太田 おおた

太田正記家 200711100530

 明治元年の支配帳に太田正記家がある。『参考諸家系図』は浄法寺氏の庶流にして大串四郎重宗の末流と伝える。参考諸家系図は重宗以降の系を次のように記している。
 畠山庄司重能二男大串四郎重宗━畠山新六郎重範━武蔵守重村━浄法寺修理太夫重國━武蔵守重憲━式部大輔中弘━修理太夫将弘━式部丞忠道━下野守将道━下野守重隆━下総守━右近太夫忠則と継ぎ、その三男源四郎重頼は浄法寺太田村(二戸市)を領して在名により太田氏を称した。一本によれば、松岡新八忠方に討たれて浄法寺の所領を失い太田村に住居したという。その跡を源六郎重輔━新六郎重保━新四郎重則━源四郎忠宗━新六郎重良━治部少重愈━新六郎忠侯━内膳亮忠賢━平六郎忠参と継ぎ、その子源四郎忠族の傳を「利直公鹿角柴内御陣の時、北十左衛門直吉と両大将となりて終に戦死す」と記している。『奥南落穂集』は利直を信直に作る。信直と見るのが至当であろう。その子源四郎忠能は利直に仕え地方百七十石の采地を知行した。四子あったが後嗣を定めず急死し禄を収められた。長男源兵衛忠則は十歳の時から小姓を勤めたが、元和中勘気を蒙り葛巻新六郎元祐に預けられ、同氏知行所の配所で死去した。これにより、嫡流は断絶した。

二男源右衛門忠義は重信の時に徒に召出され、六駄二人扶持を禄した。一本によれば一生浪人にて延宝四年死去したという。引き続き、この系について後述する。
 その子を源四郎忠秀、その嫡子源四郎忠康が家督を相続、忠秀の二男四郎右衛門忠彬は正徳五年小姓に召出され、翌享保二年に三人扶持四季施八両二歩を禄した。忠康には祖父忠義の弟(大叔父)にして忠能の三男源太夫忠経は寛文中中小姓に召出され、同七年現米十駄を禄した。忠経に四男あり、長男円助忠章が家督を相続、二男佐太夫忠義は七戸外記愛信の臣となったが、その子源蔵が宝暦十二年愛信の遺言の願によって表に召出され六駄二人扶持を禄した。三男半兵衛秀忠は吉田氏を以て初め徒に召出され、享保二年士班に列した。六駄二人扶持を食禄した。四男儀右衛門忠庸は宝永二年徒に召出され、享保元年士班に列した。忠能の四男藤兵衛忠具は初め杉沢氏を以て心光院(藩主利幹の生母・岩間九右衛門政次女)の配膳小者となったが、のち年功によって物書となり、更に心光院の願により太田氏で刀差に召出された。享保九年士班に列した。その子孫を明治元年の支配帳で対比すれば次の通りである。
 一、百石     太田源吾平
 一、百石     太田郡左衛門
 一、五十石    太田正記(当家)
 一、五十石    太田淳平
 一、三十一石五斗 太田忠蔵
 一、二十四石   太田長助

しかして、源四郎忠能の二男源右衛門忠義の時まで遡る。忠義の父忠能は後嗣を定めず急死して収禄。忠能の兄・源兵衛忠則は十歳の時から小姓を勤めたが、元和中勘気を蒙り葛巻新六郎元祐に預けられ、同氏知行所の配所で死去、太田氏の嫡流は断絶したことは既述の通りである。
 忠義は藩主重信の時に徒に召出されて家を興し、六駄二人扶持を食禄。その子源四郎忠秀の時、元禄中に士班に列した。同七年雫石通に足高新田二十六石を知行し、高五十石内六駄二人扶持となり、正徳四年死去した。その跡を嫡子源四郎忠康━源蔵忠竹(のち源次郎、享保二十一年に死去)━源之助忠苗(のち源蔵、源四郎)━金田一久右衛門の二男鉄五郎(幼少相続、のち源之助、源四郎、源右衛門、隅屋敷取次を勤め明和二年死去)━鉄之助(のち源右衛門、源五右衛門、藩主利視七男三戸百助=中屋敷家祖=相手、隅屋敷取次、下屋敷取次、新屋敷取次など)と相続した。源五右衛門について、天明四年以降晩年の事績は未詳である。その後寛政十二年の支配帳に嗣子であろうか源之助が散見する。次いで文政三年の支配帳に、源之助の改名嗣子未詳だが備が見える。備は天保九年に死去。その跡を同十年に嫡子源治が相続、安政二年に死去した。その跡を嫡子喜八郎(のち直記)が相続。文久二年その嫡子正記(のち直記)常成が相続した。雫石橋場番所番人、沢内越中畑番所番人などを勤め、明治十一年の士族明細帳によれば、当時山岸村(盛岡市)三十二番屋敷に住居していた。高五十石の内地方二十六石の采地は雫石通雫石村に知行していた。


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