江釣子 えづりこ

江釣子隆左衛門家 200427

 明治元年の支配帳に江釣子隆左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば、江釣子市郎左衛門吉明江釣子市郎左衛門吉明の二男江釣子新右衛門吉時を祖と伝える。吉時は延宝三年世子行信の御徒に召出されて六駄二人扶持を食禄して元禄中に死去した。江釣子村の全明寺に葬った。その跡を嫡男新十郎尹吉が相続。のち士班に列し享保九年に死去した。その跡を重左衛門儀嘉(先供、享四年に死去)━大里弥七郎修広の三男利藤治広安(隅屋敷物書、目付所物書を勤め、宝暦六年死去)━虎次郎(幼少で相続、のち官治、縫之進、十左衛門)と継いだ。初め南部百助(利視七男、三戸主計信周幼名)相手、次いで本丸鍵番、隅屋敷取次、江戸中屋敷取次、江戸下屋敷取次、諸士屋敷奉行などを歴任した。天明四年以降の事跡不明であるが、文化三年の諸士屋敷並家図書上に見える十左衛門は同一人であろうか。その後文政元年に新右衛門が相続。天保五年に死去している。その跡を嫡子喜代治(天保八年死去)━中島喜作の弟栄八(のち市右衛門、重左衛門、嘉永五年に死去)━養嗣子雄馬吉宣(のち隆左衛門、要記、大奥用聞)と継いだ。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)に据えられた。明治四年に吉宣が盛岡県へ提出した先祖書上は、養祖父忠蔵、養父重左衛門とあるが、養祖父忠蔵は天保八年に死去した喜代治同人ということだろうか。明治十一年の士族明細帳によれば、吉宣は仁王小路十二番屋敷に住居と書上げている。その跡を律見、吉成と相続。当主の吉見氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の久昌寺にある。


 江釣子氏略系図
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