太田 おおた

太田忠蔵家 200711100751

 明治元年の支配帳に太田忠蔵家がある。『参考諸家系図』は太田源四郎忠秀の二男四郎右衛門忠彬を祖と伝える。
とした太田家は、金方一両二歩四人扶持(高三十一石五斗)を食禄した家である。忠彬は正徳元年小姓に召出され、名を入江と拝領、享保二年三人扶持、四季施八両二歩を食禄した。同四年四季施を本高に組入、金方二歩加増、九両三人扶持(高六十三石)となった。本丸取次、配膳などを勤めた。晩年四郎右衛門と改め寛保元年に死去した。そのあとを嫡子重次郎忠智(のち忠司、忠次右衛門)が相続、新山物留番所番人、沢内越中畑番所番人、舞台番、角屋敷取次、謫人金森兵部少輔構番、歩行火の廻り、本丸末取次、鍵番、南部徳次郎附役奥使などを勤めた。晩年については未詳であるが、寛政七年に奥使免の記録が見える。その後寛政十二年の支配帳並びに文化三年の諸士屋敷並家図書上に嗣子の忠兵衛が見える。忠兵衛は参考諸家系図によれば、杉沢平太左衛門忠能の二男で、初め長四郎、のち四郎右衛門を称したと伝えている。その後文政三年の支配帳に忠次右衛門が散見する。前者との相続関係は未詳であるが、同一人物であろうか。忠次右衛門は天保十五年に隠居。その跡を嫡子宇多太が相続、大奥用聞を勤め弘化四年死去した。その跡を庄五郎(のち忠次右衛門)が相続、野田通代官を勤めた。文久二年自殺して半地取上となった。その跡を嫡子専右衛門(のち忠蔵)忠道が家名立を以て新規に召出だされ、金方三十一石五斗うち三人扶持を食禄した。慶応元年六石を扶持方に色替され、一両二歩四人扶持(高三十一石五斗)となった。明治十一年の士族明細帳によれば、当時東中野村(盛岡市)六十四番屋敷に住居していた。その跡を利蔵が相続、その子で当主の忠蔵氏は大槌町に在住する。


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