梅村 うめむら

梅村忠左衛門家 200321

 明治元年の支配帳に梅村忠左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば梅村保之丞重保の五男忠左衛門重操を祖と伝えている。重操は初め三平、次いで三左衛門と称し、算吾と号した。天保十四年勘定方に出仕し翌十五年勘定方となった。嘉永三年士班に列し、三人扶持を食禄した。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十二石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。三戸蔵奉行を勤めた。兄重得より算学を請けて大成したが、研究熱心で、殆ど兄の蔵書による独学で修めという。子弟の教育に熱心で、算学の業を受けた者数百人に達したという。明治三年に隠居。同二十九年に死去した。享年七十九歳であった。著書には三環円傍斜適等集、六斜五円適等集、算法紹差解義、未済算法など多数あり、それらの著書は門弟松原正固、金田一勝定によって東北大学に寄贈された。その跡を明治三年、本家梅村重得の子忠作重吉が養嗣子となって相続、その算法を継いだ。明治十一年の士族明細帳によれば、当時重吉は東中野村(盛岡市)二百二番屋敷に住居していた。その跡を嫡子重助が既に死去していたので、大本家梅村重遠の三男慶郎が相続、当主の信和氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の龍谷寺にある。

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