『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)  (四)

小川欣亨


 ここに、最も憎み怪しむべき人物は佐渡の異母弟の行蔵の挙動である。現に行蔵は同藩士瀧氏の養嗣となり、禄高三百五十石の家柄であるが、このような処分に逢った場合にも拘らず、楢山家の家来共に対して言うには、この度南部家が白石へ転封になるについては、我々も随行せざるを得ないが、家族の引越料が五拾両なくては進退が難渋する。止むを得ず永の御暇を願うか、或いは楢山家でその金を貸してくれるように取扱いはできまいかとのこと。しかし、この度、佐渡が盛岡で処分の際まで懐中に持っていた紙入れの中に江戸表で禁錮中に新庄藩から受取った五拾両の残金の拾参両一分があったのを、行蔵が密かに掠め取ったのを役人の源吾がたしかに見受けており、不心得であると憎んでいるので、行蔵の願いを堅く拒絶しようとする意見が多かったが、弓太は熟考し佐渡は昨夜処刑となり、その弟は今日永の御暇を願うとあっては帯刀の身にとり南部家へ対して如何(いかが)わしく、かつ三百五十石の家柄を楢山家からの養子が、その家名を没却したとあっては、公私共に面目の立たないところという趣意によって、行蔵の不心得は無論であるけれども、止むを得ず五十両を貸し渡す事とし、白石へ引越すことを申し付けたが、又々三挺の駕籠がなければ家族の引越しができないと難題を言う。源吾はこれ又、不承知ではあったけれども、弓太は所謂(いわゆる)、盗人に追銭だがこの場合は目を溟(めい)して楢山家所有の古駕籠を貸すことを、兎に角承諾すると定めた。

 それはそれとして、この度の一件を川井にいる帯刀と家族に、とりあえず告げ知らせようと澤田兵蔵が出立し、弓太は佐渡の姉妹である南部弥六郎の妻を始め、奥瀬、櫻庭、安宅、向井、漆戸等の妻のところを廻り、昨夜以来の顛末を委(くわ)しく語り伝え、翌二十五日出立して川井へ帰り委細を帯刀に申し告げた。

 そのような時、前に取扱った行蔵の進退は、白石へ引越すことはさて置いて、瀧家の菩提所である油町の大泉寺に建立してある累代の碑石を悉く売払ってしまい、同家親類共から戸主を廃せられて放逐の身となって、十月に至り川井に住む帯刀の所へやって来たので、帯刀の愁歎は余りあり、弓太も驚歎のほかなかった。ついては、先に貸した五十両の返却を頻りに迫っても、言を左右にして遂に返さず、剰(あまつさえ)弓太方の夜具を恣(ほしいまま)に用いて、恬(てん)として耻ることを知らず、実に憎んでも余りあり、言語に表わすことができない有様であった。

 その後、石亀一哉、楢山蔵之進の両人が澤田弓太を訪問して言うには、今日尋ねて来たのは他でもない、この頃佐々木直作が言うには帯刀殿は佐渡殿の処刑には特別の愁傷があるとは聞かず、むしろ行蔵殿が瀧家から放逐された時の方が、深く悲歎に沈んでいると思われ、どうも理解ができぬが、このへん如何思われるかと詰問され、我々はどう答弁したらよいのか当惑する。世間にこのような批評があっては面白くないことなので、一寸相談に来たのだと言う。弓太は答えて、各々は他人と違い、親子三人の性行はよく御承知と思われるのに、他人に対してそのようなことを弁明できないとは全く思いも寄らないことだ。佐渡公の孝友、父君の慈愛からいつも行蔵殿の不行状を心配されて、種々に教訓してもその効なく、御当惑の余り拙者および各々方へも時々御依頼があったことを忘れたか。殊に佐渡公の最後にあっては、父君の深い御思慮があったこと、拙者などは感涙に堪えないことが多く、抑(そもそも)佐渡公の終局は一身を国家の犠牲に供されたもので、このような場合にこそ武士の嗜の顕れる場合であるのに、もしも帯刀公が父子の愛情一偏から、女々しい愁傷に前後不覚の挙動があって、他人の耳目に触れるようなことがあれば、それこそ世間の批評は如何なるものか。これに反し、行蔵殿今般の事はすでに、瀧家の戸主となり公務の失敗によって隠居を命ぜられ又、食禄を召し放たれたことならば、これは世間にままあるならい或いは普通とも言うべきであろうが、行蔵殿の行動は他家の養嗣となり、其の祖先の霊を尊崇するのは当然の義務であり、またこの度、白石へ引越すについては菩提所へ後年までの回向を厚く頼み、できる限りの茶湯料なりとも納むべきであるのに弁(わきま)えず、ただ弁えないばかりか、大胆不法にも祖先の墓表である碑石を売り払うに至っては、人非人(にんぴにん)の所業であり、そのため瀧家を放逐されたことに対して憤恨の余り、深く悲歎、落涙しておられる姿には、拙者も傍にあって御心中を察し、ともに熱涙に咽せ(むせ)びます。佐々木氏は平生の事情を知らず佐渡、行蔵両子の局面に雲泥の差があることを考えない評を下していると言うべきである。各々方はこのように事情を御熟知であるから、佐々木氏の談に対し、弁解してくれたなら父子三人の正邪曲直は明白となり佐渡、帯刀両名の名誉ともなるところ、帯刀公の両児に対する愛情に親疎(しんそ)があるような結果をみるとは返す返すも遺憾である。苛(いやしく)も各々方は楢山家の最も近く、重い御親類である。近頃出過ぎた申し分であるけれども、将来とも頼み甲斐のない心地がすると言い放つと、石亀、楢山両人とも一言の答もなさず帰り去っていった。

 帯刀は川井にあって、月日の過ぎるに従って次第に老衰に及び、杖とも柱とも恃(たの)んでいた佐渡には此の世を先立たれ、また行蔵は瀧家を逐(お)われ却って憂を増す厄介者となり、多くの娘等は分散、離居して音信も稀に孫達の顔を見る楽しみもできぬ世をかこち、時々悲歎の声などを発することがある。弓太は日夜介抱していても、これを慰める術もなく、困却の中に月日を送っていたが、翌三年三月、安宅正路から澤田長左衛門に(この長左衛門とは弓太のこと。佐渡の死後に改名したが、府藩県の世となり、川井地方は江刺県に属するようになり、長左衛門は江刺県から地方賑恤係という役を申し付けられ、苗字帯刀御免ということになり澤田長左衛門と称した。)盛岡へ出てくるようにとの召喚状があり、長左衛門は盛岡へ出て安宅に面会したところ、南部公から金三百円、楢山帯刀の扶助料として下さるとのことなので請書を出して持帰り、帯刀へその旨を告げてこの金を差出した。帯刀は一応は拝受し、即座に長左衛門にこれを渡して言うには、これまでいろいろと費用を支弁してくれた金額にはとても足らないだろうが、この金は其方が受納してくれるように頼みますと。長左衛門はそのような御心配は要らぬこと、折角、南部様から賜ったものですからお手許の御用に備えてくださいと、押してその金を差し戻すと、帯刀はまた言うに、この下されたお金の意味を考えると、全く我等が勝手に使用すべきものではなく、其方がこれまで我が家族一同を扶助してくれてきた、その扶助料として賜ったものであるから其方が受納するのは当然であると。どうしても其方で受け取れとあらば、長左衛門にも考えるところがあり、一応これを受け取り畢尭(ひっきょう)、将来のことを心配してのことだろうと察し、旧楢山領の田鎖村の百姓円治と与左衛門の両人が、今日に至るまでも親切に面倒をみてくれているので、この両人に相談し、同村において田地を質にとり利米をもって飯料としようということになり、その三百円のうちから二百円を両人に頼み、残り百円を帯刀の手許に予備金として渡した。この賜金は新制の二分金で、戊辰の際に各所で二分金を多く軍用その他に用いたが、みな贋金で銀台に金箔を塗ったような品もあり、当時これを油揚(あぶらあげ)と言った二分金である。そこで、その中から銀台の分百円を選りぬき、帯刀へ差出したところ、其方が封印した包金は我方で預り置こう。決して我等の一存で支払うことはしない。全く其方の金である。ただ預り置くのみであると堅く誓って受納された。

 この年、十二月(明治三年)南部家から帯刀はじめ家族共が藩外に住んでいたのでは、何かと不都合であろうから盛岡へ住居を定めるようにとの命令があったが、何分にも雪の中の引越しは難渋のため、来春まで猶予を願いたいと、行蔵および旧家来の川内新之丞、澤田福蔵の三人が盛岡へ出て安宅正路、三戸式部へ願い出で、且つ住むべき家もないので井筒屋へ依頼し、同所が所有している加賀野の家を澤田長左衛門が借り受け、その修理料百円を澤田重太郎に預け、兎も角も住居向を修理し、翌年二月十三日、亡き佐渡の妻(なか)およびうら子、たね子の両女ならびに老女きゑその他の女共を川井から出立させ、帯刀と妾りせ、末娘ふみ子等は行蔵および井上立八、医師三輪三庵、澤田長左衛門、袰岩延平等が付添って同行三月十三日に出立、盛岡へ移ることとなった。

 帯刀が川井を去るに際し、出立の前日、即ち十二日は旧家来共見立てとして参集すべき筈であるのに、他村の者はさて置き、同村にも古館直之進はじめ重立った者が数多く在住し、百姓共にも老名(おとな)など多くある中に、袰岩浪江一人、昼ごろに来ただけで非常に淋しいことであったが、長左衛門の老母は、先年盛岡の屋敷に召し使われたという縁もあり頗る名残り惜しみ、粗末な膳ながら三ッ組の盃を載せ、生豆、昆布、田作りを肴として銚子を携え帯刀の前へ出て言うには、明日、盛岡へ御帰り遊ばす由、恐れながら旦那様には御歳も召された御身の上、また私は勿論明日をも保ち難い老人ですから、再び御目通る日も覚束(おぽつか)なく、今生のお別れかと思いまして、御盃をさし上げます。御ひとつ召し上りのうえ、私へお盃をいただきたく存じますと。帯刀は今朝から食事もとらず、色々と行末を案じていた折、今生の別れという一言を聞き益々愁を催し其の盃を取り上げ、ただ只管(ひたすら)落涙するのみで、種々厄介になった挨拶を述べるのも忘れ早々にその盃を返し、どうか臥床を設けてくれるようにと注文したが、実に手持無沙汰の有様であり、遂に昼食も口にせず夕刻に至って急に今から出立すると言われる。長左衛門は万事手都合に追われ、今だに昼食も食えずにいたところ、急に出立とのことでいろいろと申し上げたが聞き入れず当惑していたが、松之助という者の父勘左衛門が来て馬の支度を手伝ってくれたのに力を得て、止むを得ず出立することにした。世が世であるならば、多くの人達が来て我先にと忠義振りを発揮するのに、さりとては世人の薄情なることこんなものかと長左衛門は感じて兎に角、帯刀の出立の都合を整えた。

 帯刀は思い立ったまま、無二無三に歩いて出立した。長左衛門は自分で食事をし旅装を整えて、その後を追い駈けていった。帯刀は祢宜屋敷の前で躓(つまず)き転んだのを延平と立八が抱き起こしているところへ駈け着き、若者共に手を貸して馬に乗らせたところ背向きになったのを見て、おかしくもまた哀れで長左衛門は落涙の外はなかった。最初は駕籠のつもりであったが、帯刀は駕籠を厭(いと)うので鞍置き馬を用意したが、夜分は寒いだろうと乗掛け馬に仕立てたところ、帯刀は乗掛け馬に乗るのは今度が初めてであった。且つ余程、精神を悩ましており前後の差別もないように見受けられ、みんな当惑しているところへ片巣村の元助方から、明朝ご出立の由と聞いていたので、その節御立寄りを願い度いと思っておりましたが、今夜のご出立とは・・・・と使いの者は驚いている様子である。しかし幸いのことであるので、長左衛門は帯刀に申し述べたところ、帯刀は大いに悦び、直々に元助方に立寄った。元助方では俄かに蕎麦切(そばぎり)をつくり、膳部を進めたので箸を取って暫時休息をした後に出立した。箱石に至って、帯刀は大いに弱ってきたため、山崎命助宅へ立寄り、蕨餅(わらぴもち)を差し出されたのを少しばかり食べ、暁頃にそこを出立して鈴久名に至った。此の地の工藤門内は普代の家柄で、且つ門内は親切に勤めた功労によって、記念として大小ならびに鉄瓶その他の贈物を持参して立寄った。同村の老名共一同の出迎えを受け、帯刀も機嫌よく挨拶を申し述べて出立した。上坂中央か
ら又々弱り、立八に介抱させ辛うじて日向という処まで到ったが、とても叶わず路傍にある杉の大木の下が幸いにも雪がなかったので、そこに毛氈(もうせん)に敷蒲団を重ねて横臥させた。何分にも生気なく、所詮(しょせん)進行は覚束ないので付添の者共は川井へ戻ろうとことを進めたが、承引なく、兎角(とかく)して川内の進之丞の弟である末治が迎えに来たので、川内庵へ止宿する事を付添の者から同人へ頼んだが、暫くし、枕を抬げ歩を進めることとなり、今度は鞍馬に助け乗せて出かけた。庵の手前で下馬し庵主の出迎えに挨拶もせず通り抜けた。これは、この庵へ泊るということを耳へ入れたためであろう。

 出立前の支度には、度々の通行の際に、懇切な取扱いを受けた場合に茶代だけではと、茶の湯茶碗、茶杓具の水こぼしを贈る旨を長左衛門に申し付けて準備をしているのに、通り抜けてしまったため、長左衛門はこれらの品を持参して住職にこれまでの謝意を述べ、茶菓の饗応を受けて早々にこの庵を辞して一行を追い駈けた。

 悪渡の庄之助宅前に皆々は休息していたので、そこから帯刀を馬に乗せ平津戸の大峠の長治宅ヘ夕刻に到着した。付添人数一同は空腹なので、ここで粥を熱てもらい乗馬の女中達は松草へ先着させ、行蔵、三庵、立八、長左衛門は帯刀の乗馬に付き添って出立した。大滝に至つた時に、帯刀の容躰は甚しく悪く困頓し、とても保ち難い様子に見

えるので、同所の台所で焚火に身躰を緩(ゆる)めたが、殆(ほと)んど危篤に瀕(ひん)して医師もとても回復はしないだろうとの見立てに、みな狼狽当惑している。作之丞、良助父子も来て、自宅へ飛脚を遣わし、万一のことがあつたら死躰を川井へ戻すことをみんなで議決した。そうしたところ、帯刀は俄然(がぜん)元亀を回復し、夜明けにここを出立し松草に到着、この日緩々(ゆるゆる)に休息療養を加えて、翌十五日に出立し簗川に到ったが、他目(よそめ)を憚って山越えに八木田を経て盛岡に入ろうと、種々困難を極め、岩山を越え天神社の脇へ下って妙泉寺前を横切り、田中道を通って、この日夕刻に元松岡七右衛門宅である楢山家族仮住居へ到着し、一同ホッと息をつき一先(ひとまず)安心した。

 帯刀は盛岡へ引移って以来さしたる病患もなく、且つ澤田重太郎が去年十二月に出盛してこの借宅の修理をなし、春になって宅地内の畑を手入れしていろいろ植物を仕立て、帯刀は朝夕これを見廻り慰めとしている。

 重太郎は既に在勤六ヶ月を経過しているが交替する者がなく、同人の家事上も不都合が多いであろうと長左衛門はかねてから心配している時に、腹帯村八幡別当学善院という者が来て、刈屋采右衛門という者がおり先年の不忠を今日、悔悟して帯刀公へ恩を報じたいと申しているから執り成してくれるようと言う。尤も在勤の身となれば、衣服の調達にも窮しているというので、これ幸いと長左衛門はこれを承諾し、単衣調料金二両二分を与えて早速に出立させて、重太郎と交代し長左衛門は安心した。しかし、この采右衛門は忠勤せず、楢山邸内の物品を盗み出し出入りの髪結亀治を使って他へ売払うなど言語に絶するような事ばかりするので、帯刀は長左衛門に至急出盛して処分せよと言う。

 しかし、長左衛門は蚕糸製造中で繁忙を極めていたので、彼是延引してしまい、七月十八日川井の宅を出立し、翌十九日盛岡へ赴く途中の簗川村の栃澤で采右衛門に遇(あ)ったので様子を尋ねたところ、采右衛門が言うにはあの老耄奴(おいぼれめ)は以前に倍して我意甚しく、とても勤めてはいられない状態なので暇乞いもしないで帰って来たとのこと。長左衛門は呆れ果てて何とも言い様もなくそのまま別れて、加賀野田甫の屋敷へ到って始終の事情を帯刀に聞いた。帯刀が言われるには、米、味噌、炊具、雑器は勿論のこと、秋田口戦争に用いた火薬の残りを小屋の土中に埋めておいたのを掘り出し、市中へ売り払ったのを長岡善之助の子供がどこからか聞き取り、こんなことは正式の承認がなければ容易ならざることであり、お屋敷のご迷惑になることがあるのであろうと知らせてきてくれた。そこで大いに驚き、叱りつけたところ、山崎謙蔵方へ引取り、種々の難題を言って来るので捨て置き難く、其方の多忙は重々察していたけれども余儀なく出盛を頼んだ次第であると落涙する。勿論、金、米の類は悉く持ち逃げされたので、差し当りの日用にも差し支えるので其方から預かっている百両の金子でもとり出して弁用すべきだろうかと言われるので、長左衛門は、それはかねて申し上げておいたように、万一の予備に据置いてあるものであり、日々の御くらしはどうにか取り計らいますと言い慰め、呉服町の井筒屋へ頼んで銭三百七十貫文を帯刀の手許へ差し出した。帯刀も始めて安心し、実は佐渡の遺物を兄弟共をはじめ家来共へ分配するために其方と相談しようと思っていたので、これまた宜しく取扱ってもらいたいと言われる。長左衛門は内丸屋敷立退きの際に、所々へ預けておいた品々をとり集め、帯刀と相談のうえそれぞれに札を付け二階の座敷に置き並べて、家来共へ与えようとしている時に、井筒屋から至急長左衛門に来てほしい旨の知らせが帯刀のところにあったので長左衛門は急いで井筒屋へ行った。

 井筒屋では宮古町の東屋へ銭三万五千貫文程を預けておいたが、東屋ではそれを昨年、鯣漁(するめりょう)に融通したと言って来ていたので安心していたが、今般蚕糸買入のために手代の磯次郎を出張させこの金を請求したところ、当時の銭で返済したいと言っている。しかし、今日では融通停止となっている廃物をもって返却とはいかにも不都合なので、色々と談判したが不法を言い募るばかりで将があかず、此の際貴下に至急宮古へ行って片付けてもらいたいと言う。そこで、佐渡の遺品の件を話し、これが片付かぬうちは宮古へ往かれぬことを話したところ、支配人源次郎が言うには御屋敷の御用も尤もではあるけれども、この間も店預り切手三百七十貫文を御用立てしたのみならず、今の御住居所もお貸しするなど、帯刀様には当店のことは念頭にないはずはなく、実は当店にとり、眼前の大金損失に至る場合であるので、どうか御繰り合わせのうえ、宮古へ御出で下さるようにと懇願され、余儀ない次第となり、その段を帯刀に申し出て長左衛門は即時出立し宮古へ赴いた。

 とかくするうちに帯刀の妾のりせが病死し、帯刀の介抱がいなくなった。十一月十五日、油町の惣助という者が飛脚でやって来て、帯刀が大病である旨、行蔵から長左衛門に知らせて来たので、長左衛門は即時出立し夜通しで十六日暮頃到着、洗足をしようとしていると、早く枕元へ来るようにと帯刀の末娘ふみが催促するので、長左衛門は洗足もそこそこに帯刀の枕元に進み、弓太が参りましたと誰れかが言うのを聞いて帯刀は少し起き上り、これもあれもと折角待っていたけれども、最早、何も言うことはできない。先ずは休んでくれとそのまま打倒れ煩悶するばかりなので、長左衛門も途方にくれ一言もなく控えている。枕元には向井へ嫁いだるい子、桜庭へ嫁いだてる子の両人が帯刀の背をさすり、腕をさすりなどしているが、帯刀はよ?よ?と呼んでてる子へ顔を向ける。これは向井のるい子が近ごろよしと改名したので両女の顔の見分けも定かでなく、向井と桜庭とを違えているのである。平生多くの娘達の中で、向井のるい子を最も愛していたので、頻りによし、よしと呼んで、吾が生命もこれまでで最早、孫共の成長を見ることは叶わぬかと、煩悶しておられる。便所へ往くと言われるのでおまるを進めたところ、イヤイヤと言われるので止むをえず双方の手をとり奥の間へ連れて行き用便をして戻るとそのまま臥床に倒れて、既に落命かと思うほどである。南部家では帯刀が大病であることを聞いて、医師二人を見舞として向けてよこした。

 帯刀はこの際、川井へ往くから供の者共を廻せと頻りに焦(あせ)せるのを見て、側にいる行蔵がここは御家でありますと言うと、イヤ吾は家を持たぬとひたすらもがき苦しむ。その様子を見て医師両人は傷寒のために譫語(たわごと)を言っているのだと診察した。しかし、これは必ずしも熱のためではない。近来、種々の辛苦艱難を経て煩悶するところから来ているのだと家来共は申し合ったが、遂に十一月十八日夜四ッ時(十時)に永眠した。


最初ページ
前ぺーじ
次ページ


一覧にもどる