太田 おおた

太田冨蔵家 200711101121

 明治元年の支配帳に太田冨蔵家がある。『参考諸家系図』は太田長右衛門政経の支族太田嘉右衛門政辰を祖と伝える。政辰は元禄中掃除坊主に召出され、給金二両二人扶持を禄した。正徳二年年功により士班に列し同六年死去した。その子了三は部屋住で掃除坊主を勤めたが、父に先立ち死去。その子嘉助政勝は享保元年嫡孫承祖によって祖父政辰の家督を相続し、同十二年嗣子なく死去した。このため実弟珍斉が末期養子となって兄の家督を順相続、命によって剃髪して使者給仕を勤めた。寛保二年還俗、長左衛門と改め明和七年死去した。その跡を嫡子勘作(安永二年死去)━冨松(のち冨右衛門、天明二年隠居)━勘次郎(のち嘉兵衛)と相続した。嘉兵衛は雇勘定となった。寛政十二年の支配帳に嘉兵衛があり、その後文化三年の諸士屋敷並建家図書上に嗣子であろうか長左衛門が見える。長左衛門は同十二年に隠居した。その跡を嫡子宮治(のち俊右衛門)が相続、盛岡本蔵奉行を勤め弘化四年死去した。その跡を嫡子波司馬(のち俊右衛門)が相続し台所奉行を勤め、安政二年死去した。その跡を嫡子秀弥(のち冨弥、冨蔵)政常が相続して雇勘定、徒目付を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、政常は当時上田村(盛岡市)三百三十三番屋敷に住居していた。

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