行綱┬行経     │  ├頼綱┬貞綱─行朝───────┬行親     │  ├盛綱│    執事      ├行通     │  ├行景│    正仲三三出(家)├行良     │  ├行員│    従五位  行珍 ├女子      │  ├政雄│    信乃守     └女子     │  ├宗綱│    左衞門尉     │  ├光綱└景綱┬光方     │  └女子   └女子 信乃守行朝妻     └行忠─行宗─行貞─貞衡─行直   『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」   為憲─時理─時信─維永─維景─────────────┐  ┌───────────────────────────┘  ├維職─工藤定経  ├景任─資広─行景─工藤景光┬行光 工藤小次郎  │             │   厨川・煙山・福田等祖  │             ├資光  │             ├朝光  │             ├重光  └維清┬清房        └(祐光)─祐房     ├清定         八戸・東・葛巻・坂牛     ├清貫           平舘等祖 (拠三翁昔語)     └維仲─師清─清仲─清延┬祐泰┬祐泰(曽我十郎)                 │  └時致(曽我五郎)                 └祐継──────────┐  ┌───────────────────────────┘  ├祐経─祐時─祐朝 三戸工藤氏祖  └維持(二階堂祖)維行─行遠─行政───────────┐  ┌───────────────────────────┘  ├行光┬行泰  └行村└行綱┬頼綱┬貞綱        ├盛綱├行朝───────行詮        └政綱│ 信濃守・政所           │ 法名 行珍           │           └行忠 評定衆執事  二階堂嫡流                  『続群書類従』巻第161 『続群書類従』所収「二階堂系図」   行政─行光┬行盛        ├行綱┬頼綱─貞綱─行朝───────┬行通        └行忠├行経      信濃守・政所 └行良           ├政雄      元師綱           └盛綱      法名 行珍                 『続群書類従』巻第161 以下は蛇足の弁です。 九戸一揆の原因は、信直対反逆者政実の構図で描かれていますが、 実は根城南部家(遠野南部家)文書である『南部家文書』所収の南部晴政書状(99.100.101号文書)や東政勝書状(102.?108号文書)、その他 元文六年写本『南部根元記』及び『八戸家伝記』・岩手県史等を詳細に読む中から垣間見えることは、南部晴政・九戸政実の連合と信直を擁立する信直の叔父南長義・北信愛(南長義の女聟)等の党との対立であり、その結果に生じた動乱と読むのが至当と思います。              註   南長義について、[南部を名乗る諸家 20 家臣諸家 13 南家 1]では南信義と表記しています。  実は南家の末裔の当主、及び南家から分流した下田家が所有される系図は、何れも信義とあり、世間一般に流布している系図等には長義とあります。引用史料による結果が醸した現象です。  現段階ではどちらかに統一すべきと思慮しつつも、判断が付きかねている状況です。何れは、結論を見出さなければならないことを痛感しております。

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