葛西正兵衛家

葛西氏家系異説 210331

 遠祖清重は文治五年に源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍して磐井、胆沢、江刺、牡鹿以下諸郡を賜わり奥州惣奉行を命ぜられて以後、子孫は奥州の名族として戦国時代に及んだが、天正十八年に豊臣秀吉の奥州仕置により改易。清重以来四百余年で葛西家は滅亡した。一族は離散したため家系を伝える記録は錯綜して異説が多い。
 恒武平氏村岡五郎良文の孫将恒が治安中、武蔵介藤原真枝を討った功により下総葛飾郡葛西庄ともいい、群書類従所収の笠井系図によれば、その子武常が軍功によって葛西庄を賜わり葛西氏を称した。また盛岡葛西系図には武常を豊島次郎・葛西権守とする一方、千葉上総系図は、武常の孫を豊島太郎康家、その孫であり豊島権守清光の子清重が葛西三郎を称したとする。また同書所収の般若院系図は清重の父清光を葛西三郎としている。盛岡葛西系図は豊島太郎常康の子を豊島又次郎常清とし、その長男を豊島太郎清光、二男を葛西三郎清重に作る。平姓奥州葛西系図の清重の譜は、常清二男で下野の住人葛西重隆の家督を継いだと伝えている。 
良文━忠頼━将恒(将常)━武常━常家━康家(常康)━清光(常清)━清重
   千葉上総系図、仙台葛西家系図による
   ( )内は盛岡葛西家系図
清重の養父とする重隆は、松川千葉家系図によれば、千葉介常重の三男で下総葛西荘に住して家名となし、葛西三郎と称したが、嗣子なく豊島右馬允常清の二男、三郎清重が養子となり家督したという。
 良文━忠頼━忠常━常将━常長━常兼━常重┳常胤
                     ┗重高━清重
 清重より五代の孫清宗(盛岡葛西家系図は清信に該当)は元弘の乱に幕府軍として上洛し、のち後醍醐天皇方に転じて建武三年京都神楽岡に戦死したが、その子貞清も南朝方として活躍した。降って満重に嗣子なく伊達稙宗の子晴胤が養嗣子となるに及んで伊達氏の勢力が浸透するに至ったと伝える。晴胤の嫡子義重(親信とも)の跡を継いだその弟晴信の時、天正十八年に豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易となり滅亡した。歴代石巻日和山城(宮城県石巻市)に本拠を置いたが、晴信の時に登米郡寺池城(宮城県登米町)に移った。晴信の跡は南部家のほか、仙台(宮城県)伊達家、宇和島(愛媛県)伊達家に仕えた。
  盛岡葛西系図
 清重━朝清━清親━清時━清信━貞清━高清━詮清━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣満清━政信(実は叔父)━晴重━晴胤┳親信
┗満信━持信━朝信━尚信      ┗晴信━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣延景━━━━┳晴易┳晴綱━晴時━晴茂┳栄晴    葛西正兵衛家 
┃(晴勝とも)┃  ┃        ┗晴員    葛西武一家  
┃      ┃  ┗晴興             葛西市右衛門家  
┃      ┃                  
┃      ┗晴連━━━━晴宗━薫晴━晴辰┳晴栄   子孫断絶          
┃        延貞とも         ┗晴吉 葛西進八家 
┗信定 仙台伊達家に仕える 延宝中まで音信があったという



   仙台葛西系図 (参考)
  清重━清親━清時━清経━清宗━清貞━満良━満清━持重━信重━満重━━┓
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
 ┗宗清━晴重┳晴胤┳義重━晴信(実は叔父)
       ┗晴信┗胤重(三男)━重俊━
 註・大槻文彦増補葛西系図は晴信を義重の弟に作る。その他諸説がある。


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