南部 なんぶ

中屋敷家 南部主水家


明治元年支配帳に着座高知・南部主水家がある。当家は別号を中屋敷家と称し、南部三十三代利視の七男三戸主計信周を祖とする。信周は幼名を百助といい、延享三年三戸百助と称し、のち三戸主計信周と改めた。明和八年八百石を知行し寛政六年死去した。その跡を嫡子主計信丞が相続、文化十二年死去した。嫡子吉次郎利用は文化十年宗家に入り、三十六代利敬の世子となり、次いで文政三年大宗を相続したため、三戸信浄の四男左近信寛が養嗣子となり相続した。後南部氏に改め、文政八年死去した。その跡を信浄の二男で兄の民部信古が養嗣子となり相続、天保元年死去した。その跡を嫡子主水済徳が相続した。安政三年家臣の列に入り高知家格となった。火の番、中の橋門番、中丸番頭等を勤め、慶応三年家老となり明治元年まで勤めた。明治三年その跡を七郎居業が相続、その跡を駒清が継いだ。代々の墓所は盛岡市北山の聖寿寺にある。三戸家を参照

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