江釣子 えづりこ

江釣子荘助家 200426

 明治元年の支配帳に江釣子荘助家がある。『参考諸家系図』によれば江釣子新右衛門吉時の二男江釣子重兵衛親吉をを祖と伝える。親吉は元禄中に徒小原忠吉の番代を勤め、のち自ら別に徒に召出され六駄二人扶持を宛行われ、正徳元年死去した。その跡を鈴木金兵衛の養弟(実は伊原吉左衛門二男)半六苗武が相続。のち徒目付となり、享保二十年年功を以て士班に列した。その後雇徒目付、郡山東根山奉行、宮古蔵奉行を勤めて宝暦六年死去した。これを遡って延享中嫡子小藤太則武は部屋住で祐筆となったが、同五年江戸詰中、藩邸を出たまま帰らず廃嫡、二男の要右衛門が嫡子となり、宝暦六年父の遺跡を相続した。南部幸吉(三十五代利正の幼名)相手、新山物留番所番人を勤めたて明和四年死去した。その跡を嫡子鉄五郎(のち官蔵、天明四年死去)━鍋八(のち要右衛門、花巻蔵奉行、文化十五年に死去)━泰助(のち要右衛門、九右衛門、与右衛門、金奉行を勤め安政二年隠居)━丹宮吉冨(のち荘助、先供)と継いだ。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)に据えられた。。明治十一年の士族明細帳には、吉冨は下米内村(盛岡市)に住居と書上げている。その跡を豊次郎、剛、俊と相続、当主の侃三氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の久昌寺にある。


 江釣子氏略系図
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