奥寺 おまでら

奥寺八左衛門家 210121


 明治元年の支配帳に奥寺八左衛門家がある。『参考諸家系図』は奥寺八左衛門定正を祖と伝える。定正は津軽浪岡家に仕え、奥寺村(青森県浪岡町本郷付近か)に住居、在名により氏としたと伝える。のち 津軽為信によって津軽統一された時、三戸に移り南部信直に仕え、現米五十駄を宛行われた。のち禄を失い、天正中浪人にて死去した。その跡を嫡子右馬尉定久が相続。初め弟右衛門定輝と倶に花巻に住居した。慶長十五年和賀岩崎陣に、弟定輝と倶に花巻城中にいり、郡代北松斉を援けて多田主馬忠親の軍に防戦し軍功を挙げた。のち北松斉の挙により高二百五十石を和賀郡横川目村、稗貫郡太田村に食み、御者頭を勤め慶安二年死去した。その跡を嫡子右馬允定継が相続。者頭を勤めて明暦元年江戸で死去、芝の金地院に埋葬。その跡を嫡子市之丞定恒が相続、者頭となった。寛文五年和賀稗貫二郡に藩営事業による蔵入新田の開発を許可され、同六年より花巻新田用として上堰穴堰の開削に着手した。出羽阿仁鉱山の坑夫を得ての穴堰開削だったという。同九年蝦夷反乱の時、松前藩主松前兵庫矩広に使者を勤めた。この時別件で、松前氏より開田費用三千両を調達したと伝える。延宝三年上堰穴堰千二百五十間が難工事の末に開削。同四年より下堰八百間の開削に着手、同七年に完成した。同八年恩賞千石の沙汰を受けたが固辞、五十石を加増され高三百石となった。のち属僚とした猫塚、竹村、清水氏の立身を図った。貞享二年披揃分の竿通があり高五千七百石余と記録している。同三年死去。事業は弟六之丞清定が継承、実年未詳であるが、元禄初年か高七千六百石余と記録している。藩は永く業績を留めるため、北は豊沢川、南は和賀川、西は沢内境、東は北上川の域内(花巻市の一部・北上市の一部)を古八左衛門新田と公称、現在北上市地内に奥寺神社が祀られている。貞享三年その跡を嫡子市之丞美武(のち八左衛門)が相続した。幼少相続のため、藩命により叔父六之丞清定を後見とした。清定は者頭を勤め、組同心の預かりならびに花巻二郡の新田開発事業及び盛岡城石垣築石普請用を勤めた。美武はのち者頭を勤め、某年隠居の後、享保十七年死去した。その跡を嫡子市之丞定寛が相続、者頭を勤め、享保十一年死去した。定寛には実子藤松があったが幼少のため、定寛の弟和喜弥定盈が末期養子となり相続した。定寛は実子登定勝を置いて、兄の子藤松を嗣子とし養育した。者頭を勤め、同十七年に死去した。その跡を養嗣子藤松改め市之丞定孝(のち八左衛門)が相続した。騎馬火の廻り、者頭を勤め、この間宝暦三年に下野(栃木県)日光本坊修復普請手伝いの時、現地で従事した。天明七年隠居。心休と号した。享和二年死去した。その跡を天明七年に嫡子市之丞(のち八左衛門)が相続、享和元年に隠居して享和三年死去した。その跡を島川英左衛門の二男隼太(のち市之丞)が相続。文政三年盛岡本蔵吟味役勤中に故あり、身帯三分の一を取り上げの上、隠居となり、高二百石となった。のち天保三年再度当住となった。表目付、目付、盛岡本蔵吟味役、勘定奉行を勤めた。一方、俳号を山蝶と号して江戸の大梅児島■(竹冠に均)に学び、書は米庵流を能くした。同四年死去した。辞世 足跡を力にゆきの野中かな その跡を嫡子市之丞(のち八左衛門、齢)定振が相続した。まず文政三年父が隠居して家督を相続、次いで天保三年父が再び当住となり定振は嫡子となった。天保四年父が死去して二度目の当住となった。安政四年三十石を加増され高二百三十石となった。供頭、側目付、側用ひとを歴任。また橘庵、寿庵と号し、米庵流能書家として聞こえた。俳諧は大梅の門に入り、山厚と号した。明治二年に隠居、同五年死去した。その跡を同三年に嫡子鯛蔵(のち泰蔵)定之が相続した。近習を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、当時和賀郡横川目村(北上市)九十七番屋敷に住居していた。その跡を巽、忠太郎、明善と相続、その子で当主の義忠氏は北上市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。天保十年の諸士知行平年所務書上による、高二百石一斗四合の采地は、百九石余を黒沢尻通竪川目村に、九石余を同通長沼村に、十四石余を同通黒沢尻村に、六十六石余を同通横川目村(以上北上市)に食邑した。


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