小野寺 おのでら

小野寺傳八家 210126


 明治元年の支配帳に小野寺傳八家がある。『参考諸家系図』は慶長六年に没落した出羽横手城主小野寺遠江守義道の親族六郎右衛門春昌を祖と伝える。春昌の出自には諸説あり、系胤譜考によれば、義道の孫の金兵衛道明の嫡子で道常と称し、寛文元年に父の跡を相続し、百石を食禄したという。奥南落穂集は義道の弟に作り、兄没落の時、横手を逃れて浪人となり花巻に隠れ、のち慶長中南部利直より地方三百石を食邑したとしている。正史上、慶安中には既に六郎右衛門の活躍が散見、真偽は明らかでないが、系胤譜考の説にやや疑問があることを付記しておく。天和三年死去した。その跡を岩館作十郎の次男六郎右衛門春道(源五兵衛、左兵衛とも、正徳三年死去)━六郎右衛門英道(船奉行、寛延三年死去)━文弥道冨(のち六郎右衛門、岩崎番所番人)━豊左衛門(のち喜左衛門、文化三年の諸士屋敷並家図書上に見えるが、事績は未詳)━左門と嗣いだ。左門は文政三年の支配帳に散見、同年目付となり、文政十年に死去した。その跡を継いだ泰治(のち左門、伝八、乾)は、文久二年用人に昇進、明治二年東京詰合中家老用向、近習頭用となった。その後一等格侍正、参政兼侍正、南部家家令を勤めた。その跡を明治四年に南部吉兵衛愛済の三男道簡(初め政次郎)。同十一年の士族明細帳によれば、当時大沢川原六十二番屋敷に住居と見える。その跡を留助が相続、当主の信は盛岡市に在住。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。地方百石の采地は、七十三石余を三戸通斗内村に(青森県三戸町)、十六石余を同通田子村に(青森県田子町)、十石余を福岡通岩清水村に(一戸町)にあった。


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