梅村 うめむら

梅村 隆家 200321



 明治元年の支配帳に梅村 隆家がある。『参考諸家系図』によれば梅村喜左衛門重房を祖と伝えている。重房は初め奉公人として南部家に仕えていたが、延宝九年小栗市之助良純兄弟が大名預人として盛岡に配された時、兄弟に附けられた。享保五年小栗氏預りを解かれた時、それまでの勤務により刀差に取立てられ、一両二歩と、台所より一人扶持を食禄した。その後同十五年に隠居し、寛延元年死去した。その子久右衛門重盛(実は工藤久次郎盛往の三男。初め門次郎、久太夫)同二十年に組付御免となり士班に列した。この時一人扶持を加扶持、一両二歩二人扶持(高十九石五斗)となった。別段廻り、数寄屋奉行、盛岡西根山奉行、大更新田奉行を勤めて安永五年に死去した。重盛に三男があり、長男要右衛門重徳。二男保之丞重保は文政四年に士班に列した。重保の五男忠左衛門重操は天保十四年別に勘定方に出仕し、嘉永元年士班に列した。

 重盛の跡は嫡子要右衛門重徳(のち要之丞)が翌六年に相続、その後享和二年に二人加扶持、文化八年三両二歩と砂一匁を加増され、高五十石となった。更に文政七年二人加扶持で高六十二石となった。この間、御用の間物書、物書頭、大納戸奉行を勤めて文政十年に隠居。天保二年に死去した。その跡を嫡子要之助重聡(のち要之丞、軍左衛門)が相続、隅屋敷錠口番を勤めた。安政四年に隠居して文久元年に死去した。その跡を嫡子隆重職(のち友諒)が相続、元治元年に二人加扶持、慶応三年にまた二人加扶持で高八十六石となった。表用部屋物書、物書頭、取次格となった。明治三年その嫡子要蔵重遠(のち胖)が相続。金奉行加、鉄炮方となった。明治十一年の士族明細帳によれば、東中野村(盛岡市)二百八番屋敷に住居と見える。その跡を建郎が相続、当主の信氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の龍谷寺にある。

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