勝馬田 かつまた 

勝馬田熊八郎家 210427


 明治元年の支配帳に勝馬田熊八郎家がある。『参考諸家系図』は勝又彦右衛門安清を祖と伝え、明治元年の支配帳によれば諸士四家、福岡給人二家、毛馬内給人七家を数える。

 勝又家は葛西氏から出て、代々葛西氏に仕え、勝又村(所在未詳)を領地して勝馬田氏を称したと伝える。本名を東山とあることから推して東磐井東山が本管の地であろうか。勝又彦右衛門安清の子右馬丞清辰は、その主家葛西晴信が奥州仕置によって没落後、前田利家を頼って加賀に流浪した時に随行したという。葛西系図晴信の譜に「晴信老臣勝又右馬丞、晴信卒後南部家士となる云々」とある。

                  明治元年支配帳
 安清━清辰┳清綏┳清勝    三十石        勝馬田熊八郎 当家
      ┃  ┗満清━清方 伯父清勝養子 無後
      ┣偕昌┳偕忠    六十九石二斗四升七合 勝又伊兵衛家
      ┃  ┣偕綱    江戸ニて佐竹将監臣、一本、江戸ニて浪人
      ┃  ┣偕稠    子孫断絶
      ┃  ┗偕久    三十二石       勝又定見家
      ┣偕明┳偕造    四十石五斗四合  勝又本治家 福岡給人
      ┃  ┗偕直┳偕重━偕道┳嘉兵衛━定四郎━━━━━━━━┓
      ┃     ┃     ┃┏━━━━━━━━━━━━━━┛       ┃┏━━━━┛     ┃┃
      ┃┃┏━━━━━━━━━┛┃
      ┃┃┃┏━━━━━━━━━┛
      ┃┃┃┣善左衛門  二十石      勝又官兵衛 毛馬内給人
      ┃┃┃┗立貞    砂分六石     勝又文友  毛馬内役医
      ┃┃┣定之丞━民右衛門━━━━━━━━━━━━━━━━━┓       ┃┃┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
      ┃┃┃┣定八    二百十一石四合  勝又周治  毛馬内給人
      ┃┃┃┣万治    一歩砂四分一厘  勝又万作  毛馬内給人
      ┃┃┃┗儀助    一歩砂四分一厘  勝又儀助  毛馬内給人
      ┃┃┗巳助     三石三斗三升三合 勝又巳助  毛馬内給人
      ┃┗義久      十石五升     勝又軍蔵  福岡給人
      ┗喜右衛門━清房  二十四石       勝又喜右衛門家

 勝又彦右衛門安清の子右馬丞清辰は、加賀に流浪ののち花巻に潜居。慶長十一年に南部家に出仕して十人扶持(高六十石)を禄した。元和八年遠野のうち佐比内村(遠野市)に二百石を知行、寛永四年八戸弥六郎が遠野に移封の時、稗貫軍太田村、矢沢村(以上花巻市)に知行替となった。寛永二十一年の奥附がある支配帳には勝又右馬丞があり、正保三年改めと伝える支配帳は、その子藤左衛門清綏で記録している。盛岡藩の正史である家老席雑書によれば、清綏は本丸番、盛岡蔵奉行、川除普請奉行、浦番などを勤め、承応二年に死去と見える。その子藤左衛門清勝は、承応二年に家督を相続、唐舟番改、岩鷲山代参三十三騎の一騎などを勤めた。延宝中、鬼柳通代官勤中の罪により収禄の上、預人となり、貞享元年預りが赦免された。参考諸家系図によれば、その後同三年に聖寿寺の願により、新に召出されて五人扶持(高三十石)を禄したという。その跡を同苗勝又次郎兵衛満清の子彦右衛門清方が養嗣子となり相続、その跡を享保三年に中野三右衛門為満の四男判六清芳(清房とも)が養嗣子となり家督を相続した。鳥討を勤め、寛保二年に死去した。その跡を養祖父清方の実子で清芳(清房とも)の養弟六右衛門清陽(のち彦右衛門)が相続、この時願を以て勝又氏を勝馬田氏に改めた。鳥討、沼宮内蔵奉行、田名部蔵奉行、黒沢尻ひらた(舟篇に帯)奉行矢沢蔵奉行兼帯を勤め、天明八年に隠居、寛政五年死去した。武術を能くし、稲富流鉄炮を奥寺六之丞定経に師事して同流師範となり、その流儀を嫡子彦兵衛清賓に伝えた。清賓は天明八年に家督を相続して文化五年死去。父より継承した稲富流鉄炮の流儀は、その嫡子六郎兵衛清宜に伝えた。清宜は、文化五年父の家督並びに稲富流鉄炮の流儀を継承、文政十一年に隠居して同十二年に死去。稲富流鉄炮の流儀は神子田皆人に伝えている。文政十一年その家督を嗣いだ嫡子千治は、大砲方を勤めて嘉永二年に隠居。その跡を嫡子治兵衛が相続し、安俵通代官所下役を勤めた。その跡を養嗣子熊八郎清房が万延元年に相続、明治十一年の士族明細帳には、志家村二十二番屋敷(盛岡市)に住居と伝える。その跡を清美━清重と相続、その子で当主の清敬は秋田県に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の長松院にある。

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