大沢 おおさわ

大沢佐右衛門家 200621

 明治元年の支配帳に大沢佐右衛門家がある。『参考諸家系図』は閉伊十郎行光後胤大沢与右衛門秀久を祖と伝える。

明治元年の支配帳に見える同族は当家の外四家を数える。
一、七十五石四斗六升九合   大沢佐右衛門 (当家)
一、十四石          大沢貫平家
一、二十四石         大沢長左衛門家 
一、二十四石         大沢壮庵家
一、二十四石         大沢啓八家

 『系胤譜考』によれば、嫡家(当家)佐右衛門家は弘安八年の閉伊郡傳領の書および暦応二年の石塔義房軍勢催促状を所持し、代々閉伊郡大沢村(山田町)に住居。在名によって大沢氏を称した。戦国末期、大沢与右衛門秀久は南部信直より旧地を以て大沢村に二百石を食邑、その子勘解由久親は信直の時に家督を相続、五十石となった。その子甚右衛門(のち勘解由)義業は花巻に住居していたが、その由緒によって前禄を停めて、新たに稗貫郡鶴子谷地新田百石を食邑した。長左衛門家は久親の二男与作義道の二男長左衛門久豊を祖とする家。貫平家は義業の二男吉之丞親行を祖とし、壮庵家は親行の二男宗恕親照を祖とする家である。啓八家は同じく親行の四男喜兵衛親房を祖とする家である。右のほか藩雑書によれば、慶安・承応の頃に大沢吉右衛門が散見する。家筋は未詳である。

 『参考諸家系図』によれば、大沢氏中興の祖・与右衛門秀久は、南部信直より旧地を以て大沢村に二百石を食邑、その子勘解由久親は信直の時に遺領の内五十石の家督を相続した。その子甚右衛門(のち勘解由)義業は花巻に住居していたが、その由緒により新たに新田百石を稗貫郡鶴子谷地に食邑した。大迫通代官を勤めた。参考諸家系図は寛永中死去としてあるが、正保三年の支配帳には「六十三石・大沢甚右衛門」があり、藩雑書は慶安三年十二月に勘解由死去を記録している。その跡を慶安四年に嫡子長四郎(同家過去帳は清三郎)義晴が遺領六十三石の内五十石を相続、慶安支配帳には花巻給人で散見する。小姓、黒沢尻番所番人を勤め寛文七年死去した。その跡を嫡子清助(のち甚右衛門、与惣右衛門)久義が幼少で相続した。宝永二年切添新田二十五石を加増され高七十五石となった。大工奉行、沢内通代官、安俵高木通代官を勤め享保十九年に死去した。その跡を嫡子甚之丞(のち甚右衛門)久勝が相続、延享三年に死去した。その跡を嫡子弥太郎(のち甚右衛門)久吉が幼少で相続した。のち歩行火の廻り、隅屋敷取次を勤めて宝暦五年隠居。天明四年死去した。同家過去帳に亥左衛門死去と見えるが、隠居名であろうか。その跡を日戸宇右衛門秀治の四男甚太夫(のち甚右衛門)久清が養嗣子となり相続した。下屋敷取次、本丸末、貞林院取次、新丸末取次、石間屋敷取次などを勤めた。宝暦五年野州(栃木県)日光本坊の修復普請手伝いの時、現地に赴き従事した。安永四年に隠居して文化三年死去した。その跡を横浜金左衛門の二男条助(のち佐兵衛)が養嗣子となり相続した。天明四年死去した。その跡を源五平(のち源吾兵衛)が相続、文化二年に死去した。その跡を鉄之助(のち佐右衛門)が相続した。安俵高木通代官、二子万丁目通代官、世子南部達次郎(のち利義)相手などを勤め嘉永三年死去した。その跡を冨太(のち佐右衛門)久成が相続、八幡寺林通代官を勤めた。明治二年死去。その跡を嫡子冨五郎(のち達夫、達郎)久一が相続した。同八年当時馬町に住居、同十七年に死去した。その跡を旧盛岡藩桑田権利者名簿によれば、チヨ━キヨ━マサ━タケと女系が継ぎ、現在ヤエ氏が継承し盛岡市に在住している。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の正傳寺にある。高七十五石四斗六升九合の采地は、寺林通湯本村(花巻市)に領していた。

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