太田 おおた

太田長助家 200711101082

 明治元年の支配帳に太田長助家がある。『参考諸家系図』は太田源太夫忠経の四男儀右衛門忠庸を祖と伝える。忠庸は宝永二年徒に召出され六駄二人扶持を禄し、その後享保元年士班に列した。先供、次役を勤め同十二年死去した。その跡を惣家太田源四郎忠康の二男源五忠倚(のち金十郎、儀右衛門、忠左衛門)が養嗣子となり相続した。火廻り、別段廻り、記録所雇物書を勤めた。寛延三年に隠居し、天明元年死去した。その跡を宮古給人高橋平六直養の三男伊八郎(のち友右衛門、伊兵衛、丹右衛門)が相続、礼帳物書、下屋敷取次、隅屋敷取次、角屋敷取次、石間屋敷取次となり、この間に支配帳直し御用を勤めた。天明五年寸志金を献納、四駄三人加扶持、十駄五人扶持(高五十石)となった。寛政八年足高収例により、安永三年以来の足高を収められ元高の六駄二人扶持となった。その後大工奉行、作事奉行などを勤め、享和二年隠居、文化元年に死去した。その跡太田作右衛門秀邦の弟勇作忠義が相続、北地締役を勤めた。戸田一心流劔術を実兄太田作右衛門秀邦より請け継ぎ、中村専作貞宜に継承。天保七年死去した。その跡を嫡子勇助(のち長助、長治)重賢が相続。先供、雇勘定方、奥錠口番、追手門番、雇勘定方田名部山奉行兼帯、維新後は補長などを勤めた。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となる。明治十一年の士族明細帳によれば、当時大沢川原五十八番屋敷に住居。嫡子熊太郎(のち勇助)は明治三年藩学中級生と見える。その後、重賢の家督は嫡子勇助━俊二と相続、その子で当主の博道は埼玉県に在住する。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。


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