『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)  (三)

小川欣亨

 さて又、事は少し前へ戻って、澤田弓太は楢山家族を下屋敷から立退かせて後、内丸の屋敷へ戻って、残っている帯刀にも立退きを勧めたところ、帯刀が言うには、部屋渡の父にして、この期に及んで逃げ隠れし、立ち退くところがあろうかと容易に承諾の様子がなく、役人の源吾 易次郎に謀(はか)ってもただ狼狽(ろうばい)するばかりで将(らち)が明かず、親類の楢山用蔵宅へ到って談合したが、同人は水腫病で療治中、動くこともできないということであったが、病気も時にこそよりけれで、本家が浮沈の場合に傍観すべきではないと、強いて引出し同伴のうえ両人で駕籠を持出し、帯刀の両手に取付き引き立てると、その時の言に、死に増(まさ)る恥辱を受けるのは勿論だが、弓太の親切に感じ不本意ながら立ち退こう。ついては一つ頼みがある。此の箱に入れてある刀は先祖が大坂の陣の砌、徳川家康から与えられた刀を、大小に仕立て家の重宝となしてきたものである。この品のみは残してくれよ。他は何品も顧りみないとのことであった。そして裏門から忍び出で垂駕籠に乗り、浅岸の佐々木権之丞宅へ立ち退いた。このようにして、内丸の楢山屋敷は、家族も家財も悉く取片付けたところへ御城から御物書頭久慈市記が出張して来て、一室毎にその名を尋ね帳簿に記載し点検済のうえ、明け渡しを命ぜられ、この屋敷へ南部吉兵衛を移し、吉兵衛宅へは真田藩の人数を入れることになった。

 この正月十五日、城中から左のような達しがあった。

 佐渡今日秋田表より秋藩野木右馬之助付添罷帰る、尤も禁錮被仰付旨其筋より御達に候間此旨心得べし
 十月十五日            当番御目付
                      楢山佐渡役人中

 この達しに接した楢山家では禁錮手続伺いとして、澤田弓太が登城し、掛り御目付に面会を求めたが、城中は混雑し、鼎かなえ)の沸くが如きで取次者もいない状況なので、弓太は自分で駈け回り尋ねているうち、幸にも御物書頭池田覚之進に遇い、右の事情を談じ、手分けして掛りの役人を尋ねるうちに、又同役の戸来官助に遇ったが、とても速かに目付役などに面会は叶はぬ状況で、追々時刻も過ぎるので、秋藩に対し狼狽の受取方があっては耻辱この上もなく、右両人を強て屋敷へ連れ来て、親類の楢山用蔵殿と共に相談し、下屋敷へ行くことに評議は纏(まとま)り、急いで戸締り等をして、途中へ遠見迎えの者を出し、暮六つ半時(午後七時)に到着したので、弓太は玄関の式台へ出迎え秋藩からの受取り設けの席へ着座した.

 佐渡は弓太に対面して喜悦の色が面に表われ言うことには以後は軍(いくさ)はすまい.第一に困り果てたのは朝夕、顔手足を洗うことが叶わず、剰(あまつさ)え大小便の後で、手を洗うこともできぬ場合もあり、日頃在郷者が手を清めないのを呵(しか)っていたのを思いやられたと大笑いなどしたが、平生の容貌ではなく、数日間髭(ひげ)も剃らず、鬢髪(びんはつ)は蓬々(ぼうぼう)として顔色は青黒く、霜雪の中を引き回されたためか、顔長が横広く腫れ渡り、衣服は黒羽二重の鶴御紋付ではあるけれど、借物なので丈幅不恰好で肘(ひじ)や臑(すね)を露はし、平生の好男子もこのように憔悴(しょうすい)したかと思いやられ、哀れであった。この夜、城中から御物書頭久慈市記が来て、御役儀御取上の趣を伝え、加判役の印を取上げて持ち帰っていった。

 翌十六日午後に至って、佐渡は弓太に向い、家族の事を尋ね、弓太が逐一答えた中でも、長女さだ子を毛馬内へ嫁入りさせたことを聞いて、嬉し涙を濺(そそ)ぎ、厚く礼を述べた。

 次に、吾(われ)今帰宅しても、何時何如なる御処分に至るのか測り難く、この上頼むのも面目ない事ながら、父上の御事は家族とともに、其方吾等に代り御老年でもあるので、心を用い御介抱のこと幾重にもお願いするとのこと。翌十七日夜、深更に至って、浅岸の佐々木方から帯刀は駕籠で忍んで来て、佐渡の膝元へすり寄り、さめざめ落涙余念がなく、佐渡は何の挨拶もなく、暫時無言で坐中はうち湿めったが、佐渡は静かに言うに、吾、今弓太へ改めて申すべきことがある。それは第一に重太郎の供先の我意の挙動、第二は助太郎の我儘、第三は兎毛が何様申し聞かせても我意を申し募り行状を改めない、この三人を手討にもしてやろうと思っているが、この先如何取計うべきやと憤然とした様子、帯刀はこれを聞き当惑の様子で手持ちなく、過去、将来の事一言もなく相別れ、翌十八日に古館勝弥を供に連れて、帯刀は川井村へ引越していった。この際に、互いに一言も発しない父子の胸中痛み入った事ともなり、このような有様で父子相別れたために、名残り惜しかったのであろうか、佐渡は十八日早朝に弓太を側近くに招き種々物語り中に、きせるへ煙草を接ぎ入れ、又ぬき取りして、火をつけて吸うことがないので、弓太は遠慮がちに何かご思案に余ることでもございますか、昨夜の様子といい、只今(ただいま)煙草の用い振りといい、頗(すこぶ)る異様な動作でございますと言うと、俄かに赤面して当惑の様子で、実は禁錮中と雖(いえど)も、他人の訪問がないとは限らず、用いまいと思いながらも、知らず知らずのうちに、徒然(つれづれ)の余り、きせるへ煙草を接ぐれども煙草を吸い尽してしまい、残りがこればかりになってしまったので、以後は吸はぬことにしようと思うと言うので、弓太はそれは要らざる遠慮と申すものです。煙草の御有合せがなければ、早速調進いたしますので、心置きなく召し上る様にと言うと、これまで何時でも其方の厄介にばかりなるのは面目がない。此の事は決して頼むまいと言われるので、それならば誰にでもよろしいから申しつけて下さい。と言うと其方は退き、源吾を此所へ呼んでほしいと言われるので、弓太は退き、この事を源吾に伝えると源吾は弓太の進めによって、佐渡から喚(よ)ばれたのかと思い違いをしたらしく、弓太に喰ってかかるので弓太はこれを宥め、かくかくの次第であるから、貴公が金を才覚して持参したならば、あとは我等も相談しようと言つた。

 源吾は佐渡から、目下、宮古の常安寺住職の件について、我輩は依頼を受けている件があるので、これに向け頼んだならば、五十や三十の金はできるであろう。あなたが吾輩の代理人となって、往って相談したらよいであろうと言われ、源吾は悦んで駈け向ったが、十九日も戻らず、廿日暮頃大いに酔って戻ったが、格別の饗を受けたため、申し出できかね空しく戻りましたということで、用弁にならないため、弓太は自分で莨(たばこ)を調え差出した。

 佐渡には後悔していることがあった。元来、源吾を役人としたのは佐渡の本意ではなく、さきに武右衛門、良右衛門、佐平の三人を、帯刀父子列席のもとにこれを免じ、弓太に役人を申し付けた時、弓太が言うには、私一人が仰せ付けられたのでは、後々、御家のために宜しくないので、源吾と易次郎と私の三人に申し付けられたく、また源吾、易次郎は年長ゆえ、席順は源吾、易次郎、私とお取り据え願いたいと言うと、佐渡は易次郎には申し付けてもよいが、源吾はその器ではないと言われるので、弓太は易次郎は花巻が住居であるため閉伊郡の方は不都合であり、源吾に御申し付けならば、内々私が加談致し奉公させましょうと言うと、それなら重太郎に申し付けようと言う。重大郎も川下の者共の取扱いには不便で御為になりませんと諌めると、それならば仮に加(くわえ)を申し付けようと言われる。しかし、それでは却って役人中が不和のもととなりますと再三にわたって申し立て、遂に弓太の申し立てのように、源吾を上席とし、易次郎は加に申し付けられたのだった。このような事情があったので後悔したわけである。また言われるには、源吾に五十両の才覚を申し付けたのは、全く返済の宛(あて)があるためで、この期に及んで宛の無い金策をする所存など毛頭もない。実は去年廿六日に秋田から帰った折、片原の勘平宅より君公へ書面をもって、この際、断然私に切腹を仰せ付けられ、朝廷へ御申訳遊ばせられる様になる。またそれについてはこれより直々に聖寿寺、東禅寺、教浄寺の三ヵ寺の内から、どれなりと切腹の場所を拝借したい旨を申し上げたが、先々、この際は自宅に帰るようにとり御沙汰であったので、再度願い上げた旨は、一旦進軍し功なくして罪を蒙って、おめおめと帰宅に及ぶのは妻子の思はくも面目がないとまで申し上げたが、御聴許なく、兎に角一応は帰宅すべき旨、御書に賜り止むなく帰宅し、又々上申したがご採用もなく、しかし前の三ヵ寺のうちから是非拝借の覚悟で、沐浴のあとの麻上下着用、また軍用の残金が少々あったうちから、二十両を古館勝弥へ渡し、残りはなか(佐渡の妻)ときゑ(佐渡の生母)へ分配し、勝弥には君命次第、寺へ先詰めして我等切腹後に、寺へ手宛に置くことを申し含め、今か今かと待っていたところ、夜分になって、遠山礼蔵が来て、御書を下され、花輪に往って死すことになり、最初の目的と齟齬(そご)を来たすことになったので、きゑとなかに渡した三十両および勝弥の分も取戻し、都合五十両として直之進に預けておいた金があると言われた。

 この金は早晩、直之進から返ってくることを見込み、源吾に才覚を申し付けたということで、それならばと弓太は直之進へこの一件を談じたが直之進は非常に驚いたので、紛失でもしたのかと尋ねると、実は旦那は御切腹なされた事と思い、父の手元に送り置いてあり、今更なんとも申し訳けの立たぬこと、どうか貴方様の才覚で当座の間を合わせて下さいますようにと言うので、弓太は驚き直ちに駈け出して呉服町の井筒屋から五十両を借用し、直之進に渡したところ、直々に旦那那へ返上してほしいということで、何気なく直之進から返上の旨をもって佐渡の前へ差出した。佐渡はこれを見て、この金は受け取らぬと言われるので、相違なく返上の五十両です。御受納下さいと押しつけると、佐渡は大いに怒り、包み金を取り上げ投げ出したので、包みは破れ目前に金が散乱した。弓太はその意を解しかね何故かと怪しむうち、佐渡は直之進を手討にすると気色を変じてその座を立とうとするので、弓太は驚いてしがみつき、たとえどんな次第があったとしても、この期に臨み御家来を殺害すれば発狂者との汚名を受け、これまでのご艱難は水泡に帰することになる。深いご勘弁の程をお願いしますといろいろと慰め宥めたので漸く落着き、ひたすら落涙に及んだが、元来この五十両は直之進に預けた時には、二朱金の十両包みが五つであったが、今、才覚の金は二分金で二包みであり、これに立腹した次第なのである。最初、佐渡が直之進へ五十両を預けた時、吾が切腹の場所は多分、農家であろう。不足ではあるが其の家へ手宛として三十両渡し、残り二十両は、私の首は総督府へ上っても、死骸は盛岡へ送られるであろうからその賃金に充てるようにと申し付けておいたものである。

 さて、今日その処置を見れば、たとえ花輪で切腹となったとしても、その手宛も渡さず、死骸は棄てて他の厄介として、知らん顔して帰るかもしれないような悪人とも知らず、大事を任せたことは、其方共に対しても面目ない。彼の親は不心得者で、屋敷を出奔し、残された家族等は貧困の極みと聞き及んでいるので、内密に救恤(きゅうじゅつ)したことも少なくはないのに、却って吾が死後に耻辱を蒙らせる邪曲者(よこしまもの)とは知らず残念だと深く歎息したのを、弓太は種々ことばを尽くし、かつ諌めかつ慰め、その後直之進へ申し談じ、飛脚で右の金を取り寄せ、佐渡の機嫌を直させた。

 こんな場合に、廿三日に至って、南部家が朝廷へ軍資金七十万両献納の事が起こり、藩士から思い思いの献納があり、南部主計は百七十両差出したと佐渡の耳に入り、役人の源吾、易次郎の両人へ我家からは三百両差出したいので、この金を才覚して欲しいと申し付けがあった。両人は楢山家族の立ち退きの費用ですら難渋した程なので、当惑の外はなく、弓太の考えで、過般閉伊郡鍬ヶ崎において生糸代金を繰り合わせ、南部藩より仏蘭西人ハールハラへ支払うための軍器代へ向け貸上金があるので、差し引き上納に取り計い願いたいと御元〆島川瀬織へ、弓太から申し談じたところが、島川の言うには、楢山公は軍資金差し出されなくとも宜しいとの事であった。佐渡は心底では是非とも上納致したいとの希望をもっている由を申し向けたが、他の藩士とは特別な趣意あるゆえ固く謝絶し、却って大坂酒四斗樽一つを貰って帰り、その子細を佐渡へ申し出た。佐渡も、これを納得し、この事は思いとどまり、それならば川井においでの父上がさぞ心細く思っておられるであろうから其方は明日出立して川井へ帰り、父上の御力になってくれる様にとのこと。それならば駄賃帳を取りかたがた内丸へ参りたいのですがと言うと、駄賃帳は誰かに頼み、日暮まで此方にいなさいと留められ、弓太は深更に及び内丸の屋敷へ帰り、翌日未明に馬も来て、さて出発しようとする処へ、佐渡から用事があるからと下屋敷へ呼びつけられ、止むをえず馬を牽かせて下屋敷へ到着したところ、源吾、易次郎、直之進相揃って酒宴中であり、弓太は酒を飲まないから茶をもって相手をせよ、今日は時刻も過ぎた、明朝立てとの事であったが、馬も既に牽かせてきているので遅くても出発いたしますと言うと、それならば遣(つかわ)す物があるので暫く待てという。本年七月京都から下った時の荷物の内を開き、これかこれかと探し出し、三幅対の軸物を取り上げ、これは弓太が耳にのみ聞き及んでいる大坂の豪商近半の所持品であり、飯田勘助の勧めによって、このような物品にあまり望はないけれども、強て勧められ、日頃のよしみに買い請けた。弓太は掛物好きである筈、これを餞別に遺すとその席へ差出し、なお世の中の浮沈、盛衰の話などに及び名残り惜しい有様であったが、かくては果てじと弓太は暇を乞いその日は簗川へ一泊して、翌日川井へ帰宅した。

 弓太が帰宅して数日も経たぬうちに、源吾、易次郎、直之進の三人から、永の御暇のため下屋敷を立退いたという彼等三人からの紙面に接し、弓太は昼夜急行して盛岡へ出て三人に面会し、その理由を尋ねたところ、旦那は軍資金上納のこと再考してみたが、何分にもそのままでは心も安んせず、是非とも才覚を取計うべき旨とする申し出に対し、この件は弓太が島川氏と対談のうえ解決しているので、今更彼是とご心配には及びませんと申し上げたところ、何もかも弓太一人に働かせ、其方共は紬手傍観(しゅうしゅぼうかん)しているとは何事ぞ、そのような者を家来に持つのは何の甲斐もない。永く暇を遺すから立ち退けと烈しく御立服なので止むを得ず立ち退き控えているという。弓太は驚き直ちに下屋敷へ行ったが、佐渡は訝(いぶか)って何のために出府したのだと尋ねるので、何のためとは、甚だその意を得ない。御尋ね申そう。彼等三人に永の暇を給ったのはいかなる思召しなのか。こんな状態では万事が四分五裂に及ぶことお考えになりませぬか。日頃の御嗜に反したご処置、何とも申し上げようない次第。過日三人の者共と私が一所に召されて、その席で私にばかり御掛物を下されて、彼等はいかに感じたであろうか。私は意外の御待遇と存じましたが、目前の出来事にどうしようもなく、その侭出立しました。父上様が御心細く思し召されているであろうから、早く帰れと仰せられたのは、御身の上の御覚悟、かつ御孝道のためではなかったのか。それなのに、私が出立の後に、彼等三人に永の御暇とあっては、如何様に察しても片手打の御処置と申すより外ありません。たとえ、これから彼等は格別御為筋(みたてすじ)に力を尽くさなくても、他の耳目を憚り妨害までは致させぬよう注意を加え、ともに尽力させて、御家族方に御安心を掛け上げたく思って、先日、直之進を御手討と御憤りになった砌に再応申し上げ、その時は幸いに御聞済になられ、実に慶(よろこ)んで帰郷いたしましたが、又々このように堪忍のない事では、御家族様方は閉伊の御住居で心もとなき次第に立ち至り、心配の余り昼夜兼行で参上したのですと申し上げると、其方の申す事もさもあろう。しかしながら吾が愚眼で彼等を家来と頼んだことは、後の世まで遺憾なことで暇を遣わした。この事はいかに申すとも聴入れないと憤然として申されるので、殆んど窮じ果て、それなら皆様を閉伊郡川井へ御居住することは叶うまじく、いずれかへ御移し申し上げてもよろしいかと、押して申し出ると暫く無言でいるので、種々申し述べてこれから先、ご身近近くでお使い方はしなくても、表面御暇とすることは幾重にも御宥免(ごゆうめん)を願いたいと強く諌言している内に、又々川井から飛脚が来て、宮古表へ差し出す生糸の一件について、家宅捜索に及ぶかもしれないという沙汰(さた)があるとの連絡が弓太に来たので、佐渡へは、右の事申し述べ、三人の者へも伝えて弓太は大急ぎで出立し宮古へ赴いた。

 十一月十八日、佐渡は桜庭屋敷(盛岡城を官軍へ引渡したので藩政残務取扱所を同邸へ設けた)へ呼び出され、六日町御仮屋において縄目手錠を掛けられ、網乗物で新庄藩人数に警衛されて江戸へ護送となり、芝の金池院へ向った。同時にわが藩主利剛および世子の彦太郎の両君は尋常の駕籠に乗り、江戸へ向ったが供廻り、草履取から重役人共すべてその姿を変じ随行した。草履取りは御用人の七戸権兵衛である。

 右佐渡の先途を見届けるために、楢山家からは家来の者が付添うことはできず、新庄藩へ金五拾両を差し出し、佐渡の一身上の用金として渡して欲しいと頼み、裏では随行の意を含ませ、井上佐並の弟で立八と言って、近来帯刀の手許に随従して帯刀の老体を介抱している者と、弓太の長子澤田助太郎との両人を盛岡の呉服町井筒屋の手代に装い十一月廿三日出発させたが、関所ごとの取締りが厳重なので、先ず福島の油屋店に用事のようにして同所へ到着、それから同店の書状を貰い、油屋の手代の風を装って、江戸小伝馬町の山田屋又兵衛方に止宿したところ、幸いに井筒屋の番頭木村惣十郎が南部家の用達のために同所へ止宿していたので、共に謀って金池院に蟄居中の佐渡へ、両人が来ていることを知らせたいと七戸権兵衛へ手をまわした。権兵衛はその事を紙片に書き、小撚(こよ)りとして佐渡が沐浴のために廊下を通行する際に、密かに手渡してくれた。

 翌年正月、佐渡切腹の処分があるかも知れないというので、右惣十郎は佐渡がその節に着用すべき衣服類の調達をせよという藩命を蒙り、処分は同十七日の晩になるとのことであったが立消えとなり、三月に至っても何の沙汰もないので、立八は山屋直次郎の帰国に供方として随行させ、助太郎は滞留していたが、旧幕臣の中坊康次郎の妻くに子は佐渡の妹で、徳川と共に駿府へ引越して以来音信なく、父帯刀が日頃案じているのを慰めるために安否を訪わんとして同所へ赴き、石田屋小平治という酒店の裏に仮住居しているのを尋ねあてた。それから八幡村というところへ家宅を新調し引越した事まで見届けた。くに子は父上へこの様子を宜しく申しくれるようと、帯刀への手紙を渡したので、助太郎は路用金のうちから十両を小遣いにと、くに子に贈り、この地を辞して帰郷の途についた。道中、栗橋駅において関守に捕えられ種々糾問(糾問)のうえ、懐中の路金二十両を取り上げられてしまった。しかし運よく、盛岡の鍵屋飛脚の長澤太郎兵衛が帰国のため通りかかり、百方に尽力してくれ、かつ同駅町人の執事のおかげで捕縛を免れ、持参の手紙の一件も事なく済み、関所を通ることはできたけれども、路用金は皆無となり、太郎兵衛の救助で福島の油屋に到着し、ここで路金を借用して辛くも帰宅することができた。


 同年五月、佐渡の家来の者を江戸へ差出すようにと楢山家に達しがあり、澤田貞助、斉藤辰五郎を差し登らせたところ、六月五日、佐渡は右両人の家来とともに盛岡へ帰り、報恩寺へ入って蟄居することとなる。この時澤田弓太は川井の自宅にいたが、盛岡へ出て何か諸始末をしようと帯刀へ申し出たが、帯刀の考えは、この際出府は見合わせた方がよいとのことであった。しかし押して申し出ると、それならば、佐渡が親しく召使っていた者でも宜しくない、疎遠の者を遣わした方がよいであろうということで、澤田多助、刈屋安兵衛という者によくよく申し含めて盛岡へ差し向けたが、幾日を経ても処分に至らず、十四日の昼頃、帯刀は弓太を呼んで言うには、聞くところによると身代りの者をもって世間を欺くようにも伝えられる。果して、このもっての他の奸策(かんさく)などが後日露顕(ろけん)したら末代までの耻辱を残す。其方、盛岡へ往き殺して来てくれというので、弓太は即時に出立し、盛岡へ着くやいなや報恩寺へ行ったところ、佐渡は数日、何の沙汰もないので自ら絶食しようとしており、帯刀からの申し付けの趣を申し伝えたところ、佐渡はこれを聞いて大いに悦び、この事は決して他へ洩らすな、畢竟(ひっきょう)、君公の御決断がないため、このように遷延(せんえん)する。この上は病気を申し立て、絶食していずれ死亡するから安心しなさいということであった。佐渡の賄は十三日町の茂助という者で、毎日三度の膳を差し出しても一切箸をつけず、或は箸をもって突き散らして下げることもあるという。報恩寺の取締りは、藩侯から多数の士分で四方を警衛し、佐渡謹慎の間の次の間には弓太等家来共十七名、外廻りに竹矢来を用い、内は葮簀(よしず)を以て二重に囲い、四方に番屋を設けて同心五人ずつ突棒、さすまた等の三剣を立ち並べ表門には惣締(そうじめ)として幕張りをし、者頭(ものがしら)が一騎詰合って出入の者を吟味して頗る厳重であった。


 廿三日、昼八つ時(午後二時)御目付楢山蔵之進が来て澤田弓太を密かに呼び出し、今晩いよいよ御処分に決まったので、ついてはその準備をすべしと伝えた。弓太は直之進と同道し下屋敷へ行き、かねて用意してあった品々を人目に立たぬように持参して七つ時(午後四時)過ぎに報恩寺へ入ったところすでに警衛の向きは変わり、寺の内外に白張り無紋の高張提灯を建て、白地の幕を張り警衛の人数は引揚げ、家来共だけが残っていた.

 佐渡はこの時平臥しており、家来共が近くに進んでお起きになってくださいと告げると、何かあるのかと言うので、何かどころではありません。警衛の人数は引払い、白張りの高提灯に白地の幕をもって寺中を仕切られましたと答えると、今まで待ち遠しく悩んでいたが、さてはそうかと吃(きっ)と起き直り坐中を見廻して、再び眼を塞じたので詰め合いの家来共は各々姓名を申し聞かせると、多忙のところ別(わけ)て大儀であると両眼を開き、家来共を見渡し再び眠ろうとする。弓太は言葉鋭く、平生の御気性にも似合わず、大事に臨み御不覚の事があっては嘆かわしく思いますと言うと、いやそんなことはないと言う。私のこの腕を握ってみなさいと、右の腕を出すので握ってみると十二、三日も絶食をしていたので実に弱り果て、当惑しているところへ楠林丹斉という医師が突然来て診察し、尿を試験して薬を飲ませた効果か、双眼を開き稍(やや)、生気づいたのを見て全く十日余も御絶食のため疲労せられたのだ。俗に朝比奈も食ってのうえの力ということもある。何か召し上った方が宜しいと勧め、医師も牛乳がよいと言うので、茶漬茶碗で二盃飲んだところ、果して即効が為り両眼もはっきりと気分も回復した。

 そこで髪、月代、襟垢等を清め、便所に行こうとするので弓太はこれに付添おうとすると、其方は控えよと貞助、辰五郎両人に介抱されて行くが、足もとはふらふらし、歩行も確かでないので、再び牛乳を用い、暫くして元気益したのだった.



 切腹の着服は藩公から賜り左の方に備え置き、御坊主二人その席に座し指導を待っている.座中の者は皆、無言のうちに佐渡はその着服を折々尻目にかけ、そろそろ着換えをしますとの声と共に一同立ち上り、着換えに手を添える。下着は白麻、裏浅黄無紋の帷子二枚、共に襟はない。麻上下同断、着換えが終り中央に端座していると、御目付磯地十蔵が来て一見してわっと叫び、泣き出しそのまま逃げ出してしまったので、他の者もこそこそと逃げ去り、弓太一人残って佐渡に向かい小声で、側には誰れもいません。何か御申し置く事があるなら仰せになって下さいと言うと、何も申し置くことはないと大声で言い放った。

 折柄、監査役伊東元右衛門が来て、只今、野田丹後、中野舎人が御見舞申して、江戸表から仰せ進められた御用儀を御話しに及びますと言うやいなや、佐渡は弓太にこの座蒲団を引けと言う。伊東は、いやそのまゝで宜しいと言うのに、イヤならぬと大声で襷を掛け、南面には白幕を張り、東の方は明け放し、室内に監査役江刺誠機、筋違いに御徒目付早川佐次右衛門、二畳台東の方、佐渡の左の方には御徒目付船越八右衛門、遠藤邦蔵、三田善右衛門、工藤乙機この四人は介抱と警衛のためであろう。東側の大広間に楢山の親類石亀一哉、楢山益人、楢山蔵之進、楢山用蔵、瀧行蔵、大沼道機、家来共には藤田源吾、澤田弓太、小原易次郎、古館直之進、刈屋小十郎、刈屋其馬、小原辰五郎、澤田貞助、澤田理蔵、澤田兵蔵、松尾良助、田渡廉蔵、刈屋安兵衛、澤田重太郎、小原新兵衛、熊谷徳兵衛、熊谷徳太郎。

 右の外に藤森太一郎は瀧行蔵の次で、澤田弓太の上座のところにいたが、佐渡が着座するやいなや、太一郎は白木の三方へ白鞘の短刀を載せ進み出た。御徒目付早川佐次右衛門が大声で、楢山佐渡へ申し渡すのを切っかけに、御目付江刺誠機が読む。

 御自分儀叛逆首謀ニ付、仍朝令刎首被仰付者也
(おんじぶんぎ、はんぎゃくしゅぼうにつき、ちょうれいによって、ふんしゅおおせつけられるものなり)

 この読み渡しと同時に、太一郎は三方を佐渡へ渡す。佐渡はこれを押し戴き懐を開き、短刀を鞘から中ほどまで引抜くのを合図に、読み終るやいなや介錯人江釣子源吾は二畳台の上へ飛び上り、片膝を折り、片足を流して大声でエイヤの声とともに首は南面の内の東に寄り、六尺余り飛んでどうと落ちた。すぐに四人の介抱人は首と胴から迸出(ほうしゅつ)する鮮血を覆うため、用意の綿をどつさりとかけた。首が落ちると検使の藩老は見事と声をかけ、介錯人は南の方へ引き去るべきところ、北の方へ引いた。また、藤森太一郎は弓太の上座へ戻って大いに欺き、涙は滝のようであった。皆々は狼狽し、死骸は親類、家来共に下し置かれるように願い出て、願のとおりにという達しであるので、顔を見合せているうちに漸く差図があり、弓太はその部屋に入り、首を取上げ綿で包んでいると、四人の介抱人から遅滞の不始末について詰問があったが、答える間もなく、弓太の背後から襟をとり引上げる者がいるので、弓太は驚いてふり返えると、親類の楢山益人であった。暫くは拒んでいたが、聞き入れる様子もないので止むをえず首を誰かに渡し引かれるままに別室へ行ったところ、益人は今日の事だが介錯はその法に叶っていない。介錯人を厳責すべしと言う。弓太は答えて、拙者はその式、作法を知らないが、江釣子氏においても平生、剣術の友達のみならず、昨日まで南部家の貴族として尊重した人の首へ刃を加えるに臨み、いくら武術の心得があるからとはいえ、そう簡単なことではないであろう。だから引き去る方面を誤ったのだろうが、作法に手落ちがあったと言えば言えるだろう。しかし、目下長州藩の林半七はじめ官軍方の者共が多数居合わせている場合、このような異議を起こしては、南部藩の耻辱になるので勘弁あって然るべきであると押々宥めて、益人も不服ながら承服した。

 この落着に対し、楢山家の親類および家来共において、とりあえず親戚への通知書を出すべきであるのに、各自は気迷い周章するばかりで、筆を執る者もなく、同姓の蔵之進などは大声で欺き悲しみ、他所目も憚からず、前後不覚のため協議し相談も纏まらず、家来側の弓太が筆を執り、そのぞれへ通知書を差出したのである。

 かくして、遺骸の取り仕舞に着手し、首と胴とを形のように縫い合わせ、設けておいた大盥(おおたらい)で血流れを洗い清め衣服を着け、上下を装って栗材で造った六角の柩に納めて、駕籠に入れようとして、その駕籠を見ると、江戸から下るときに藩公から賜った御召の品ではあるが、網をかけたままであり、これを解こうとしたが錠がおろしてあり、鍵がなければ開けることができず引戸を切り離して柩を押し入れた。

 これより先は、楢山家の菩提寺、聖寿寺の墓地へ埋葬の事を家来の小原易次郎が担当し、同寺の門前下の馬札の所まで柩入りの駕籠を舁(かつぎ)込み、ここから形ばかりの葬式行列をして、墓地に到ったのは暁天の頃であった。聖寿寺の住職が棺に向って読経に及ぼうとする時、親類の栃内政人が駈けて来て、一見するなりワツと泣き出し、参会の家来共、住職、穴掘り人足に至るまで一同これに感じて同音に欺き哀しみ、一時引導も中止の状態になったが、漸く各自気を取直し住職の読経も済み、葬式も全く終り家来共が加賀野下屋敷へ戻ったのは午前十時であった。


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