大沢 おおさわ

大沢壮庵家 200621



 明治元年の支配帳に大沢壮庵家がある。『参考諸家系図』は大沢吉之丞親行の二男宗恕親照を祖と伝える。宗恕は吉田宗順(一書・八角宗積)について医術を学び、開業医となり享保十四年死去した。宗恕に嗣子がなく実弟(親行六男)宗貞順灼が家業を継ぎ、次いで元文二年小児医として召出され二人扶持(高十二石)を食禄した。延享三年死去した。その跡を宗益順詳が相続、寛延三年死去した。その跡を宗順(のち宗円)が相続した。宝暦五年の支配帳に三人扶持(高十八石)大沢宗順が見える。これまでの間に一人加扶持があったことが知られる。同十三年宗円が死去して嫡子宗貞が相続した。宗貞は幼少での家督のため二人扶持を食禄し、親戚八角株桜の叔父八角泊週が看抱となった。安永九年泊週の看抱を停止し直勤となり、寛政二年死去した。その跡を嫡子宗貞が相続した。文化五年診医師格、文政五年奥医師として散見する。天保十年奥医師宗貞の子医師宗助が見える。同十二年の盛岡藩支配帳によれば四人扶持とある。直近の加増と見られる。安政四年死去した。嫡子宗順は病弱届を以て嫡孫承祖を願い出て同年死去した。その跡を嫡孫宗泉が祖父の家督を相続した。文久三年三ヶ年の暇を得て江戸に登り西洋医学所に入学。入学中診医師加となり江戸下屋敷番医を勤めたが、元治元年病から療養を命ぜられ、帰国して同年死去した。その跡を実弟壮庵(のち省三、俊郎)が末期養子となり順相続をした。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳によれば、当時下小路十七番屋敷に住居。同二十三年死去した。その跡をトミ、その夫繁と相続、その子で当主の隆氏は東京都に在住する。同家の墓地は古くは盛岡市愛宕町の正傳寺、中頃から同市南大通の円光寺にある。

 嫡家・大沢佐右衛門家の由緒

 諸士リスト(う?お)

 盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる