葛西 かさい

葛西正兵衛家 210331


 明治元年の支配帳に葛西正兵衛家がある。『参考諸家系図』は葛西三郎清重の後裔葛西左京大夫晴信を祖と伝え、四家ある家の宗家である。一時滅亡のため家系に関する所伝は諸説錯綜している。

一、三百四石九斗八升四合 葛西正兵衛家

一、百石         葛西市右衛門家
一、十二石        葛西武一家
一、二十二石       葛西進八家

 晴信は永禄三年家督を相続し、牡鹿、登米、本吉(以上宮城県)、気仙(宮城・岩手県)磐井、胆沢、江刺(以上岩手県)の七郡と桃生郡の東部、栗原郡の東北部(以上宮城県)を領有して登米郡寺池城(宮城県登米町)にあったが、天正十八年に豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易となり滅亡した。この時妻子四五人は家臣宮沢藤兵衛を倶して登米を落ち、閉伊郡遠野に潜居、宮沢藤兵衛の扶助を得て同地に死去した。その子勝兵衛晴勝は父晴信と倶に遠野に隠れ、藤兵衛の介抱により年序を送ったが、慶長三年主従三戸に到り、南部家の客分となった。同六年新に七百石を知行し、采地は五百石を和賀郡浮田村に、残り二百石を毒沢村(以上東和町)に食した。同年和賀岩崎陣に従軍、先手を勤めた。同十五年二百石を減ぜられて五百石となり、采地を稗貫郡久野目村、膝立村(以上花巻市)に食邑した。同十九年大坂冬の陣には乗掛供衆として従軍した。寛永六年三戸で死去した。その跡を嫡子正兵衛晴易(庄兵衛とも)が相続、この時に家臣となった。同十一年主家南部重直に従って将軍徳川家光の上洛に供した。同二十一年と奥附のある支配帳には五百石・葛西勝兵衛、正保三年改の支配帳には五百石・葛西正兵衛で見える。使番、同心頭、三戸城代などを勤め、寛文二年死去した。その跡を嫡子正兵衛晴綱が家督。遺領の内高三百石を相続して同十一年死去した。その跡を嫡子宇内(右内とも、のち唯右衛門、正兵衛・庄兵衛とも)が相続した。時に四歳、幼少を以て祖父晴易の弟・平右衛門延貞の子である大叔父葛西平左衛門晴宗が藩命により後見となった。天和二年から自分勤めとなり、のち用人を勤めた、のち新丸番頭の家格に昇進した。時期未詳であるが七石の加増あり、その後宝永二年に畑返新田五斗四升四合を加増されて三百七石五斗四升四合となった。享保三年に隠居、寛延二年死去した。その跡を嫡子左兵衛晴茂(のち正兵衛)が相続した。晴茂は宝永七年部屋住料三人扶持と四季施若干を給与せられ、享保三年家督。用人、次いで新丸番頭を勤めた、この間、享保二十一年の国役大井川(静岡県)普請手伝いには添奉行として現地に従事し、延享四年桃園天皇の即位礼には朝廷への使者を勤めた。宝暦十二年世子信濃守利謹の守役となり明和二年現米五十石を加増、高三百五十七石八斗となった。同年死去した。その跡を嫡子右内栄晴(のち正兵衛)が相続。用人、花巻城代を勤め、同六年父晴茂が加増の現米五十石を弟唯右衛門に分地して高三百七石八斗となった。明和八年世子信濃守利謹の側用人となったが、安永四年世子廃嫡の責任を以て隠居蟄居の上、高三分の一取上となり、残り二百石となった。のち天明元年罪を許され、寛政九年死去した。安永四年その跡を嫡子正之丞晴房(のち左兵衛)が相続、新丸番頭を勤め寛政十年死去した。晴房に嗣子がなく、奥瀬要人の三男寛治晴愛(のち正兵衛、庄兵衛、右仲、主水)が養嗣子となり相続した。花巻郡代、用人、側用人を勤めて文化十二年に隠居。同年死去した。晴愛にも嗣子なくその跡を奥瀬治部満五郎が養嗣子となり相続。文政五年死去した。その跡を未だ二歳の幼少であったが長男喜代太(のち右仲)が相続。天保十一年高祖父栄晴の名誉が回復されて金方百石を加増、高三百七石八斗に復した。同十三年嗣子なく死去した。その跡を漆戸勘左衛門の弟算助(のち琢磨)が末期養子となり相続、新番頭を勤め安政元年隠居した。その跡を南部左近の弟橘五郎(のち正兵衛、正兵、貫一)が相続、新番頭を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、貫一は当時鷹匠小路四十一番屋敷に住居と見える。その跡を七郎━武雄━洋子と相続、当主の玉は盛岡市に住居している。歴代の墓地は晴綱代まで盛岡市北山の聖寿寺、晴時の代以降は同地内東禅寺にある。高三百七石八斗の内、地方二百七石八斗の采地は二百石余を高木通鷹巣堂村に、四石余を同通倉沢村(何れも東和町)に食した。

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