南部 なんぶ

新屋敷家 南部銑治郎家


明治元年支配帳に着座高知・南部銑治郎家がある。
同家は別号を新屋敷家と称し、南部家三十三代利視の四男三戸左京信居を祖とする。信居は元文三年に生まれ、同四年三戸八助と称した。寛保二年百石を知行。寛延三年に九百石の加増を受け、高千石となり家門に列し天明七年死去した。その跡を角屋敷三戸信周の三男左近信浄が相続、文化十年死去した。三代目は嫡子左京信温が相続、文政元年十月南部氏と改め天保十五年死去した。信温の三弟善太郎は中屋敷三戸主計信丞の養子となり、次いで大統を継ぎ三十七代利用となった。信温の家督は嫡子主計済広が相続、天保十四年死去した。次いで主税済寧が相続。安政三年三月家臣の列に入り、高知家格に据えられた。火の番、大手門番等を勤めた。その跡を嫡子啓之佐信賢が相続。番頭を勤め、慶応元年五月死去した。その跡を銑次郎潜龍が相続。明治三年に盛岡藩議員、権大属等を歴任している。代々の墓所は盛岡市北山の聖寿寺にある。家紋 井桁内双鶴 菊輪内九曜 高千石の采地は、百石を三戸通相内村(青森県南部町)に、百石を徳田通西徳田村に、百石を同通東徳田村(以上矢巾町)に、二百五十石を日詰通宮手村(紫波町)に、百五十石を二子通轟村(花巻市)に知行していた。

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