小山融機

明治維新後における旧盛岡藩士の生きざま 210131

 小山融機は実名秀綱。嘉永二年に家禄五百石、高知・戸来 守(のち感)の嫡子として生れた。明治二年父の隠居により二十一歳で家督を相続、秀才の誉れ高く、同年フランス語を学ぶため上京。幕府の蕃書調所教授方を勤めた村上英俊の家塾に入門し、翌三年に大学南校に入学、藩貢進学生(藩費生)となった。同年学制改正に伴い大坂の開成校に移り、四年帰京、更に福地源一郎、箕作麟祥、中江兆民等に師事する。福地源一郎は家塾の外、南部家の共慣義塾でも教授を勤めたことが知られる、明治時代を代表するジャーナリスト。箕作麟祥は祖父が津山藩の蘭学者箕作阮甫、父は阮甫の養子で水沢(岩手県)出身の省吾。当代切っての洋学者であり法学者。中江兆民は土佐から出て江戸に遊学し、村上英俊塾に学び、維新後は箕作麟祥の門に入り、更に福地源一郎の塾で塾頭となり、大学南校ではフランス語を教えた、何れも幕末明治時代の錚々たる洋学者を師と仰ぎ、学問の道にあったことが知られる。この年、戸来を本姓の小山氏に改姓し小山融機と改名した。翌五年陸軍省徴兵課に出仕して十四等出仕に補され軍人の道を歩む。六年陸軍權少録となり、第一軍管徴兵使書記を初めとして第四軍管徴兵使書記、第六軍管徴兵使書記、第五軍管徴兵使書記と転勤、この間十二等出仕に昇進、九年に内務省に転属して十二等出仕に補されたが、同年病魔に犯され休職入院を余儀無くす。翌十年復帰したが内務省改革により免職、即日新たに内務省八等官属となり戸籍局に勤務、十一年七等官属に昇進したが再び病床に伏し、将来を惜しまれて同年死去した。享年二十九歳。「戸来家七百七十年史」


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