25 晴継公逝去 附達戸信直家督の事(つづき)

九戸政実は家臣・逆臣にあらず



信愛可咲論に勝たりと乍笑座敷を立、英士百人に鉄炮百挺為已上百五十人、何も甲持を着せ諸兵の眞先に進て田子九郎信直の御迎に田子へそ急きける、此信直は南部二十二代右馬頭政康公の二男、石川左衞門高信公の嫡子也、政康公之御嫡右馬亮安信公、其子彦三郎晴信公其和子晴継公なり、殊に嫡女を信直公に嫁玉へは晴政公(註・前出・晴信と同人)の為には従弟と云眼前之婚也、晴継公の為には従弟伯父大姉聟也、其頃信直室は世になかりしかとも身近御因なれば、南部之家督を続き給ふとも誰か違背可有なれ共、世の真偽疑敷時を窺居給ふ所ぇ、北左衞門御迎と出られば幸と被祝、三戸の城へ入り南部二十六代を相続し、晴政公の葬礼を興元院にて執行あり(異本に大光山聖寿寺とあり、牌名芳梢華公、祐清按此牌名春の縁也、然ば正月四日晴政公逝去葬礼にて失玉ふ事実なり)、信直公も御出駕有、世人未心覚束なければ、信直公を始御供之人々何れも膚には物具を着、家中心々なれは外様にも御供仕も有、又間近御一門之内にも病気なりとて不出る人も多し、北左衞門は其日御留主として三戸を守り、子北主馬助秀愛に供さしむ、既に葬禮営事終て信直公三戸へ帰駕ありし所に、半途より左右之詰々の物蔭誰とは不知伏勢不意に趣て鬨を咄と揚、頻りに砲矢を射懸ければ、乱箭雨の如し、其上敵は大勢味方は小勢、不思寄る事なれば、上下大に周章中々防べき様もなく散々乱けり、信直公見知られては叶はぬと思召されけん、御馬乗捨歩立に成て雑兵に紛れて走り給ふ、北主馬之助これを見て此馬は我は拝領仕らん敵の手に渡ん事末代之耻辱なり、其馬に打乗、殿を守り退く所に逆党頻に御跡を慕追詰けるを、北主馬之助只一人取て返し取て戻し、五六度迄かけ散し、其間信直公川守田館に至り玉ひば、家主川守田常陸入道此由を見奉り、大に驚急ぎ迎入奉る、逆党透間なく門内乱入を老武者之河守田子共を左右に立て切て出ければ、御供之若侍北主馬之助・金田一久助等を始、我不劣と互に励し火を散し切て廻れば、逆党是を溜かね門外ぇ退き、少時息次又責入らんと押寄る所を、直々信直公窓挟間(窓挾間とは窓の事なり、異本に庭の桜の枝に拾八艘代のせりとあり)より鉄砲を持て能矯てどふと発玉へば、眞先に進たる人大将と覚へし者を討殺玉へぬれば、寄手一同に崩騒ぎ漸々人数を集め又責入らんと思はれ、少時猶豫し居たる所を、城中の兵勝に乗て散々追散し、寄手は大勢成共、備もなく群りければ、然共朧夜にて敵味方も不辨散々同士討し、四方八方ぇ逃散ける、城中の兵ども遖由々敷御大事、又責来も難斗門指堅用心す、一揆漸々に遁て夫より本所ぇ帰りける、既に東雲も明けゝれば信直公も急き帰城あり、則先祖の跡を追ひ御名を大膳大夫と改め給ふ、急々家中ぇ出仕可在、若違背の輩あらば速に可討果旨一々に触玉へば、南遠江父子、東中務を始め、何れも出仕有り、九戸修理亮政実も此度筋目家督成ば、何迚違背可申とて三戸ぇ出仕すれば、其外誰有て異議に及べき家従には八戸弾正以下之人々不残出仕、御家督も目出度済ければ、家従も本領安堵して末万歳と悦ける。

 


 【読み下し文】

 ■晴継公逝去 附達戸信直家督の事(つづき)

 信愛、咲かすべき論に勝ちたりと笑いながら座敷を立ち、英士百人に鉄砲百挺、已上のため百五十人、いずれも甲冑(かっちゅう)を着せ、諸兵の真っ先に進みて田子九郎信直のお迎えに田子へぞ急ぎける。この信直は、南部二十二代右馬頭政康公の二男、石川左衛門高信公の嫡子(ちゃくし)なり。政康公の御嫡(おんちゃく)右馬亮安信公、その子彦三郎晴信公、その御子晴継公なり。殊に(晴信公の)嫡女を信直公に嫁したまえば、晴政公のためには従弟と言い、眼前の婿なり。晴政公(晴継公か)のためには従弟伯父(祖父同士が兄弟)、大姉(一番上の姉)聟(むこ)なり。そのころ信直室は世になかりしかども、身近き因なれば、南部の家督を継ぎたもうとも誰か違背あるべく、なれども世の真偽疑わしきをうかがいおりたまう所へ、北左衛門お迎えと出られば、幸いと祝われ、三戸の城へ入り、南部二十六代を相続し、晴政公(晴継公の誤りか)の葬礼を興元院(興光院か)にて執り行い、信直公も御出駕あり。世人いまだ心おぼつかずなければ、信直公をはじめ御供の人々いずれも肌には物具を着し、家中心々なれば、外様にも御供つかまつるもあり。間近く御一門の内にも病気なりとて出ざるる人も多し。北左衞門はその日御留主(留守)とし三戸を守り、子北主馬助秀愛に供さしむ。すでに葬礼いとなみごとを終えて、信直公三戸へ帰駕ありし所に、半途より左右の諸々の物蔭、誰とは、知らず伏勢不意に起きて鬨(とき)をとつと揚げ、しきりに砲矢を射懸ければ、乱箭(乱れ矢)雨の如し。その上敵は大勢、味方は小勢。思いも寄らざるることなれば、上下大いに周章、中々防ぐべき様もなく、散々に乱れけり。信直公見知られてはかなわぬと思し召されけん。御馬乗り捨て、歩(かち)立てになりて雑兵に紛れて走りたもう。北主馬之助これを見、この馬はわれが拝領つかまつらん、敵の手に渡らんこと末代の恥辱なり。その馬に打ち乗り殿(しんがり)を守り退く所に逆党しきりに御跡を慕い追い詰めけるを、北主馬之助ただ一人取って返し取って戻し、五六度かけ散じ、その間に信直公川守田舘に至りたまえば、家主川守田常陸入道この由を見奉り、大いに驚き急ぎ迎え御入れ奉る。逆党すき間なく門内に乱入を、老武者の川守田、子供を左右に立てて出ければ、御供の若侍北主馬之助・金田一久助等をはじめ、われ劣らじと互いに励まし火を散らし切って廻れば、逆党これをたまりかね門外へ退き少時息つく。また攻め入らんと押し寄せるところを、じきじき信直公窓挟間より鉄砲を持てよく狙いてどうと発したまえば、真っ先に進みたる人、大将と覚えし者を討ち殺したまいぬれば、寄せ手一同に崩れ騒ぎ、ようよう人数を集め、また攻め入らんと思はれ、少時、猶予しおりたる所を、城中の兵勝ちに乗じて散々追い散らし、寄せ手は大勢なれども備えもなく群がりければ、しかれども、おぼろ夜にて敵味方も弁えず散々同士討ちし、四方八方へ逃げ散りける。城中の兵ども天晴れゆゆしき御大事。また攻め来るもはかりがたしと門を指し堅め用心す。一揆ようように遁てそれより本所々々へ帰りける。すでに東雲(しののめ)も明けければ信直公も急ぎ帰城あり。すなわち先祖の跡を追い、御名を大膳大夫と改めたもう。急々家中へ出仕あるべく、もし違背の輩あらば速やかに討ち果たすべく旨、一々に触れたまえば、南遠江父子、東中務を始めいずれも出仕あり。九戸修理亮政実もこのたびの筋目家督なるには、何とて違背申すべくとて三戸へ出仕すれば、そのほか誰れありて異議に及ぶべき。家従には八戸弾正以下の人々残らず出仕、御家督もめでたく済みければ、家従も本領安堵して末万歳と悦びける。   

     註 晴政公の葬礼を興元院云々とある。『南部根元記』写本の
      一本には「晴政公の葬儀」とするものもあるが、ここでは法
      名を興元院(興光院か)としてあり、晴政公は晴継の誤りと
      知られる。

 【解説】

 ある年、晴継の死により相続問題が起きた。『祐清私記(ゆうせいしき)』は『南部根元記(なんぶこんげんき)』を援用して、信直が晴継の家督を相続する大義名分を「嫡女を信直公に嫁したまえば晴政公のためには従弟といい云々」としている。しかし信直の室(晴政の女)はすでに死去している。しかも、晴政・晴継父子が、信直を盟主とした南長義・北信愛・毛馬内靱負秀範(南長義の弟)等と対峙(じ)し、戦闘状態にあったことを伝える書状(『八戸家文書』)も伝存している。

 戦闘中の南長義・北信愛・毛馬内秀範らは、どのような経緯によって相手方陣営の会議に参加したのか。しかも北信愛がその会議を主導し、信直が相続するに到ったという。誠に不可思議である。

 九戸氏が滅亡した後に、信直の側で作り上げた史書であるにもかかわらず、政実を推す意見を「侫奸(ねいかん)の輩は尊敬親しみに申す」として記載せざるを得なかったところに、この筋書きのほころびが垣間見える。「晴政葬儀の帰り、晴継は闇の中で誰かに殺害された」、また「信直は賊徒に襲撃されたが顔は確認出来なかった」といった表現が随所にみえる。いかにも九戸政実が謀叛の企てを抱いていたかの筋立てであるが、晴政と戦闘状態にあったことを証拠立てている一連の八戸南部家文書では、これについて一切口をつぐんでしまっていることを、どのように読むべきだろうか。その背景に、三戸城主南部晴政・九戸氏の連衡と対峙する信直を盟主とした叔父南長義および長義の女婿北信愛ら連合軍との抗争が透けて見える。その行き着くところに天正十九年(一五九一年)の九戸一揆があったと考える。

  ◇   ◇

 元禄二年(一六八九年)ごろに幕府の周辺で成立した記録に「(南部家の)元祖は南部左衛門佐信時。(以降)右馬助政康、右馬允安信、高信、信直、利直、重直、重信、行信まで九代なり」(『土芥寇讎記』)とある。

 晴政・晴継父子を正系から除去している。藩政時代に晴継の追善供養が行われた形跡がないこともさることながら、二人の墓がどこにあるかも知られていない。語られることのない深層が秘められていると考えるのは邪推であろうか。

 他方、知る人ぞ知る記録であるが、「群書類従」(塙保己一編)の中(巻第五百十一)に、室町幕府の記録、『永禄六(一五六三)年諸役人附』(「光源院殿(足利義輝)御代当参衆并足軽以下衆覚」)がある。同書によれば、外様衆(大名在国衆)五十三人の次に、二十五人の関東衆(大名)が記載され、この中に九戸五郎(政実か)が、南部大膳亮(晴政か)や最上出羽守、佐竹修理大夫義昭ら、関東・奥州の諸大名と肩を並べて見える。九戸氏が足利幕府の大名であった証であり、南部家の家臣ではないことがこれによって判然とする。九戸政実を南部家の家臣・逆臣とする話は、何一つ傍証史料がない『南部根元記』や、それを援用する『祐清私記』など、近世に至って成立した史書を論拠に語り伝えられてきたにすぎない。天正十八・九年の戦闘状態に突入する前、諸豪族を味方にするため、当然、両陣営とも宣伝合戦があったと想定するが、関連する文書が皆無であること事態、如何にも不自然極まりない。実は政実の家臣・逆臣説は、勝者の側が創作した話で、根底から再検討を要する問題であることを痛感する。

 ■闇と昏
 暗さには昏、昧、暗、闇、晦がある。『大字典』によれば、昏は日没よりしばらくの明るさ。昧は夜明けまたは日暮れ方のポッとした明るさ。暗は日の光がなく暗いこと、または昏・明に対して真っ暗闇。闇は暗に同じだが、戸を閉じて光を遮断した暗さ。晦は真っ暗闇で、隠れても知られることのない暗さとある。「夜中の事なれば闇(くら)さは昏(くら)し、(中略)敵を誰とも知らざれば」は、真っ暗闇であったことを表現しているらしいが、「昏(くら)し」の意味は不明。

(前ページに続く)


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