太田 おおた

太田門蔵家 200711101269

明治元年支配帳に太田門蔵家がある。『参考諸家系図』によれば太田園右衛門政舎の養次男友八当則を祖と伝える。当則は実は八戸藩士大橋八郎右衛門則房の子、政舎母方の従弟である。幼少より養育し、のち養子とした。享保十六年徒に召し出され六駄二人扶持を禄した。のち徒目付となり、宝暦三年野州(栃木県)日光本坊修復普請手伝いの時現地に赴き従事し、同七年勤中の功により士班に列した。同十二年死去。その跡を嫡子惣八郎が相続、新屋敷取次を務めた。天明四年以降の事跡は未詳だが、寛政十二年の支配帳では既にその嗣子門蔵の氏名に替わっている。門蔵は天保四年に隠居した。その跡を嫡子栄蔵(のち門蔵)が相続、雫石山奉行を務めた。慶応元年物価高騰により本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治二年その嗣子銀蔵当一が相続、次いで同八年その嫡子当吉が相続した。同十一年の士族明細帳によれば、新庄村(盛岡市)七十三番屋敷に居住していた。

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