太田 おおた

太田茂左衛門家 200711100552

 明治元年の支配帳に太田茂左衛門家がある。『参考諸家系図』は斯波孫三郎詮直の臣太田長右衛門政経を祖と伝える。政経は和賀郡沢内村太田の人とも云われているが、『奥南落穂集』に、志和郡諸臣の中に旧和賀士太田長三郎政巴の名が見える。政経の先祖に当たる人物であろうか。太田春治家との関係も想定されるが詳細は未詳。
 政経は寛文三年鷹匠に召出され一駄片馬一斗二人扶持を禄、その後数度の加増で十石十六駄片馬一斗二人扶持(高五十五石一斗)となった。同十二年嫡子長八政秀に十五駄二人扶持(高四十二石)を譲り、新田十石を食邑、一駄片馬一斗は返上した。貞享中死去した。その子長八政秀は寛文年間部屋住で鷹匠を務め、部屋住料四駄二人扶持(高二十石)を禄したが、同十二年父の願により部屋住料を弟長十郎政道に分配。父の扶持の内十五駄二人扶持を以て家督を相続。宝永七年死去した。その跡を五戸給人中市弥惣右衛門政勝の三男(一本五戸給人小笠原武助弟)園右衛門政舎が養嗣子となり相続。日詰通代官、花輪通代官などを勤めて元文六年隠居した。政舎に養二男友八当則があり、享保十六年徒に召出され、その後宝暦七年昇進して士班に列した。元文六年に隠居した。政舎の家督は嫡子茂左衛門政房が相続。隅屋敷取次、南部彦九郎取次、南部主税取次、払方金奉行、飯岡厨川通代官、勘定頭を経て目付加となり、その勤中に遊行上人領内巡行用懸、銅山見廻用懸、鉄山用懸、田名部山用掛を勤めた。その後七戸通代官となり安永四年隠居した。その跡を嫡子和右衛門が相続。同八年城下中津川下橋懸直下奉行を勤め、その後払方金奉行、金奉行、賄頭を歴任して天明三年死去した。その跡を嫡子園右衛門が相続、銅山取次物書兼帯、宮古通山木改下役、飯岡厨川通代官、牛馬定役、盛岡新蔵奉行、毛馬内蔵奉行、雫石通代官、沼宮内通代官などを勤めて天保九年隠居した。その跡を嫡子茂内(のち茂左衛門)政盈が相続、銅山取次物書兼帯などを勤めた。新当流鎗術を野々村秀太郎雅知に師事して同流師範となり、小田代定蔵政登にその流儀を継承。弘化四年死去した。その跡を嫡子昇蔵(のち園右衛門)が相続、新番組番子組頭を勤め嘉永三年死去した。その跡を嫡子勇吉(のち茂左衛門)が相続、銅山敷内改役、日詰西根山奉行、海防硝石製法用、川奉行川除普請奉行兼帯などを勤めた。慶応元年六石を扶持方に色替し、十石十二駄三人扶持(高五十二石)となった。その跡を明治四年に嫡子政策(初め覚弥)が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時政策は鷹匠小路五十八番屋敷に住居。その後北海道に移住した。その跡を茂哉が相続、その子で当主の孝は北海道に在住している。歴代の墓地は盛岡市名須川町の本誓寺。高五十石の内、地方十石の采地は上田通川目村(盛岡市)にあった。


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