南部信直の前半生について(疑問) 1  略譜  附・信直誕生後家督まで年表

         
         近世南部家中興の祖と称される二十六代南部信直
         の前半生は、殆ど解明されていない。現在伝えら
         れている信直像は、「南部叢書」所収本系統の
         『南部根元記』の世界の人物像であると云って過
         言ではないと考える。
          ここに紹介する各種史料の選択には極力私見は介在し
         ないように配慮した積もりである。      
                         工藤利悦

            史料目次
            一、略譜
              平凡社刊『大人名事典』に見る信直像                 

              『寛永系図伝』の信直譜           
              『寛政重修諸家譜』の信直譜         

            二、誕生・家督                
              附・信直誕生後家督まで略年表    



一、略譜              

1. 平凡社刊『大人名事典』に見る信直像

 南部信直(1546一1599)桃山時代の武将。天文十五年生る。新羅三郎義光の後
裔左衞門尉高信の男。初名は彦三郎、のち大膳大夫と称す。豊臣秀吉に仕ふ。宗
家南部晴政天正八年正月没し、子晴継また家を承け天正十年をもつて夭して嗣な
く、信直推されて世嗣となる。信直天正十四年使を前田利家の許に送りて秀吉に
紹介せんことを乞ふ。利家これを斡旋せしかば、秀吉これを諒とし、為に信直は
秀吉の尽力により従五位下に叙し大膳大夫に任ぜられ、ついで本領安堵の朱印を
賜ふ。

 翌十六年秀吉の命により駿馬十疋を献ず。この年信直の弟政信に事へし津軽郡
代津軽為信は独立の志を起し、主政信を毒殺して津軽郡を奪ひ、南部の一族九戸
政実また信直に背きて、為信を援け共に信直に杭するに至る。十八年七月、信直
その子利直と共に小田原に至りて秀吉に謁し、津軽為信、九戸政実二氏の叛逆を
訴へてこれが討伐を請ふ。然れども秀吉は為信の既に来り謁し、且つ津軽一郡安
堵の朱印を与へしをもつてこれを聴さず、小田原平定の後奥羽に下向して、政実
を計つべきことを談して帰国せしむ。信直これを如何ともする能はず涙を呑んで
帰国す。

 十九年政実宗家を奪取せんと兵を聚め、勢猖蹶を極む。信直その子利直及び北
信愛を京都に遣はし、九戸兵叛乱の事情を報告し、併せて秀吉の下知を伺ふ。既
にして徳川家康、豊臣秀次を大将とし、伊達政宗、蒲生氏郷を先鋒として諸将来
攻するに及び政実防戦大いに努め二ヶ月餘に渉る奮戦も甲斐なく九月に至り遂に
敗死す。かくて九戸氏の乱平ぐや、信直は陸奥の和賀、稗貫、志和の三郡を増封
せらる。

文禄の役、名護屋の行営に従ひ三年待従に任ぜらる。慶長四年十月十五日没す。
                   (南部家譜、藩翰譜、豊臣時代史) 
                                    
 
2. 『寛永系図伝』の信直譜

 (二十四代晴継の嗣子)
  信直                                
   大膳大夫 高信が嫡子たり
    彦三郎晴継早世ゆへ従弟たりといへどもその家をつぐ、天文十八年豊臣
    秀吉相州の北条を征罰のため関東に下向のとき信直参謁す、秀吉より来
    国次の脇指ならびに衣服羽織等をたまはる同十九年九部修理亮政実わた
    くしのはかりことをくはたつ、このよしを前田越前守利家について秀吉
    に達したれば九部(九戸)征罰のため羽柴中納言秀次を大将として陣を
    二本松にはる、先がけ蒲生飛騨守浅野弾正少弼長政堀尾帯刀吉晴井伊兵
    部少輔直政等九部の賊をせめらるるとき、信直はせむかひてちからをあ
    らわす、九部(ママ)ついに降参す、そののち族徒等ことごとく誅せら
    る、文禄元年秀吉朝鮮を征罰のとき、肥前の名護屋まで信直供奉す、慶
    長四年十月五日卒す、五十四歳、法名江山心公

3. 『寛政重修諸家譜』の信直譜

 (二十四代晴継の嗣子)
● 信直
    大膳大夫 実は高信が長男、母は某氏が女、天文十五年陸奥国に生る、
    永禄八年晴継が遣領を継、天正十四年九月陸奥国滴石の主、手塚左京進
    某封地に襲ひ来るの時接戦し、十六年斯波郡の領主斯波民部大輔詮元を
    討、これよりさき弟彦次郎政信をして津軽の城代とし、家臣大浦右京為
    信等を附属す、そののち為信彼地にをいて姦計をもつて土民を憶け、政
    信卒するに及びて反逆の色を顕はす、家臣九戸修理亮(今の呈譜左近将
    監)政実もこれに党して兵を起す、信直まづ政実を討んとして為信を征
    するにいとまあらす、為信その虚に乗じて終に津軽の地をたもつ、十八
    年豊臣太閣北條氏政父子を征伐あるにより兵をわかちて逆徒に備ヘ、信
    直は小田原にはせ参り大閣に謁し、七月十八日本領相違あるべからざる
    のむね朱印をあたへらる、時に信直、反臣為信政実等が事を訴ヘ誅伐あ
    らん事を請のところ、大閣前田利家をしてこれを諭さしめていはく、さ
    きに津軽右京為信みづから旧家と称し幕下に来り、既に本領安堵の朱印
    を授く、今まこれを伐かたし、この地平均の後、九戸を誅戮あるべきな
    り、信直はすみやかに帰国して逆徒を押ゆべしとて、来国次の脇指及び
    衣服をあたへらる、のち政実降参し十九年ふたび反して九戸城に楯籠る
    これに与する輩櫛引出雲某、一戸図書某、姉帯大学某、大湯四郎左衛門
    某等各その居所にとりこもる、政実兵を出して木村伊勢秀茂か住する又
    重をせめうつといへども、木村固く守りて防戦す、このとき八戸薩摩某
    政実が反心をきき、兵をひきゐて櫛引をせめ、又月館隠岐某も図書某が
    こもれる一戸をうつ、これによりて又重の敵兵引退く、信直其告をきき
    速にに誅罰せんことをおもふといへども、その党類おほく、ことに九戸
    は要害の地たるによりたやすくこれを鎮めがたく、かつ私に干戈をうご
    かさん事を憚り、大光寺左衞門某を九戸の押とし、北尾張某を使として
    前田利家に就て大閣に事のよしを注進す、ときに政実数百騎を発して大
    光寺左衞門をうたんとす、これにより信直三戸を出張し、九戸城の北長
    瀬川の辺に伏兵をまうけ敵の進み来るをさしはさみうちて勝利を得たり
    又久慈備前某をして一戸をせめて遂に図書某をうちとる、八月大閣豊臣
    秀次を将とし蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴等を先陣として九戸城をう
    たしむ、このとき東照宮も岩手澤まで御馬を出され、井伊直政をして先
    陣に加へらる、信直をよび男利直も諸将おなじく先手にすすむ、すでに
    して九戸城に押寄るのところ、姉帯大学険阻の地によりて其道路をさへ
    ぎり、吉晴が備をうつといへども、兵寡きにより遂に敗走す、そのち九
    戸城を囲みて戦ひをいどむといへども、固く守りて兵を出さす、剰政実
    大軍の敵しがたきに僻易し、九月七日の夜長政が陣に隆参す、八日残兵
    猶城を守るにより氏郷に攻て敵数多をうちとり、遂に落城す、のち政実
    をはじめ櫛引出雲・大湯四郎左衞門等を三迫にをいて誅戮す、このとし
    和賀、稗貫、紫波三郡を加へられ旧領を合せ都て十萬石を領す、文禄元
    年朝鮮征伐のとき肥前国名護屋に赴き、石膓と銘せる伽羅一本を授けら
    る、慶長二年八月十日鷹馬等の事をうけたまはるにより、台徳院殿(徳
    川秀忠)より御書を下され、鞍鐙五具をたまふ、其儀この事により両御
    所よりしばしば御書をたまふ、三年太閣の遺物雲次の太刀粮米千石をあ
    たへらる、四年十月五日卒す、年五十四、江山心公常住院と號す、三戸
    郡の聖寿寺に葬る、室は晴政(南部家二十四代)が女


二、誕生・家督

天文十五年 1646 
   三月  岩手郡一方井村(いっかたいむら)にて、南部左衛門尉高信の庶
    長子として生れる、幼名亀九郎、母は一方井刑部安正の娘
                            『南部史要』

   九月  此時鶴南に行ずくる所に誕生、その後出生の日、産屋の上を暫く
       舞遊候由、南部家鶴を以て吉端かとす、信直公成人の後南部の家
       録を可継前端か              『祐清私記』

    一方井氏
      『奥南落穂集』所収一方井刑部入道禅門の譜安倍貞任の後、安東太
       郎盛季の孫、秋田より来り代々一方井に住し田子高信に仕ふ。女
       は信直公の母なり」と伝える。刑部入道禅門の世代は、孫次郎安
       元、その子刑部少輔安信、その子安次郎安行、その跡を安信の四
       男刑部安武としている。

       これに対して一方井氏所伝『寛保書上』一方井系図(岩手県史所
       収)は丹後定宗、その子刑部安宗、その子刑部安則、その四男刑
       部安武とし『奥南落穂集』とは世代数は一致するものの諱は合致
       していない。

       『参考諸家系図』一方井系図
       一方井孫三郎安信を祖とし、その跡を丹後安元、その跡を三男刑
       部安武として前二書とは世代、諱ともに符合しない。信直の外祖
       父についても同様に異説多い。
       『奥南落穂集』は刑部入道禅門、
       『寛保書上系図』では丹後定宗、
       『参考諸家系図』は刑部安正としている等である。しかし、何れ
       にしても南部信直生母の実家として信直が宗家相続後、重臣に取
       立られて地方八百石を知行した家で、刑務少(丹後)安武の系
       【一】を嫡家とし、その門葉は安武の二兄孫六安房の系【二】、
       安房の二孫源之助定則の系【三】および、花巻給人なった安武の
       叔父甚兵衛安定の系があり、系図並びに明治元年支配帳による一
       方井氏は次の通りである。 

    一方井略系図 拠「参考諸家系図」 
   
     安信孫次郎┬安元刑務少┬安房孫六┬安時孫之丞─安時孫之丞──┐
          │     │    │             │
          │     │    │             │
          │     ├安正  └安宗一方井孫七【三】   │
          │     └安武刑務少【一】          │
          ├政長 米内民部 米内氏祖            │
          └安定甚兵衛【五】                │
          ┌────────────────────────┘
          ├貞貫孫六【二】
          └定則源之助【四】 
               
     明治元年支配帳
         一、六十石      一方井六郎  【一】
         一、二十四石     一方井 澄  【二】
         一、二十四石     一方井源之進 【三】
         一、十二石      一方井銀左衛門【四】
         花巻給人
         一、五十石      一方井小次郎 【五】

       右五家のほか、一方井孫三郎安信の支族と伝え、盛岡藩領内の修
       験惣録を勤めて地方二百石を知行した自光坊(本山派修験)家が
       ある。なお分流に安信の次男政長(米内民部)から米内氏があ
       る。
        (『奥南落穂集』『参考諸家系図』『支配帳』各種『盛岡藩
          国住居諸士』)


○  信直誕生後家督まで略年表

弘治年中 1555?1557
   この歳 十二・三歳の時三戸田子城に移り田子九郎と称す
                             『南部史要』
       十四五歳迄一方井村にて成長則自光坊手習之師範となる
                             『祐清私記』

       其性質優俊智にして、勇気人に越え能く人の諌めを聞く、其功臆
       利純賢愚を知り且仁心ありて人の帰服を得る。然れ共少物毎に遠
       慮の気有、自身をへり下り玉ふ事有、物事少しかかりつまつくる
       事有、                   『祐清私記』

永禄元年 1558 
   この歳 宗家晴政の長女を娶り世子となる
  六年 1563  
   この歳 室町幕府諸役人附・関東衆に   
            南部大膳亮・奥州、
            九戸五郎・奥州二階堂   が散見す
           『群書類従』永禄六年諸役人附 光源院殿御代当参衆竝
            足軽以下衆覚
  八年 1565  
   この歳 南部氏、鹿角にて安東氏と合戦、長牛弥九郎・一戸弥兵衛ら防戦
       に勤めたが敗退、三戸に逃れる。鹿角は安東領となる
                             『奥南落穂集』
        ※ 『聞老遺事』は永禄九年(1566)七月とす 
        ※ 『国統大年譜』は天正十年(1582)とす
  九年 1566    
   この歳 生母一方井氏死去 名久井法光寺に葬る 芝山芳公大禅定尼
                       『参考諸家系図』一方井系図
 十一年 1568
   三月  世子として鹿角に出陣、秋田の安東氏と合戦す 
                       『参考諸家系図』長牛系図
        ※ 『聞老遺事』『南部世譜』附録は永禄十二年(1569)とす
元亀元年 1570   
   この歳 晴政嫡子晴継生れる (年令逆算)
        ※ 『国統大年譜』
           天文二十二年(1553)誕生とす
          但し『国統大年譜』記載の没年から逆算すれば、元亀元年
            は誕生前十六年に当る
   この歳 九戸政実、大将となり葛西氏属将小野寺前司宗道を和賀河崎に攻
       略す              『岩手県史』所収小野寺系図
  二年 1514
   五月五日 大浦為信、津軽石川城主石川大膳を討ち取り、津軽に旗を挙げ
       る                      『永禄日記』
   五月五日 八幡宮競馬、早朝に見物仕候、同夜大浦殿五百騎程にて石川大
       淵ヶ崎へ押寄大膳殿を落し候由、同日和徳讃岐も落し候て諸人驚
       入候、尤大浦殿は堀越町居飛鳥殿城え入り候
       八月二日南部八之部殿、此度石川大膳殿被打候を無念に被存、宿
       川原迄三千余騎押寄候処、九戸甲斐殿は又八之戸之留主を幸に、
       其城を乗取らんと相催候段聞候て、八戸殿当麻より帰り候   
       ※ 『永禄日記』は津軽山崎家文書  石川大膳殿は高信のこと
       ※ 『津軽封内城趾考』は石川城趾の項では、高信は天文九 年
         (1540)病死、年大膳殿は高信の子政信のこと、為信
           津軽回復の戦のため血り祭に上げられ自尽としている
       ※ 『聞老遺事』は天正十六年(1588)とす
  三年 1572
   この歳 父高信津軽を切取彼地え移る、依って信直弟政信は父の高信の名
       跡となり、津軽に赴き信直は晴政の名跡の心故三戸にあり
                             『祐清私記』
       ※ 『南部根元記』『北家系図』『川守田家書上』は天正十年
       (1582)晴継葬礼の時に作る
   三月三日 信直、宿願あって川守田毘沙門堂に参詣す。この時晴政により
       襲撃され、信直は川守田常陸入道の館に逃げ延びる。信直は向
       う敵・晴政に鉄炮で応戦、常陸に義父を討つことを嗜められその
        馬を打った。また警護していた九戸彦九郎実親を射止めた。
                             『八戸家伝記』
       ※ 元文六年本『南部根元記』は年号なし、信直鷹狩の時とする
   年号無し 
      「爰に、北左衛門佐信愛、信直の国器有て、傷、憫而時の不幸に遭
       事を心を八戸政義に合、信直を己が居楯に容隠して剣吉警衛を致
       す。仍て晴政弥々嫉之、同志の一門家従を引率して、剣吉に発向
       する事数回、此時、自双方援兵を政義に乞、政義謂へらく、信直
       を救はんと欲すれば、寧嫡家に背く、嫡家を救はんと欲すれば信
       直無之死亡に至らん、所詮嫁家を諌め、信直を解て闘争を休には
       しかすとて、躬ら軍兵を相具し、双方の陣中に相臨み、頻りに和
       睦を加へて、以令為無事、自此以来、晴政少し対憤弛となり」
                              『三翁昔語』

   年号無し 
      六月廾四日附・南部晴政書状「南部家文書(99文書)」
        本文割愛
       晴政、浅水城(城主南遠江)、剣吉城(城主北尾張) 攻撃の況を
       伝えるとともに、八戸薩摩に「出馬せられ候得ば 大慶云々」と認
       めている 。
       『三翁昔語』の記事を傍証する記録
   年号無し  
       櫛引合戦、南弾正・同典膳
      「爰に、南部の一族南遠江康義と申せしは、信直公従弟にて知謀深
       く猛勇なる人なるが、其頃浅水に居城せられける、是へは九戸が
       下知として櫛引河内攻圍見む、去れども城兵金石の勢を振て防け
       れは、寄手不叶引退く、是に依て南殿・北尾張信愛と調し合、両
       旗にて櫛引を攻落しと、已に南殿は出張有、然るに信愛、先年己
       が領地と南殿領と境目の出入内心不和なりしかば、此度の出陣を
       諾すといへども、苫米地に控えて櫛引に不来、南殿の人数は逢戦
       といへとも不勢なれは、一先引退き野中(法師岡)にて取て返し
       追来る敵と戦ひしかとも、人数のみ多く討たれ、あへなく引退き
       ける、遠江殿嫡子秀氏(晴政公の御婿、信直公の相婿)、二男典
       膳いかがしたりけん、引きおくれ、戦しか敵大勢に取巻れ、二人
       ともに終に討死す、遠江殿は御子二人共に討れ、勇気も弱り悲歎
       の泪せきあへず、此時信直公は三戸馬場の館に御坐有しか、此由
       を聞玉へ、御愁傷に御袂をしぼり玉ふ、爰も無勢なれば叶か守田
       が館へ入玉ふ、敵いかが聞けん、櫛引河内十七騎にて追来る、信
       直公防かたく、已に御自害と見へける、館主川守田申けるは、是
       に候三尺五寸の鉄砲二ツ玉こめ、是にて先に進し兵を遊はされ候
       へ若はつれたらん時は一度に打て入へし、其時御生害候へと我身
       台となりて進め奉れは云々          『奥南盛風記』
   八月四日 二十四代晴政死去        元文六年本『南部根元記』
   某年
      (晴政)世子晴継死去を悲嘆し、「御前代より相伝りし代々将軍家
       の御教書等其外御家に伝りし御重宝記録等を見玉ひては、我是誰
       に譲るべき、徒に他の宝になさんよりは不如焼捨にはとて一所に
       集自火をかけ焼捨給ひけり、南部家累代の記録等此時多く亡失す
                        元文六年本『南部根元記』
       ※ 『南部根元記』原本は既に元禄中に散逸したらしく、転写本
        のみが流布して現在にいたっている。従って同名本であっても
        内容は諸説錯綜し、同名異本の態を有しているものさえある。
        その点に立脚して述べるならば、上記の説は元文六年系統本に
        のみ見られる説である。
         但し、『南部根元記』は、信直を顕彰するための一代記であ
           ることを心得て読む必要がある。つまり、信直に対立し
           た人物は悪者として記載されているきらいがある。

     後年の記録であるが、信直が相続した時には、「南部家系図」は一本
     も無く、先祖の由緒が不明であることを嘆いたとしている(『祐清私
     記』)。『祐清私記』の説を発展して考えるならば、上記の説は信直
     が家督を継いだ当時に系図がなかったことの理由付けであり、他系統
     本において、「信直の岳父晴政は、家臣の妻を宴に侍らせ、恨みを買
     い城を焼かれた。その時重代の家宝記録を悉く焼失した」とする説に
     対応する話しであることが明らかとなる。
     総じて見れば、他系統本には見えなくとも、或いは否定してあっても
     検証する立場にあっては、元文六年系本『南部根元記』は否定し得な
     い要素を有するとしており、検討に値する史料であると考える。
                                工藤利悦

   年号無し 
       雖然恐後難之、及身故、請救援於政栄、政栄肯迎之於己之居楯、
       八戸根城隠容数年              『八戸家伝記』
天正元年 1573
   この歳  晴政次女 九戸彦九郎実親に嫁す       『祐清私記』
  四年 1574
   三月  長男彦九郎晴直生れる のち利直と改名 母は南部氏 生母泉山
       村の地人出雲の娘               『祐清私記』
   この歳  夫人南部氏死去、世子を辞して田子に帰る  『国統大年譜』
      ※ 『祐清私記』「信直公奥方平産之事」の条には利直の生母を南
        部氏とし、産後の日だちが悪く死去とす。『公国史』列伝夫妾
        伝は利直を八戸直栄室千代姫とする。
  九年 1581
   八月   父石川左衛門尉高信津軽にて病死す 七十六歳 
                            『奥南落穂集』
           異説が多い 元亀二年参照
   この歳  九戸政実、城に引籠る     元文六年本『南部根元記』
   この歳  九戸政実、八戸政義に対し反信直派に味方工作をす
                            『八戸家伝記』
   この歳  平舘城主平舘政包、信直を支持する兄一戸政連父子を一戸城に
        襲殺す                 『奥南旧指録』
  十年 1582
   正月四日 二十四代晴政死去            『祐清私記』
       ※ 『寛政重修諸家譜』は永禄六年三月十六日に作る
    この日ヵ 彦三郎晴継、二十五代を相続す
       ※ 『聞老遺事』は永禄六年(1563)と元亀三年(1572)説を掲
         げる
       ※ 『寛政重修諸家譜』は永禄八年(1565)とす 
   正月二十日 二十五代晴継死去 十三歳
       「天正十年正月晴政公薨じて公(晴継)その後を継ぎ、父の名を
       襲ひて彦三郎と改む、廿四日先君の葬儀を三光庵に営み式終りて
       公夜三戸城に帰る、偶々風雨烈しくして咫尺を弁ぜず、兇漢あり
       突然躍り出でて途に公を弑す、従者等大に狼狽し兇漢を捕へ得ず
       して帰る、公時に十三、外聞を憚り表面は痘を病で薨ずといへ
       り」衆                  『公国史』列伝
       ※ 『祐清私記』は、右の犯人を九戸政実、久慈備前等とする
       これ迄の経過からすれば「晴政・晴継を庇護して来たのは九戸政
       実」が、想定されないか
   二月十五日 宗家三戸南部氏の後継者決定をめぐり一族重臣、三戸城に会
       議す                   『天正南部軍記』
   この歳  晴継の跡を継ぐ  
            『祐清私記』 『参考諸家系図』北系図・久慈系図
            ・下斗米系図 
        「然に晴継の御他界の時、誰世継に立玉ふ無定、家中の上下大に
       騒動し安き心も無かりけり、八戸弾正の少輔、其比未だ年若く御
       座とければ、何とも分つ方無く、其の外の御一族東中務少輔、南
       遠江守、北左衛門佐、石亀紀伊守 七戸彦三郎、毛馬内靱負頭、
       其外石井伊賀守、桜庭安房守、楢山帯刀、吉田兵部少輔、福田掃
       部助、種市中務、浄法寺修理亮、久慈備前守、野田掃部助葛巻覚
       右衛門等、諸老大評議、取々成しかと、面々心々にて一定したる
       事なし、其比九戸左近将監政実は、家中一の大身にて、歳もをと
       なしくをわせし故、皆軽く思ふ者なし、佞媚の族混、九戸殿舎弟
       九郎実親は、晴継の姉聟にて御座有ば、是を家督に相立られ、
       可然と云あえり               『東奥軍記』
       ※ 『東奥軍記』は『南部根元記』異名本
       ※ 『寛政重修諸家譜』は永禄八年(1565)とす
       ※ 『御当家御記録』は天正六年(1578)正月四日とす 
       銘々心にして一定したる事もなし、其頃九戸左近将監政実は、家
       中一の大身にて年もおとなしかりしゆへ皆人重んじけり、去に依
       て侫媚の族は、九戸の舎弟彦九郎実親は晴継の姉聟にてましませ
       は、是を家督に立られ可然と云あへり、其中に北左衛門申は、各
       は何をとや角論じ給ふぞ、御家督に立給ふ人にて定りておわしま
       し、騒ぎ申さる事なし、謂んと申けれは皆人不審顔にて居ける然
       處に、北左衛門は勝れたり侍百人に鉄炮百挺為持、何も物具させ
       田子にまします九郎信直公の御迎ひに遣しけり、信直公は左衛門
       尉高信の嫡子にてましませば、晴継の御為には従弟と云、其上大
       姉聟にて、旁以て間近き御中なれは御家督に備り給ふとても、誰
       か悪なむ者あらん、信直公おもんはかり
                       享保十二年本『南部根元記』
   年次記載なし 彦三郎晴継早世ゆへ従弟たりといへともその家をつぐ
                             『寛永系図伝』
   この歳 本家彦三郎晴継早世故、又従弟たりといへとも信直家を継けり
                            『祐清私記』
      ※ 会議の大勢は家中一の大身・九戸政実或はその弟で晴政次女の
       聟である九戸実親に傾きかけていたと伝えているにも拘わらず
       信直が家督を相続としている。


 【私見】
  信直は、晴政の長女を娶り一旦は世子とはなっているが、室は死去した後、さらに養弟晴継が生れ、晴継に家督を譲ろうとした晴政によって、一度ならず命を狙われ、世子の座を去った人物である。信直が去り、晴継が死去した跡にも女婿は数多あり、信直の伝記である『南部根元記』も認める晴継の後継者は、晴政の次女であり、晴継の次姉の婿、九戸実親が最有力者であったとされている。

 然るに、三戸南部家にとっては、相続人の資格もない過去の人物である信直を擁立して、晴継の後継者を決定する重臣会議に、武装で臨んだ北信愛の不可解な行動は、なにを意味するのであろうか。

 『八戸家伝記』『八戸家系』によれば、晴政は生前に剣吉(城主北信愛)浅水(南遠江康義・信直の叔父で、北信愛の舅)の両城を攻城しているが、信直を庇護する者を討つためであったことを、晴政書簡を裏付けにして伝えている。一方、九戸政実は晴政の要請に応え、一貫して晴政を支持する立場も垣間見える。
          
 更に『群書類従』永禄六年諸役人附に散見する、九戸五郎は、九戸政実と同人である確証はなされていないが、その可能性は限り無く高いと考えられ、その先には三戸南部家の家臣ではない、室町幕府が認める大名(関東衆)九戸氏がクローズアップする。

 総じて言える事は、検証を重ねて行き着く処は、改めて「九戸一揆とは何であったのか」との疑問に辿り着くような気がしてならない。

   この歳 織田信長に誼を結ぶため京に向け北左衛門信愛を使者に立てる 『祐清私記』

二十五代晴継との関係   川守田事件の記載諸説


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