勝又 かつまた

勝又喜右衛門家 210427


 明治元年の支配帳に勝又喜右衛門家がある。『参考諸家系図』は勝又右馬丞清辰の四男勝又喜右衛門の子喜右衛門清房を祖と伝える。親喜右衛門は一生を浪人で終えたが、その子清房は藩主重信の時、徒に召出され現米六駄二人扶持(高二十四石)を禄した。のち徒目付を勤め、宝永六年勤功を以て組付御免、士班に列した。その跡を嫡子喜内親房が相続、享保二十年に隠居して延享五年死去した。その跡を嫡子喜六(のち要右衛門、七蔵、角屋敷取次、明和九年隠居)━源太清祇(のち藤左衛門、官右衛門、豊右衛門、文化十年に隠居、文政二年死去)━嫡子泰助(のち恵喜助、文政六年隠居)━逸作清孟(養祖父清祇の子で実叔父)と嗣いだ。天保四年の飢饉には東顕寺境内の救粥施行奉行を勤め、その後福岡通代官所下役となった。安政五年死去した。その跡を熊五郎清定(のち喜右衛門、喜作、実は八角市左衛門弟、沢内通代官所下役)と嗣いだ。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米六石を支給され、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳には上田小路二十五番屋敷に住居と見える。その跡を清治━清一と相続、当主の興一は宮城県に在住する。

諸士リスト(か?き)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる