大嶋 おおしま

大島惣左衛門家 200621

 明治元年の支配帳に大島惣左衛門家がある。『参考諸家系図』は元会津浪人若松惣右衛門こと、大嶋惣右衛門を祖と伝える。惣右衛門は主家蒲生秀行の転封に際して浪人となり、盛岡に住居して大坪流馬術指南をし、馬医を業とした。慶安四年馬術をもって召抱られ十駄二人扶持(高三十二石)を食むとし、「盛岡藩国住居諸士」によれば、万治年中馬医に召出され、家禄十駄二人扶持の外薬種料として十駄を食み寛文二年死去したと異説をつたえる。一方、子孫大嶋高任の手記によれば、先祖惣右衛門の父某は長州毛利輝元の一門で、周防(山口県)大嶋郡を食邑していたが、慶長五年関ヶ原の合戦の後、宗家が周防、長門二州に国を削封せられた時、國を出て陸奥会津(福島県)に至り蒲生秀行に寄食したという。その後、蒲生家は寛永四年その孫忠知が伊予(愛媛県)松山に転封となったが、惣右衛門はこの時浪人となり若松惣右衛門を称した。その後盛岡に住居して大坪流馬術指南を営み馬医を業とした見える。惣右衛門の家督は寛文二年に目時助之進の二男惣左衛門が相続した。嗣子が幼少であったための処置であったのだろうか。寛文十二年惣右衛門の血筋であろうか二男次郎兵衛豊高が馬責に召出され二人扶持を食して家を興した。寛保三年豊高の五孫平五郎が更に召出されて三人扶持を食みて家を興している。

 明治元年の支配帳に見える大嶋惣右衛門を祖とする大嶋家は次の三家ある。
一、六十六石        大嶋惣左衛門(当家)
一、五十八石        大島徳次郎家
一、十八石         大島善太郎家


 惣右衛門の家名を継いだ惣左衛門(目時助之進の二男)は父に継いで馬術指南となり、宝永二年二駄加増、十二駄二人扶持(高三十六石)となり正徳二年死去した。その跡を嫡子孫助倶康(大島家系譜は秀政)が相続、馬医として享保十年死去した。以降代々馬医を家業とした。その跡を嫡子助之丞政照(享保十一年死去)━平助政高(政照の叔父大嶋平七供光の三男にして従弟、安永三年死去)━総右衛門高稠(一条直之丞の子、政員とも、文政元年死)━総平高敷(天保二年五駄加増して十七駄二人扶持=高四十六石=同五年死去)━周意高基(初め新六)と相続した。周意は同九年馬医から永く医師となり、更に同年薬種料十駄を本高に加増、二十七駄二人扶持(高六十六石)となった。同十二年奥医師並、弘化二年更に奥医師となった。嘉永元年国産薬品吟味役、同年焔硝明礬製法方、同四年海防備硝石製法方用懸となり、わが国第一を誇る硝石生産体制の礎を築いた。万延元年幕府より蕃書調所出役教授手伝いを命ぜられ、十五人扶持金十両を食し、同年隠居、文久元年死去した。その跡を周禎(のち総右衛門)高任が士家として相続した。高任は家督前、天保十三年父に従い江戸へ出て箕作阮甫、坪井信道の門に入り蘭学を修めた。弘化三年再び藩命により長崎に医学修行のため遊学、専ら西洋兵法砲術精練の学技を研究し、更に熊本に赴き砲術を修得した。嘉永三年帰藩、翌四年鉄炮方となった。同五年江戸に赴き伊東玄朴象先堂塾に入門した。その後安政六年まで水戸藩(茨城県)に雇われ反射炉建設に従事した。この間にも安政四年藩の大砲鋳造用懸となり、また西洋流御相傳■(石篇に駮)術師範となった。同六年帰藩後には橋野村(釜石市)海防用手行岩鉄吹立用懸となって製鉄に着手した。万延元年国産頭取、および勘定奉行格、更に蕃書調所出役手伝いとなった。同年家督を相続した。文久元年藩の同志と謀って日新堂を創設。同二年幕府用により函館奉行所に在勤した。同三年藩政改革に関して進言し、また深く蝦夷地に入り石炭山の検分に従った。慶応元年宮古製鉄場並びに反射炉建設設計に関与した。同二年小坂銀山(秋田県)発見に当たりその開坑精練等に尽力した。明治元年軍事懸となり、維新後官営となった小坂銀山の規模拡張に従事した。同二年大学大助教となり、同三年政府に坑学寮創設の進言をなした。同四年岩倉特命全権大使一行に加わり欧州諸鉱山を視察見学して同六年帰国した。以降朝野にあって終始一貫本邦最初の鉱業進展の基礎を確立した。同二十三年日本鉱業会会長となった。その後那須野(栃木県)開墾地百数十町歩を開墾し、ブドウ園を経営、ぶどう酒の醸造に当たった。同二十八年に隠居し、同三十四年東京で死去した。勲三等に叙された。享年七十六歳。東京谷中天王寺に葬られた。その跡を嫡子道太郎が相続した。明治三年大学南校に入学、同十年東京大学理学部採鉱冶金学課を修業、同年ドイツに留学、同十四年フライベルグ鉱山大学を卒業。冶金工師の学位を受け、同十五年帰国した。爾後小真木鉱山、白根銅山(何れも秋田県)その他鉱山の開発、選鉱場並びに精練所の改築及び新設に従事した。同二十三年宮内省御料局技師となり、同二十四年御料局生野支庁大阪精練所長を勤め、同年工学博士の学位を受けた。同二十八年御料局技師を退職、自ら資本を投じて広島県岩子島精練所を経営した。同二十九年八幡製鉄所創設にあたり製鉄所技監となり、同三十六年工務部長を辞職まで二度の欧米視察をした。同四十一年東京帝国大学工科大学教授となり、同四十二年勲三等に叙せられた。大正三年休職、有限公司漢冶萍煤鐵廠最高顧問技師に就任し、専ら大冶鐵山の経営に当たった。同十年漢口で客死した。勲二等に叙された。享年六十二歳。東京谷中天王寺に葬られた。その跡を文郎、夏江と相続、当主の康次郎氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の永泉寺にある。

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